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第二戒:あなたはいかなる像も造ってはならない
西谷聖書集会2004年2月22日

【偶像と彫像】
ある米軍兵士が久しぶりに基地のチャペルへ行って礼拝に出席しました。そして、その日の説教の課題は十戒でした。十戒の事を新たに聞いて自分の足りない生活の事実を実感しました。実は、ほとんど全ての戒めに従わず、自分が本当に罪深い人だと思ったのです。主の名をよくみだりに唱えてしまいました。安息日も守りませんでした。また、父母もあんまり敬えなかったのです。十戒を考えますと反省の気持でいっぱいでした。「僕は駄目だ。戒めを全部破ってしまった。私の生活を今日から変えなくちゃ」と思いながら急にほっと溜息をつきました。なぜなら、少なくとも一つの戒めを確実に守って来たと思い出しました。それは「あなたはいかなる像も造ってはならない」の事です。「確かに僕は像を造った事が全くないから、十戒の二番目の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」をちゃんと守って来たはずだ。俺は美術家じゃないから、彫像だけは絶対に彫れない」とひとり言を言いながら満足して、喜びました。

表面的に見れば、今日の課題、十戒の第二戒はちょっと誤解しやすいと思います。「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言う意味は何でしょうか。珍しいですが、ある宗派はこの戒めの文字通りの意味に従って像を造らないだけではなく、写真もとりません。信者の生活に像や絵や写真などは禁じられています。またある教派は立体的な像を拒否するけれども、絵を許します。しかし、本当に、この戒めの目的は私達の生活から彫像や絵を取り除く為でしょうか。じつはそれは偶像礼拝を禁じる訳であります。この第二の戒めは先週学んだ第一の続きなのです。第一戒はこのようになります。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」そして、第二戒は第一戒を説明します。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」そして、今朝の聖書の朗読に記された通りに続いてこのようになります。「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」
間違いなく、全能の唯一の真の神は、この戒めによって古代イスラエルと私達にも偶像礼拝をしないようにはっきりと教えて下さいます。つまり、この戒めは偶像礼拝に対して注意となるものです。

【偶像礼拝の危険な罠】

イスラエルの周りの民族は偶像を造って拝みました。自分の神々の形を彫って礼拝の時それにひれ伏しました。大抵その偶像は金や銀などで造られ、人間か動物の形をとりました。イスラエルの人々はその事を見て自分の神を形で現したかったのです。形を持ってない霊である唯一の神の像を造ろとしました。霊を拝むよりも素敵な目に見える物を礼拝したがりました。しかし、その事には大きな危機があったのです。だからこそ全能の神はこの「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言う戒めを授けて下さいました。その大きな危機は何でしょうか。実は、神の像を造る事によって神を小さくする危機があります。始めもなければ終わりもない、天地万物の創造主は何よりも力強い大きいお方なのですから、神の像を造って拝むのは結局侮辱になってしまいます。無限な神に限界を作ってしまう訳です。また、もし人が神の像を造りあげると、やがて神をコントロール出来ると思いがちになります。もちろん人間は全能の神を左右する事が不可能ですが、神の像を造れば、そう言う大事な真理を忘れやすいです。像を簡単に動かせるように神をも動かせると思い込んできます。さらに、神を現す為に偶像を造る人は、ついに生ける神を礼拝する代わりに力のない空しい神の像、その物を礼拝してきてしまいます。色々な危険性がありますから、偶像を造って、拝んではなりません。

イスラエルの偶像礼拝】
旧約聖書のイスラエルの人々は偶像礼拝の事で辛い経験がかなりあったのです。つねに周りの民の偶像を憧れ、自分たちの為にも神を現すような像を造りたかったのです。一つの有名な事件を思い出します。それは聖書の出エジプト記32章に記されています。イスラエルの民族は全能の神の力によって、エジプトの奴隷の家から導き出された時です。エジプトから約束の地カナンまで旅中の事件ですが、自分たちのリーダー・モーセは神から律法を受ける為シナイ山に登りました。モーセがいない間に人々は彼の兄弟アロンへ行ってこのように頼みました。「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」(1節)そして、皆は喜んで金の耳輪を寄付して、アロンはそれから子牛の彫像を造りました。その偶像を見て人々はこのように宣言しました。「イスラエルよ、これこそあなたをイジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」そうすると群集はその子牛の像を拝みました。モーセが山から下りてそれを見ると大変怒りました。救い主である本当の生ける神とその戒めをすぐ忘れ、偶像を造るなんて信じられませんでした。モーセは子牛の像を取って粉々に砕いて、水の上にまきちらし、罰として人々に飲むように命令したのです。


イスラエル人は周りの人々と同じように偶像を受け入れ拝むのは、また他の恐れがありました。それは少しつづ周りの民族の宗教を真似して、そのうちに真の信仰を失ってしまう事です。だんだん他の宗教の魅力のある習慣を取り入れると、いつか天地万物の造り主、唯一の神を忘れるかも知れません。おもにその為にモーセは怒って人々を厳しく注意したと思います。
私達もこの事で気をつけなければなりません。ある人は良い事であるのなら、色々な宗教から良いとされるものをどんどん受け入れれば良いとします。本当に好きな事だったら、この宗教からあれを取って、他の宗教からそれを取ります。信仰はただ個人の好みの問題と思って何でもかんでも許します。もし心から信じるならば、それは自分には真理になると言う立場です。しかし、その考え方は極めておかしいです。なぜなら、信仰の事でも絶対的な真理があります。また、偽りの信仰もあるのです。

【危ない薬】
考えて見て下さい。お客さんは自分の家にいらっしゃる時、頭痛になってアスピリンをくれるように頼まれました。しかし、薬箱をよく見るとアスピリンがなくなったと分かります。どうしますか。もしお客さんはどんな薬でもアスピリンだと信じ込んで飲めば頭痛が治ると信じるとするならば、アスピリンがなくなったからてステロイドか抗生物質を持ってお客さんに飲ませますか。とんでもありません。それは危ないです。
 イエス・キリストはこのように言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」(ヨハネ14:6)神には沢山の道がありません。さまざまな宗教的真理もありません。また、真の命を下さる信仰は多くはありません。神の独り子イエス・キリストを通らなければ、誰も愛する父なる神のもとに行く事が出来ません。それは神の真理であるイエス・キリストの御言葉であるから、絶対の真理として信じられます。
「私は主、あなたの神。私は熱情の神である」と今日の御言葉に全能の愛する神がおっしゃいます。私達に御自分の全ての祝福と救いの恵みを授けるように主は熱情を持っておられます。ですから、あらゆる空しい道を捨て、真の神のみを信じ従いたいです。間違えなく、私達にはそれは「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言う貴重な神のメセージです。




第三戒:神の名をみだりに唱えてはならない―神のお名前
西谷聖書集会2004年5月23日

【名前について】
子供の名前の選び方は本当に面白いと思います。ある名前が流行して来ると、多くの両親はそのポピュラーな名前を自分の赤ちゃんに付けます。例えば、リエと聖子とイチロウなどです。好きなタレントの名前や憧れの選手の名前を借りて子供の一生の名前に付けたりもします。大抵そうゆうふうに選んだ名前はファッションのようで、人気がすぐ落ちてしまう事もしばしばあります。またある両親は名前を音で選びます。名前のリストから素敵に聞こえる名前を探し、あるいは自分で作ったオリジナルな名前を考え出します。そして、もちろんまたある両親は赤ちゃんの名前を選ぶ時、親戚や尊敬する友人やお世話になった人の名前をとって、名づけます。例えば、私の名前ウィリアムは両親の先輩から取りました。その医療宣教師を深く尊敬して、彼に敬意を表す為に私に彼の名前ウィリアムを付けました。しかし、私はウィリアムの元々の意味が分かりません。私にはウィリアムはただ両親から頂いた名前です。もし少し調べたら、その名前の古いフランス語の意味を知るようになりますけれども、あんまり興味がありません。何故なら、今までその意味は私には関係がありませんでした。ウィリアムはただ私の名前です。

【アブラハム】
その反面、聖書における人物の名前の意味はとても大事でした。実は、自分の名前の意味は自分に運命と一体感をくれたと思われました。つまり、自分の名前の意味は人生の上に大きな影響がありました。例えば、神様は旧約聖書の重要な人物アブラハムにその名前を下さいました。アブラハムと言う意味は「子孫の多いお父さん」です。アブラハムは子供がいなかった時に神様によってその名前を頂き、「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。私はあなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者達があなたから出るであろう」という約束を主から頂きました。(創世記17:5)
また、アブラハムの孫ヤコブの名前は「騙しをする人」と言う意味がありました。そして、その名前通りに彼は兄イサクから父の祝福を騙し取ってしまいました。

イエスと言う名前も大事な意味があります。それは「解放者」です。主イエス・キリストは御自分の十字架の贖い死を通して私達を罪の力から解放した下さいました。神の天使がヨセフの夢に現れて彼にこのように言われました。「マリヤは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)このようにイエスの名前の意味は大事で、御自分の使命と生涯のお働きを示されました。

【父なる神のお名前】
聖書には父なる神の名前が沢山あります。そのお名前の意味は御自分のidentity、御自分の御業を説明して下さいます。神様は御自分の名前をモーゼに啓示しました。それはヘブライ語で「ヤフエー」になります。その名前は御自分の実在と御臨在を強調する「私はある」と言う意味です。神様はモーセを呼んで御自分の民イスラエルをエジプトで奴隷の家から導き出すように命令した時、モーセはこのように主に言いました。「私は今、イスラエルの人々の所へ参ります。彼らに、『あなた達の先祖の神が、私をここに遣わされたのです』と言えば、彼等は『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼等に何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うが良い。『わたしはある』という方が私をあなた達に遣わされたのだと。」(出エジプト記3:13)

聖書には唯一の神の名前はほかにまたあります。例えば、「エル・オラム」、すなわち、永久の神です。「エル・シャダイ」は力の神です。「ヤフエー・ジラ」は授けて下さる神、「ヤフエー・シャローム」は平和の神です。この全ての神の名前は大事な意味があります。その上、聖書の思想によりますと、神の名前の中に主の存在と力があります。ですから、神の名前はただ呼ぶ道具ではありません。神、御自身の力と臨在はその名前にあると言う訳です。聖書によりますと神と神の名前は一つであります。

今朝、私達の十戒の学びを続けたいと思います。今まで第一戒、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」そして、第二戒、「あなたはいかなる像も造ってはならない」を学んで来ました。そして、今朝は第三戒、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」を一緒に考えてみたいと思います。

神の御名を「みだりに唱える」と言うことを禁じられたのはいったい何のためでしょうか。原文を見ると神の名前をみだりに唱える意味はおもに神とその名前を勝手に利用する事と神を軽んじる事です。

【カール・マルクス】
約190年前にドイツで自分のお父さんを非常に尊敬したユダヤ系の少年がいました。その少年は家族と一緒に必ず毎週ユダヤ教の礼拝堂に出ました。そのお父さんはユダヤ教の伝統を重んじてそれを自分の子供達にちゃんと教えました。少年が青年になったある日、お父さんは転勤になって家族そろって遠い町に移りました。その町の有力者みなはキリスト教のルーテル派の信者でしたので、お父さんは急にユダヤ教をすっかり捨てしまいました。そして、ルーテル教会の信徒になり、家族をその教会に連れて行きました。家族はお父さんに聞きました。「私達は何故ユダヤ教を捨てルーテル教会に行かなければなりませんか。」それは商売の為と説明しました。ルーテル教会の交わりを通して有力者の協力を得れば、きっと自分のビジネスが良くなると言う事でした。青年はそれを聞いて、ショックを受け、お父さんに大変がっかりしました。そして、そのがっかりは怒りと恨みに変わて、死ぬまでその気持ちを抱きました。
 やがてその青年は勉強する為にイギリスへ渡って、毎日、大英博物館で研究して本を書くようになりました。その本には新しい社会と政治制度について述べ、そして、お父さんの事を覚え、彼はこう言いました。宗教はだだ経済的利害の事で説明出来る「一般大衆の麻薬」であると説きました。ついに数え切れない程、多くの人はその人が作った思想によって苦しめられてしまいました。その人の名前はカール・マルクスで、共産主義はその新しい制度でした。不思議ですけれども、あの青年のお父さんが自分の経済的益の為に神の事を勝手に利用したのは、共産主義の始まりでした。つまり、そのお父さんは神の名前をみだりに唱えてしまいました。

私達の現実ではどうでしょうか。政治家は選挙で勝利を収めるように神の名前を勝手に使うと、主の名前をみだりに唱える事になります。さらに、為政者が戦争を弁明するように「神の為の戦争」と主張する時、確かに彼等は神の名前をみだりに唱えています。

第二次大戦の時、ドイツ軍の軍服のベルトの締め金にこの言葉が大きく書かれていました。
Got mitt uns.ドイツ語でそれは「神は私達と共にいる」と言う意味でした。言うまでもないが、ナチスが集団殺りくと侵攻の戦争の上に神様の祝福を主張するとき、神の名前をみだりに唱えていました。また、アメリカ人の政治家が自分の国を「神の特別に選ばれた所」と呼ぶとき、確かに主の御名がみだりに唱えられています。
 
【神の神聖な名前を軽んじてはならない】
勝手な目的を持って神と神の名前を利用してはいけないと言うのは十戒の第三戒の主な意味であります。
またこの戒めにはもう一つの意味があります。それは神と神の神聖な名前を軽んじてはなりません。実は、古代イスラエル人は神の名前を自分の口で全然述べませんでした。「ヤフエー」と言う名前はあんまり神聖ですから、御言葉を朗読する時ヤフエーの所になると、その言葉の代わりにいつも「主(アドナイ)」と言いました。

始めもなければ終わりもない唯一の全知全能の神は天と地とその中にある全ての物を創造して、今も宇宙を支え、治めて下さいます。神様は人間一人一人のことを大事に造って私達をつねに色々な祝福を授けて下さいます。さらに、主は罪人なる私達の永遠の救いの為に、御自分の御子イエス・キリストを賜る程に私達を愛します。ですから私達は何よりも、誰よりも神と神の御名を愛し尊敬すべきです。神と神の名前を軽んじる人は極めて高慢です。何故なら、自分が神よりも偉いと言う愚かな態度の現れであるからです。

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と言う戒めは私達誰でもすでに知っていると思いがちですが、毎日の生活において忘れる事もあります。どうか私達は全能の神を勝手に利用する事の代わりに、主に忠実に仕え、そして、神の御名を軽んじる事よりも、その名前を心から愛し、高く崇めましょう。


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