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第四戒:安息日を覚えて聖とせよ−あなたの為に定められた安息日 |
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西谷聖書集会2004年5月30日
【日曜日にゴルフをした牧師】
本当のストーリかどうか分かりませんが、ゴルフが大好きな一人の牧師がいました。あまりにも忙しくてゴルフをする暇がなかなかありませんでした。しかし、彼は自分のスケジュールをよく見て、やっと空いてる日を見つけました。しかし、残念ながらその日は日曜日、主の日でした。礼拝を守るべきであるにもかかわらず、ゴルフがあんまりにもやりたくて、神様に赦しを願いながら、まわりの知っている人の目を避けるように密かに遠い所にあるゴルフ場へと出掛けました。着いた時には、罪の意識を感じましたけれども、久しぶりの楽しみですから、すぐ忘れ、喜んでゴルフをやり始めました。
それを天国から天使がその牧師を見て非常に憤慨(ふんがい)しました。天使はすぐ神様の所へ行って、牧師の罪を神様につげました。すると主は「牧師の事は私に任せてくれ」と言いました。それから、ゴルフ場に強い風を吹かせました。そして、牧師がボールを打ち始めた時、その風はボールをホールの中までに吹きました。つまり、ホール・イン・ワンになりました。それは牧師にとって一生の始めてのホール・イン・ワンでしたので、大喜びしました。しかし、天使はびっくりしました。「それは主の日を破る者に、いったい何の罰ですか」と神に文句を言いました。すると「心配しないで下さい」と神が返事をして、またこう言いました。「牧師はそのホール・イン・ワンを儲けましたが、いったいそれを誰に自慢出来ますか。」主の日ですから誰にも言えない事でしょう。
今日は十戒の第四戒のところに着きました。それは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言う神の戒めです。私達はどういうふうにこの掟を守るべきでしょうか。例えば、主の日にゴルフをしても良いのでしょうか。そのような事を一緒に見てみましょう。
【「安息日」の意味】
しかし、先ずこの戒めの歴史的背景を少し学びます。「安息日」の文字通りの意味はもちろん休みの為の日です。ヘブライ語の原文を見るとその意味は「仕事をしない日」となっています。今日の御言葉をもう一度朗読します。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事をしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにある全てのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト記20:8〜11)
とても意味深い事ですが、安息日の手本は全能の父なる神の行為から取りました。つまり、神は六日の間に天地万物をお造りになって、七日目にそのお仕事を止め、休まれました。と言うのは、全能の神様さえ一週間の中の一日のお休みをお取りなったならば、遥かに弱い私達人間はもちろん安息日を取る必要があります。
エジプトにいる間、イスラエルの人々はその国の人の奴隷でした。休まずに無理に働かされて、大変辛い生活でした。それから、エジプトの奴隷から解放されても、労働者はあんまり休みが与えられませんでした。ですから、働く人の健康を守る為に神様がこの第四の戒めを賜って下さいました。
【私達の体と精神の健康のため】
言うまでもないが、私達人間は定期的な休みが必要です。そうしないと私達の体と精神はあんまり疲れて来て病気になる可能性が高いです。色々な科学者がこの問題を研究して、健康を支えるため、一週間の中の一日の休みは丁度良い労働と休みのバランスになるんだそうです。
時々マスコミに過労と過労死の例が出るのを見かけます。当たり前事ですが、何ヶ月間一日も休まずに夜遅くまで働かせた人は病気になり、あるいは死んでしまいます。私達は常に働く為に神様によって創造されませんでした。リフレシュと充電するように一週間の中、一日の休暇が必要です。
イエス・キリストはこの世を歩んだ時、安息日を守りました。主イエスは誰よりも忙しい者なのにちゃんと七日のうち、一日は仕事を止め、休みました。数多くの人々はイエスによって教えられたり癒されたりする為に待っていましたが、主は休みと礼拝で安息日を過ごしました。
アメリカ全国には大手チェイン店のチキン料理のレストラン、チク・フィレがあります。大変珍しい事で、そのレストラン全店はもっとも忙しい日、日曜日に閉まっています。その売り上げの大部分をもたらす休日に休むのは理由があります。オーナのツルエット・カーシさんはクリスチャンですから、自分と自分の社員の為に安息日の恵みが絶対に必要であると信じ、その方針で会社を始めから経営してきました。カーシ社長によりますと、もし月曜日から土曜日まで十分な利益が得られなかったら、その会社は神様の御旨の中にありませんと言いました。実際に日曜日の売り上げなしでも会社は大変盛んです。
やはり安息日は人間の益の為に神によって定められました。人間を造って、また私達を一番良く知っているお方は誰よりも私達のneedsが分かって、その戒めを賜りました。その戒めを破ると、きっと健康を損(そこ)なう恐れがあると思います。
【霊的な成長と魂の養いのために】
安息日が与えられた理由がもう一つがあります。それは礼拝と主にある交わりの為です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言う戒めですから、その日は神様に聖別されています。すなわち、神様の事に集中する日にもなります。私達人間は肉体的に作られた者だけではなくて、霊的な被造物でもあります。主は私達をそのように特別に創造されました。ですから、造り主と救い主である唯一の愛である神との健全な関係を絶対に必要とします。仕事と遊びであんまり忙しくなって神様の事を忘れるなら、そう言う良い関係が難しくなります。休む事によって体がリフレシュ出来るように、礼拝によって魂はリフレシュされます。
大昔、ある外国人はアフリカへ行って内陸の天然資源を調べようとしました。自分の荷物を運ぶ為に何人の原住民を頼んで、ジャングルの中に入りました。数日の旅をした時のある朝の事です。急に運び屋さんはもう進みたくないと言い出しました。どうしてもある所に一日留まりたがっていました。何故進みたくないのかと聞きますと運び屋の頭はこのように言いました。「私達はここまであんまり速く歩いて来ましたので、私達の魂が体に追い付くまで、ここで待たなければなりません。」
恐らく私達もあんまり忙しくなってうっかり魂の事を忘れているのではないでしょうか。日曜日の礼拝の時に御言葉によって魂が養われ、神様との関係に焦点が出来、私達は豊かになります。
ある人は教会での礼拝をあんまり重んじないで、他の所で神様に出会いたいと言います。神様の御臨在は何処でもありますから、家でテレビを見ながら、また川で釣りをしながら、あるいはカントリー・クラブでゴルフをやりながら礼拝が出来ると主張します。神様はもちろん海水浴場にもいっらしゃいますけれども、そのような所では神様に集中し難いと思います。確かに、日曜日になってもゴルフ場での祈祷会は稀な事でしょう。
新約聖書にはこの言葉が記されています。「イエスはいつもの通り、安息日にシナゴーグ、(すなわちユダヤ教の礼拝堂)に入りました。(ルカ4:16)」毎週の安息日に、イエス・キリストさえも礼拝に出席する必要性を感じたとしたら、私達弱い人間にももちろん必要だと思います。私達の霊的な成長と魂の養いの為に神様が安息日を賜りました。ですから、礼拝は日曜日の大事な一部になります。
また、日曜日に主にある交わりも大切です。主にある兄弟姉妹の交際が必要です。独りでのクリスチャン・ライフは非常に難しいですから、お互いに励ましと相手の事を聞く事は大切ではないかと思います。兄弟姉妹の証と信仰の経験から私達皆は習う事があります。そして、もちろん家族の者との交わりはなくてもならないものです。平日に忙しい人は日曜日に家族のきずなを強める時間が与えられました。
【良い行いをする日】
最後にまた日曜日は良い行いをする日になります。ある安息日に、イエスは病気の人を癒した為、ユダヤ教の指導者からの批判を受けました。その癒しの行為は安息日に禁じられた労働と思ったからです。そして、主はこのように宣言しました。「安息日に善い事をするのは許されている。」平日にお仕事で忙しい人は主の日に人助けに参加したり、入院されている者に訪ねたり、絶望の者に手紙を書いたりなどが出来ます。その為に安息日を神様によって賜りました。
もし私達は日曜日に仕事を止め、体を休んで、礼拝に参加し、家族と主にある兄弟姉妹の交わりを持って、またよい行いをするなら、私達の祝福の為に定められた十戒の第四戒を忠実に守っています。そういうふうに安息日を心から守ったら第四戒を破る機会がないでしょう。
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第五戒:汝の父母を敬え―親と子 |
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西谷聖書集会2004年6月6日
◆子と親 エフェソの信徒への手紙6章
1:子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2:「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 3:「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4:父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
【請求書】
ある日、十歳の男の子は自分がやった仕事の為にお母さんに請求書を出しました。明細書はこのようになりました。犬を散歩させた事:100円、私の部屋の片付け:200円、玄関の靴並び:50円、私の宿題をした事:250円。お母さんが私に払うべき金閣合計は600円でした。請求書を受け取ると、お母さんはすぐその場で支払いました。
次の朝、男の子が起きると、お母さんからの請求書を書いた紙を枕の下から見つけ出しました。その紙には次のように明細が書いてありました。息子の為の十年間の食事代:無料、十年間の洋服と宿泊費:無料、自転車とおもちゃ代:無料、病気の時の看病代:無料。息子がお母さんに支払うべき金額の合計はゼロでした。
今日は、まさに先月の母の日と今月の父の日の真ん中の日曜日になりましたので今日の課題はとてもふさわしいと思います。今朝の課題は私達の神は聖書で私達の両親にどうすべきかを教えてくださいます。十戒の第五戒はこのようになります。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる事が出来る。」出エジプト記20:12)
確かに、私達は自分たちそれぞれの両親に感謝すべき恩義があります。言うまでもないが、両親がなければ私達は一人も残らずに存在しません。母と父の絶え間ない世話のお陰で大きくなって、成長することが出来ました。
古いユダヤ人のことわざはこう言っています。 「神様は同時に至る所にいられませんので、両親を造りました。」その諺はあんまり神学的に良いものではないけれども、大きな真理を教えて下さいます。特に私達の両親を通して愛と信頼を習いました。両親によって愛されたから愛するようになりました。また、私達は信頼出来る両親を持っていましたので、今の私達は人を信頼出来ます。実は、もしその基本的な事を先ず父と母を通して習わなかったら、神を愛し信頼する事さえも難しくなります。
【親に対する尊敬と服従と感謝】
ですから、十戒の第五戒に記されているように、私達は父母を敬わなければなりません。しかし、どのようにして両親を敬うのでしょうか。つまり、聖書に於ける「敬う」と言う意味は何でしょうか。少なくとも三つの大事な意味が含まれています。それは親に対する尊敬と服従と感謝です。
先ず母と父に対する尊敬を見てみましょう。前に言いましたように、両親は神と協力して私達をこの世に生まれさせました。父と母がなければ人生と言う素晴らしい賜物を経験出来ませんでした。その事だけに両親を深く尊敬すべきです。また、何も出来ない小さい赤ん坊の時から両親によって養われ、今日の成長は全く両親のお陰です。
更に、全能の神は子供の上に親を置かれましたので、私達は父母を敬うべきです。聖書によりますと、親に対する反抗は神に対する反抗になります。旧約聖書の律法は親の為の尊敬を厳しく守りました。例えば、レビ記にこの掟があります。「自分の父母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。父母を呪う事は死罪に当たる。」(レビ記20:9)もし現在もこの律法が守られるとするならば、大変な事になるに違いがありません。
【現代の風潮】
現代の文化は若者本位です。マスコミは私達に何を教えるのでしょうか。何よりも若い方が年寄より遥かにましではありませんか。そして、私達はそのメセージを信じ、出来るだけ年を隠し、色々な工夫をして自分を年齢より若く見せたいのです。一般的ですが社会は熟年より若い方を尊敬し高く評価します。年齢の最盛期は段々若くなってしまいました。年よりになると、何も分かっていないように扱われ、軽蔑されています。その反面、聖書は年配者を尊敬します。箴言にこの言葉が記されています。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(16:31)そして、レビ記にこの御言葉があります。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神をおそれなさい。私は主である。」(19:32)ところで、早く白髪になった私はこの二つの聖句が大好きでした。とにかく、現代社会の若者本位に振り回されないように注意しなければなりません。聖書の教えと神の戒めははっきりと言っています。年配の者、特に私達の父母を尊敬し、敬わなければなりません。
【服従について】
十戒の「あなたの父母を敬え」の次の意味は服従です。今日の朗読にはこの御言葉があります。「子供達、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい事です。」(エフェソ6:1)神様は人間を家族に入れて下さいました。そして、家族の基本として神様が子供は親の言いなりに置かれています。
最近の子育では服従をあんまり強調しないような気がします。知能や創造力や勉強熱心や外観の様子やスポーツの能力などを服従より高く評価する親が多いです。しかし、いくら言っても、父母に対して反抗する子より、親に服従する子供は幸せになり、良く出来た大人になります。その反面、親の指導を聞かない子はトラブルを起こし、大人になっても若い時の不従順の為に、悩みと恥の重荷を負っています。
親としての責任は大きいです。それは子供の服従を願いながら、その子に言った事は神の御旨の中にいなければなりません。つまり、私達が子供に言った事は神の戒めを逆らってはなりません。また更に、今日のテキストにこのお話があります。「父親達、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(4節)神様によって親は子供の上に置かれている理由は、子を無理に、わがままに言うんではなくて、逆に、「主がしつけ諭されるように、育て」る為にその権威を賜わりました。つまり、親の最大の責任は言葉と行動によって子供に神の事を教えるのです。
そして、子供の責任と務めは子としての服従です。それは十戒の「あなたの父母を敬え」の中の大事な意味です。
【感謝】
最後に父母を敬う意味は親に感謝を表す事を含んでいます。そして、言葉だけではなく、親に対する良い行いによって、その感謝を表せます。もちろん両親の愛と犠牲の為に「ありがとう」と常に言う必要があります。また、年をとってきても、私達の父母の家族の中の大事な存在を守らなければなりません。そして、両親の生活に対する責任もあります。
少なくとも、両親を悲しませない事によって親に対する感謝を表すべきです。箴言にこう書いてあります。「愚かな者を生めば悲しみがあり、神を知らない者の父に喜びはない。」(17:21)また、同じ箴言にこの言葉が記されています。「父が楽しみを得、あなたを生んだ母が喜び踊るようにせよ。」(23:25)私達の行動と言葉で両親に恥と悲しみを掛けさせないように努めるべきです。その事によって両親を敬います。
父母はもう既に天に召されていても私達の生活を通して感謝を表す事が出来ます。妻を亡くした、ある男の人はやがて三人の子供をお墓参りに連れて行きました。その墓碑にこの言葉が書かれていました。「ジョンの妻とアリスとポールとジョーイの母、カロライン・ジョンスのお墓。」その言葉を大きい声で読むと妻を亡くした男の人は子供達にこのように注意しました。「もしあなた達はお母さんが生きていたら、お母さんに恥を掛かせたり、あるいは心を痛める事をしたら、私はあなたの名前をこのお母さんのお墓から取り消します。」その子供達は父親の警告を聞いて、母を敬うように神の前と人間の前に恥のない人生を歩もうとしました。そして、彼等の名前はまだ墓碑に載っています。
愛する皆さん、今日の戒め、「あなたの父母を敬え」には少なくとも三つの意味があります。それは親に対する尊敬と服従と感謝です。間違いなく、その三つの事は私達の為と両親の為の神の御旨です。
もしこの十戒の第五戒を守れば、素晴らしい約束が繋がっています。「あなたの父母を敬え。そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる事が出来る。」つまり、両親を敬う事によって自分自身が平和の内に長く生きられます。
【子は親に倣う】
童話作家グリム兄弟は次のような意味深いストーリーを語りました。あるお爺さんは息子とその嫁と四歳の孫と一緒に暮らしていました。お爺さんの目が悪くなり手も震えてきて、体はぼろぼろになりました。食事を取る時、スプーンがお皿にあたって、ガチャガチャと音を立てました。その上、スプーンが口に当たらなくて、御飯は白いテーブル・クロスによくこぼしてしまいました。そのいやな事を見たお嫁さんは主人に何かをするように頼みました。二人で良いアイデイアを考え出しました。これからお爺さんは家族から離れ、コーナーで食べるよう決定しました。そして、お爺さんは毎日独りでスツールに座って悲しそうにボールから食べました。彼はどうしても家族と一緒に食事を取りたかったが許されませんでした。
ある日、お爺さんはボールをうっかり落として壊してしまいました。息子とお嫁は怒ってこのように言いました。「もし豚のように食うなら、豚なりに御飯をやりましょう。」そして、息子が荒い木でえさ入れを作って、床に置いて、それでお爺さんを食べさせました。
やがて、四歳の息子が板で一生懸命に遊ぶようになりました。お父さんがその新しい遊びを見て、息子が何をするのか聞きました。息子がニッコリ笑って父と母を見てこのように返事をしました。「私はえさ入れを作っています。僕が大きくなると、このえさ入れでママとパパを食べさせます。」言うまでもないが、お爺さんはすぐにテーブルに戻され、家族と共に食事を取るようになりました。
当然、自分の親に尊敬と服従と感謝を表す、つまり父母を敬うと、自分の子供は自分の為に同じようにするでしょう。子供はおもに私達の手本から習います。親から価値観や態度や信仰や道徳などを吸収します。ですから、私達の親に対する尊敬と服従と感謝を見ると、いつか私達も子供からその成果を得る事でしょう。逆に、両親をあんまり敬わない者は自分の子供から尊敬と服従と感謝をあんまり期待しない方が良いです。
愛する神はこの戒めを私達の益の為に定めて下さいました。父母を敬う事には豊かな祝福があります。ですから、神様の助けによって、この戒めを重んじるように努めましょう。
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