近藤春樹
目次
はじめに
父の生い立ち
S.P.フルトン校長のこと
西の丸伝道所赴任
戦中・戦後
遺産相続
母の生い立ち
母の兄弟たち
父と淀川キリスト教病院(淀キリ)
伊丹時代
前原聖書集会のこと
全人の癒しのためにー近藤診療所と西谷聖書集会のこと
おわりに
【はじめに】

わが家が主イエスを救い主とすることが出来たのは、父と母それぞれに神様のお導きにより信仰が与えられた恵みによる。しかし父も母も信仰ゆえに家から勘当されることとなった。
そのおかげで今日まで、わたしたち家族は親戚付き合いも少なく仏教儀式にかかわることは多くはない。
妻稔代の母たみは教会に連なっていたが彼女の死に際しては、家族にクリスチャンはいなかった。しかし義兄の寛容な計らいで村ではめずらしいことであったが、キリスト教で葬儀を行うことが許されたことを感謝している。
地域や社会の中でクリスチャンは、冠婚葬祭に於いて異教との関わりがいつもつきまとう。このことは日本伝道の課題でもある。歴史的に見て日本でも、クリスチャン人口が仏教徒以上に多かった時代があったと言われる。キリシタン禁令と過酷な弾圧は、このことに恐れをなした秀吉の方策であった。
明治維新により日本にも欧米文化が取り入れられるようになった。しかしキリスト教に関してはこの国は過去の精神風土を受け継いだ。第二次大戦後ようやく信仰の自由が憲法でも保証されるようになったが、かといってキリスト教が国民を導くまでにはなっていない。先に召されたわたしたちは、世に勝つ主イエスの復活信仰をもって主から委ねられた光栄ある責務を全うしたい。
【父の生い立ち】

父利夫(明治43年生まれ)は徳島県石井町浦庄村諏訪にある農家の次男として生まれた。近藤家は百姓でも、一応は名字帯刀をゆるされた村の庄屋だった。父は頭も良くて、幼少の頃は村の神童と言われたらしい。兄・利一とは12歳の開きがあり、この間に姉が一人と妹二人がいた。
祖父は角五郎と言って、父を非常に可愛がったそうである。

父は旧制徳島商業学校にはいり、この学生時代に米国南長老教会派遣のC.R.ジェンキンス宣教師から英会話と信仰を戴いた。
【父の献身】

祖父は父に大いに将来を期待していたそうだが、商業学校を卒業すると、父から牧師になるため神学校に入ると告げられ、祖父はその当時の田舎の因習に逆らうこともできず、牧師になるなら親子の縁を切ると、勘当を告げた。しかし二度と家の敷居をまたぐなと言うほどの絶縁ではなかったらしい。その後、長兄利一の娘(誠子さん)を高松時代の伝道所で下宿させたりして、当時の教会員のクリスマス写真にも赤ん坊のわたしとも一緒に写っている。
わたしたち兄弟も戦争中は父の郷里・浦庄村諏訪に一時期疎開させてもらった。この頃の記憶も大変懐かしい。
30年以上も前になるだろうか、父の存命中に一度、わたしの運転で里帰りしたことがある。それ以降は気になりながらも、まったく没交渉であった。
先日、戸籍を見ることがあって、父の出生欄を頼りに電話番号を調べ、誠子さんを呼び出した。まだまだ元気な声が返ってきて嬉しかった。
【S.P・フルトン中央神学校校長】

晩年の父は、惚けがでていたためか、生まれ故郷に帰った話をよくした。
父は、SP・フルトン中央神学校校長が病に倒れたときに、校長は「自分は間もなく故郷に帰るでしょう」と語ったこと、それは生まれ故郷のアメリカでなく、天の御国に帰ることだったとよく話してくれたが、そのような話を私たちも期待したが、徳島の田舎の夢をいつも晩年はみていたようである。1989年12月8日、父が天に召されて、早や10数年を経る。
人間として望郷の念は、信仰ゆえに故郷を捨てて牧師となったが、今わたしが父を懐かしくおもうのと同じくらい、父も生まれ育った故郷を懐かしんだことを、責めることはできない。フルトン校長は神戸諏訪山の外国人墓地に葬られている。
【西の丸伝道所赴任】

金銭的援助を親から一切受けることなく、独力で宣教師から学んだ英会話を武器に神学校卒業までの学費と生活費を稼ぎながら、牧師となり高松にある旧日本基督教会の高松教会西の丸伝道所に赴任した。赴任時に母登志子と結婚したが、私はこの伝道所で長男として生まれ、2歳違いの弟和夫もここで生まれた。戦争が始まる1941年までの5年間を高松で過ごした。
【戦中・戦後】
父は軍事政権による教会合同に危惧して牧師を辞め、わが家は神戸に移り住むこととなった。父は英語力を生かして神戸にあるタイ国領事館で名誉領事・榎並氏の秘書としてつとめ、須磨にある榎並邸の近くに住んだ。父はその後、終戦まで坂東調帯というベルト会社に勤め、住まいも長田区前原町に移った。ここで私たちは小学校から大学入学までを過ごした。
戦後、父は進駐軍の通訳として警察にも勤めた。その後柏原で山口産業という電球を入れただけの電気こたつをつくる工場を共同経営者として起こしたが、これが見事倒産した。銀行の借金を完済できたのはわたしが医師になってからで、わたしの給料からも少しづつ返済したのを覚えている。
【遺産相続】

終戦後すぐ、父利夫は祖父角五郎の命日に徳島の実家に帰ったとき、遺産相続は一切固辞したが、記念にと近藤家に伝わった大小一振りの刀を持ち帰った。これはかって庄屋として名字帯刀を許された近藤家の証であるが、唯一我が家に受け継がれた近藤家の目に見える遺産である。長刀は戦後父が通訳として警察で働いていたとき、米軍人にプレゼントしたので短刀しか今は残されていない。それも私たち兄弟が子供の頃に遊びで木に切り付けたりして刃毀れ著しく錆びも出ている。
【母の生い立ち】
竹中半兵衞重治の墓
母登志子(明治45年生まれ)は晩年は惚けてしまって、最近のことは全く理解できないが、昔のことはよく繰り返し話してくれた。伊丹教会の河内長老と同郷の津山の出であって、信長と秀吉に仕えた軍師・竹中半兵衞の末裔であることを自慢にしていた。先日、津村長老の案内で三木市平井にある竹中半兵衞重治の墓を訪れた。少し半兵衛が身近に感じられるようになった。早死したクリスチャンの祖母の影響で、母は女学校時代にメソジストの教会で洗礼を受けた。

「徳森神社の娘がヤソになった」と評判だったそうだ。それで母も家に居辛くなり早くから自活した。もっとも母は9歳で実母を病で亡くし、その後継母に育てられるのが、面白くなかったのかもしれない。母の父は、一攫千金を夢見ていろんな事業に手を出し、それが悉く旨くいかずいつも生活は苦しかったようだ。
【母の兄弟たち】
実の弟(重治・支那事変で戦死)と妹(千鶴・私の叔母)も洗礼を受け教会につながっている。しかし、腹違いの弟・竹中一治さんは、コチコチの国粋主義者で、戦後は防衛大学校教官までしたほどだが、母とよく激論をしていたのを思い出す。いまも津山の竹中家の墓を守って下さっている。今81歳の叔父さんは、老人ホームに住まう母・登志子を時々、東京からひょっこり出てきて見舞ってくださった。
竹中一治さん
この叔父は当時伊丹の自衛隊総幹部に奉職し、広畑に家を持っていた。しかし転勤が多くここには母の父・重徳夫婦がすんでいた。重徳の妻が先に他界し、もう一人の弟・重人も若くして相次いで死んだので、母の父・重徳は独居老人となった。そこで母が父・重徳を引き取り、同時に伊丹の家をわたしたちの両親が退職後の住まいのためにと、父は病院の退職金を先払いしてもらって買い取った。
これはわたしたち家族が淀川キリスト教病院の社宅に住んでいたときのことで、母の父、私たちの祖父になる竹中重徳は母のもとで最期を迎えた。死ぬ前に大阪教会で洗礼も受けた。母は元気なころは伝道熱心で、沢山の友人を教会に誘っている。母・登志子、2005年4月30日召天。93歳であった。
【父と淀川キリスト教病院(淀キリ)】
父が薄給の牧師であったのでわが家の家計はいつも苦しかった。お蔭で母はやり繰りや廃物利用がうまかった。淀キリ奉職のときも、まだ病院が小さく、父は事務長として自分の給料だけを高くすることもできず、幸い私たち息子二人は公立の大学に入れたので、父も喜んでくれた。わたしも何とか公立の医大に入学を許され、桜の美しい入学式の前だったが、旧篠山連隊を学舎にした医学進学課程のある兵庫農大を父と下見に行ったことを懐かしく思い出す。
この農大の佐伯副学長は、入学面接試験で父の職場が淀キリであることを何故か詳しく尋ねられたことを覚えている。入学後に、わたしが篠山教会でお世話になり、佐伯先生ご一家は熱心なクリスチャンであることを知った。ご一家とは、今にいたるまで、何かとお交わりを許されているのも、不思議なご縁である。
わたしが医師になり、神戸医科大学の藤田外科教室に入局したが、後任に赴任された光野孝雄教授の兄上がキリスト者医科連盟の大先輩で、熱心なクリスチャンであられた。その兄の感化を受けられたそうで、光野教授も退官後、洗礼を受けられた。光野教授に従って岩手大学から一緒に来られた九大出身の白方講師(当時)が、クリスチャンであられたのも、不思議なお導きで、学位の指導のみならず今日まで大変お世話になっている。
白方先生は後に淀キリの院長に招聘され、経営的に苦しかった病院を立派に建て直された功績は特筆すべきである。この淀キリは戦後米国南長老教会婦人会の誕生日献金で建てられたもので、今や本院400床と第二病院200床加えて100床の老人保健施設を有する地域の基幹病院になっている。白方院長の推薦もあり、わたしは同病院の理事会にモ−ア宣教師やかってはスタブス宣教師といつも同席を許されていることは感謝である。
父が淀キリ設立に関わり、初代院長F・ブラウン先生を助けて献身したことは今、父の年以上になっても、わたしには到底出来ない偉大な仕事を成し得たものだと、父を尊敬している。

父は淀キリを定年退職したが、その頃、伊丹市内で新たに家具会社を起こされた山口光義兄に請われ、同社の顧問として、その後約10年間働かせていただいた。この友愛社は、大衆家具製造では日本有数の企業として成長し、今日、2代目社長山口巌さんに受け継がれている。父・利夫は1989年12月8日天に召された。
【伊丹時代】
わたしたちが伊丹に移ったのは、父・利夫が淀川キリスト教病院を退職し、かっては母の父・重徳が住んでいた所に転居して間もなくの頃でした。丁度父母の住む家の向かいが空き家になるということで、この家を、当時わたしが勤めていた金沢三宮病院の理事長から300万円借金をし、手持ちの200万円と合わせて500万円で購入できた。

こうして伊丹に住むことになったのであるが、これは長女の春代が一年生の時だった。
これはスタブス宣教師が開拓伝道を伊丹ではじめた頃のことで、すぐさまスタブス宣教師がわたしたちを訪ねてくださり、わたしたちも神戸長田教会から伊丹伝道所に転会することになったのである。約500万円で購入したものが約30年後、5000万円で売却できた。これをもとに、いま西谷に駐車場も十分とれたわたしたちの診療所ができたのも、これは神様の御計らいであり、ここに伝道所を開くことは、父が牧師として成しえなかった願いでもあるように思う。
【前原聖書集会のこと】
我が家が高松から神戸に移り住み、始め垂水で過ごし、後に長田区前原町に移り、わたしは小学校から大学までここで生活したが、父の事業が倒産したとき、神の助けがわが家に差し伸べられた。
それは、当時、中国大陸では、共産党革命で毛沢東が勝利し、蒋介石とともに宣教師たちも追い出した。中国で働いていたWilfred C. Mclauchlinマクラクリン宣教師(現宗教法人神戸基督教改革宗長老会初代宣教師)が、神戸の中国人に伝道するため遣わされ、父にその手伝いを任された。この時、わが家においても前原聖書集会が始められた。狭い家に、日曜学校の子供たちが一杯集まった。またこのとき母の友人であった山田房枝姉が未信徒であった山田健太郎兄を集会に伴い信者になった。
健太郎氏の母タミ姉も一緒に洗礼を受け、同じ日に高校2年生であったわたしもH.ボ−チャ−ト宣教師の司式で信仰告白をした。山田家にあった仏壇を丸山の奥にある烏原水源地に注ぐ川原で焼き捨てたのを感慨深く思い出す。



父が神戸で中国人伝道の手伝いをしているときに、淀キリ設立の計画があって、父にその協力依頼が来た。これを機に、前原聖書集会は閉鎖することとなり、山田健太郎長老一家は板宿教会に転会し、わたしたちは長田教会の会員となった。
山田家一家の信仰は、長女陽子姉が山崎牧師夫人として、次男憲正兄も板宿教会の長老として奉仕されている。また憲正兄の夫人美穂姉は伊丹教会執事として良く奉仕され、西谷聖書集会のオルガン奉仕もしてくださっている。
健太郎兄は長らく板宿教会長老としてまた大会の会計担当として重荷を負われたが、90歳近くで病に伏し自宅で憲正・美穂兄姉のお世話で療養生活を過ごしておられた。早くに長男浩之兄を事故で召され、妻房枝姉にも先立たれ、次女圭子姉も先頃病死され、まさに心中はヨブの如しと思われるが、「主が与え、主が取りたもう。主の聖名はほむべきかな。」との信仰をもって心静かに耐えておられた。健太郎長老は去る2004年12月3日94歳で召天された。
【全人の癒しのためにー近藤診療所と西谷聖書集会のこと】
わたしの人生の歩みはすでに終盤に入っているが、父母から与えられた信仰の遺産をこれからも大事にして、神様に栄光を帰すことができるよう祈り願うのである。
わたしたち夫婦に3人の娘が与えられ、それぞれに信仰の遺産が受け継がれ、主の民の一員に加えられていることは感謝以外のなにものでもない。
勿論、両親も私たちも、子どもたち、孫たちも、罪の残滓を残して人生を終えるが、なお救い主イエス・キリストをとおして与えられた神の愛のゆえに天国の民として召されているこの信仰の遺産を、後々に伝えてほしいと願うのである。

 
この地、西谷に移り住むことになったのも、思えば自分の意思以上の力が上から働いて、今に導かれていることを覚えるのである。約20年以上にわたってこの西谷で働くことを許され、長年一緒に働いた看護婦住家敬子さんの実家の宅地跡を譲って頂き、ここに開業を許されたことも感謝している。このときから、医療と福音宣教に重荷をおって家内と、また娘信代が協力してくれていることを感謝している。事務職にも長年気心の知れた辻栄子さんを与えられて感謝している。父の時代から親しくして頂いている友愛社の山口光義会長には銀行の保証人を引き受けていただき、森田泰助社長にはわたしの開業の手助けを奉仕的にやってくださったことも神様の奇しきお計らいの賜物と感謝している。よそ者には排他的な村であるが、ここ下佐曽利地区は大変住みやすいところと思う。森田社長一家が隣に住んでいることも、なにかにつけて心強い。森田夫妻はまた西谷聖書集会に集会開始より熱心に出席して、受洗の恵みに預かった。奏楽を喜んで奉仕して下さる田村依子姉その他、集会に熱心に協力して下さる主にある兄弟姉妹たちも与えられ感謝である。
【おわりに】
父が牧師として召され、後には米国南長老教会の日本における最初の病院建設に関わったが、父は終生牧師としての肩書を大切にしていた。
そんな父のお蔭で、幼児洗礼を父の牧する高松教会西の丸伝道所宣教師のマンロ−師より受け、信仰告白をハロルド・ボ−チャ−ト師に、また伊丹教会の土地購入に際しては、父がV・スタブス宣教師を助け、今西谷聖書集会にはウイリアム・モ−ア宣教師夫妻とともに働かせて頂いている。誠に小さな器であるが、この器を主の恵みで溢れさせて戴きたい。この西谷の地に主イエス・キリストの聖名を置く教会を伊丹教会またアメリカの教会の主にある兄弟姉妹の祈りに答えて主がお建てくださることを切に祈りつつ筆を置く。 母登志子の召天を記念して、2005.5.2。
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