|
 |
第六戒:殺してはならない
|
|
西谷聖書集会2004年6月13日
【人を殺したことはないといえるか】
今日は十戒の第六番目の戒めを一緒に学びたいと思います。全能の神から頂いた私達の幸福の為の戒めは「殺してはならない」です。つまり、私達は人殺しをしてはならないと言う命令です。
説教の準備をする時、皆さんの前でこの課題を出すのはちょとこっけいな話になると思いました。何故なら、知っている限りでは、ここにいる皆さんの中には人殺したり、あるいは人殺しになる者がいませんからです。このような説教は刑務所や暴力団の大会などなら、相応しいかも知れませんが、皆さんのようなちゃんとした人にはあんまり必要ではないかと思いました。また、この戒めを守るのは、皆さんにとってそれ程難しくない気がしました。反って、人をわざわざ殺す事はもっと難しい事であります。実は、そこまで出来る人はなかなか少ないのです。
しかし、今朝の課題を準備しているうちに、その御言葉と私達との関連性がだんだん分かって来ました。大いなる神はこの六番目の戒めを酷い人殺しだけにお授けになりませんでした。これは一般的な人々の為の掟にもなります。
【なぜ、殺人はいけないか】
人間を殺してはいけないと言う事は普通の人の常識的な知識だと思いますが、いったい何故そうなりましたか。私達は人間以外の生命を平気で奪います。例えば、蚊にくわれると、すぐ殺します。また、肉を食べる為に動物の命を取る必要性があります。しかし、人間はどうして違いますか。それは、我々人間は天地万物の作り主、全能の神にかたどって創造されましたからです。聖書によりますと、神はこのように言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)ですから、生命そのものは神聖ではありませんけれども、神にかたどり、神に似せてお造りになった人間は特別です。生命の中で人だけは神にかたどって造られましたから、特別な価値がある訳です。人間は馬より弱い、象より小さい、ある時は知的にまぬけ、道徳はそれほど優れていませんけれども、霊的に神に似せて造られました。それ故、尊い、神に似せた者を殺してはなりません。その上、人間一人一人は神によって造られたもの、神の特別な被造物ですから、人間の命を奪うと、それは神から奪う事になります。
実は、この神との関係がなければ、「殺してはならない」と言う戒めは意味が全くありません。人生の価値は神に基づいていますので、私達の生活から神を取り除くと、人間の命の尊さが分からなくなって、命を奪う事が簡単になります。神を忘れ、人間が全てになったら、人生はごく平凡なものになり、犬の命と人間の命とは同じく評価されます。全く人間のレベルから人を見ると、人生は大した事ではないが、神の目から見たら、聖書に記された通りに主は私達を「神にわずかにおとるものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠として頂かせました。」(詩編8:6)そう言う神が造られ、高く評価されたものを簡単に奪ってはいけません。
そうであるならば、人の命を取れる次第があるのでしょうか。例えば、キリスト者は戦争へ行って人を殺しても善いですか。多くのキリスト者はその難問と取り組んだ事があります。実は、いくら言っても戦争はいつも罪で、人間の堕落の最も酷い表れかも知れません。人間が殺し合うのは決して神の御旨ではありません。特に、キリスト者は簡単に戦争に参加してはいけません。しかし、この世では私達の選択はいつも善か悪かのいずれかだけではありません。ある時は、二つの悪のうち、私達はどちらか一つを選ばなければなりません。残念ながら、たまには色々な理由をつけ戦争はそのましの方になってしまう事もあります。つまり、もし戦争に行かなければ、戦争よりもっと悪い結果になる場合、戦争に行く義務がある訳です。例えば、ナチズムに対する戦いは必要でありました。なぜなら、ナチズムが世界を占領したら、その戦争より、極めて大変な状態になったはずです。その戦争は二つの悪のうち、ましの方でした。ですから、稀ですが、ある時は人を殺す事は理由によって正当化されています。
同じように防衛は許されています。攻撃を受けると、自分と周りの者を守る権利があります。出来るだけ攻撃する人を止める時、傷をつけない方が良いけれどもそれは不可能だったら、傷を付けて、また必要な場合は殺すのは許されています。そうしなかったら、二つの悪のうち、より悪い方を選ぶ事になります。
【中絶問題】
この「殺してはならない」戒めに対して妊娠中絶はどうでしょうか。キリスト者はどう言う立場を取った方が良いですか。マザー・テレサは中絶についてこの意味深い事を言いました。「現在、中絶は何よりも平和を滅ぼすものです。子供に対する戦争になります。愛の代わりに、暴力を通して問題を解決する行為です。中絶の場合、母は愛を習わず、反って都合により自分の子供さえを殺す事になります。また、中絶を通して、父親は何を習うのでしょうか。それは自分が造った子に対して責任を取らなくても良いのです。そのような父はまた他の女の人に同じトラブルを起こす可能性が十分あるのです。ですから、中絶はまた中絶をもたらしてしまいます。」その通りだと思います。けれどもある場合は、特に母親の健康を守る場合、大変難しい判断ですけれども、中絶が余儀なくさせられています。実は、そのケースは非常に少ないのです。中絶は神に似せて造った命を捨てる事になりますので、最善を尽くしてその事を避けた方が神の御旨であると信じます。
【自殺について】
愛する神から頂いた今日の戒めは自分自身にも当てはまります。つまり、他の人の命だけではなく、自分の命も取ってはいけません。どん底にいる、自殺したい人に心から同情しなければなりません。しかし、キリスト者は少なくとも一つの事が分かります。それは自分の命は自分のものではありません。自分が神によって創造され、そしてさらにイエス・キリストの高価な十字架の死を通して贖われました。ですから、自分の地上の命を好きなように出来ません。自分は神のものなので、自分を殺すと、神のものを奪う事になるのです。だからこそ、自殺はしてはいけない事です。
ある自殺は突然ですけれども、またあるものは徐々に完成されます。最近、「生活習慣病」と言う表現をよく聞こえますね。それは予防出来る、妨げられる習慣、あるいは癖によってかかる病気なのです。その習慣は食べ過ぎ、飲み過ぎ、働き過ぎ、心配し過ぎ、たばこをすい過ぎ、運動不足過ぎなどです。言うまでもないが、生活習慣が悪いと、神から頂いた自分の寿命が短くなります。この世を楽しむ、またこの世での主の働きが出来る時間が少なくなります。ですから、十戒の「殺してはならない」を守りたかったら、私達の生活習慣を見直す必要があるかも知れません。
【交通事故死】
この戒めに関してもう一つの事を取り上げたいと思います。私達は普段にはピストルや刀などのような武器を持って歩き回りません。そうすれば、間違いなくすぐ逮捕されるでしょう。しかし、私達は毎日の生活において他の武器になる物をよく使います。それは自動車です。国連世界保健機関によりますと、世界中、毎年120万人以上は交通事故で亡くなります。さらに、同じ原因で400万人は怪我をします。ですから、車は戦争や殺人などよりも遥かに危ない訳です。そして、悲劇的な事ですが、ほとんど全ての交通事故による死亡は予防出来ると思われています。運転手の不注意やスピード違反や酔っ払い運転などは大部分の事故のもとになります。「殺してはならない」と言う神の命令は人をわざと殺す事だけを言っているのではありません。予防出来る事故にも当てはまります。ですからこの戒めを守るように、車と言う武器を利用する時、十分気を付けなければなりません。それは私達の為の神の御旨であります。
モーセは年をとった時、最後にイスラエルの人々にこの重要な神からの御言葉を語りました。きっと私達にも神の御言葉になります。申命記30:15にあります。聞いて下さい。
「見よ、私は今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。私が今日命じる通り、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、まどわされて他の神々にひれふし仕えるならば、私は今日、あなたたちに宣言する。あなた達は必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きる事はない。私は今日、天と地をあなた達に対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も、命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住む事ができる。」
【命を選ぶ】
今日の戒めを通して神は私達に死ではなく、「命を選ぶ」ようにアピールをしておられます。そこにこそ戒めの意味と真の祝福があります。
また、イエス・キリストはこのように言われました。「あなたがたも聞いている通り、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける。』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚かな者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21〜22)
主イエスによりますと、「殺してはならない」と言う命令は何よりも私達一人一人の心の問題になります。確かに、イエス様は私達の行動だけではなく、私達の心を見ておられます。行動は心によって生み出されているからです。どうか、神の助けによって、心からこの第六番目の戒めを守るように努めましょう。
|
|
第七戒:姦淫してはならない
|
|
西谷聖書集会 2004年6月20日
【あんまり個人的な記事】
ある田舎の町の新聞編集長はちょっと困りました。なぜなら、その町のニュースがあんまり無い為、記事の不足があったのです。そして、新聞に空白を残すのは良くないと思って、そのまま、コメント無しで、十戒を新聞に載せました。そうすると、その内容に対してこのような苦情が入って来ました。「私には新聞配達を中止して下さい。最近あんまり個人的な事に触れるからです。」
その人にとって、十戒の中で「あんまり個人的」だと言う戒めはどれかがはっきり分かりませんが、恐らくそれは第七番目の「姦淫してはならない」、今日の戒めである事でしょう。愛する全能の神はいったい何故その「個人的」な事についてそういうふうにはっきりと教えて下さるのでしょうか。確かに、十戒の全ての戒めと全く同じように私達の幸福の為であります。
「姦淫してはならない」と言う神の命令は始めから終わりまで私達が豊に生きる為に授けて下さったものなのです。頑固な神が人間から楽しみを奪う為ではなく、天の父なる神が私達を心から愛するのでこの賜物を下さいました。
【忠実な結婚関係】
姦淫が神によて禁じられたのには理由があります。それは姦淫はいつも苦しみと伴います。この戒めを通して天のお父さんはその苦しみから私達を守り、そして忠実な結婚関係を通して、喜びと祝福を授けたいのです。
姦淫はただ「個人的」な問題だったら、少なくとも二つの苦しみがあります。もし姦淫、その行動を結婚相手から隠せる事が出来ても、暴かれる恐れはいつもつきまといます。私達が恐れながら生きるのは惨めなことです。その上、いくら自分の罪を正当化しようとしても罪の意識を感じます。その意識の苦痛は毒のように滅ぼす力があります。しかし、姦淫は、いくら言っても、決してただの「個人的」な問題ではありません。その結婚と家族と社会にさえも害を与えてしまいます。もちろん結婚の相手を困惑させます。結婚は信頼と忠実の関係ですから、姦淫の裏切りはその関係を壊して苦しみをもたらします。言うまでもないが、その家族に子供がいる場合、親の良くない行動が子供の一生を影響します。特に、彼等の結婚と家族に対する態度にきっと障ります。そして、離婚の場合、ほとんどいつも子供の生活水準は落ちてしまい、精神的と経済的とに不安定になります。また、もちろん社会の土台である家族が弱って来ると、社会全体的も弱って来ます。姦淫がもたらす良くない他の結果と苦しみは数えきれない程です。その為にこそ愛する神は「姦淫してはならない」と迷わずに教えて下さいます。
【結婚と祝福された性】
聖書の教えでは性欲は神が造った良い賜物です。創世記にこの御言葉が記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼等を祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。』」(創世記1:27)またイエス・キリストはこのように教えられました。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6ム9)
神が性欲と言う良い本能をお造りになりましたけれども私達を祝福するようにその本能の実行には条件を付けて下さいました。その条件は一夫一婦婚制の中でその本能を実行する事です。従って、姦淫はしてはならない事です。また、性とは大川に比べられる事が出来ます。もし川は両岸の中に流れると素晴らしい良いものですが、しかし、その岸を氾濫する瞬間に破壊的なものになってしまいます。同じように、結婚の中の性は豊かな祝福になる素晴らしい賜物ですけれども、結婚以外の性はいつも最後には自分と周りの者に苦しみを引き起こしてしまいます。今日の戒めを通して愛する神は迷わずにその真理を教えて下さいます。
その危険が十分分かっていても、世の中は誘惑に満ちています。そして、誘惑に陥って、十戒の第七番目の戒めを破る恐れがあります。実は、誘惑に耐えるように夫と妻の中の特別な愛が絶対に必要であります。使徒パウロはその愛についてこのように述べました。
【イエス・キリストが教会を愛する愛】
「夫達よ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソの信徒への手紙5:25)それはもちろん夫から妻の為の愛だけを求める訳ではありません。ここにパウロは逆に「妻達よ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、夫を愛しなさい」とも言っているに違いありません。結婚の中の愛はイエス・キリストが教会を愛する愛のようにならなければなりませんとこの御言葉に書いてあります。そして、主イエスの教会の為の愛はどのような愛でしたか。それは犠牲的な愛です。主イエスは私達の為に大きな犠牲を払って下さいました。私達の為にイエスは神として御自分の天国のあらゆる栄光を捨てて、貧しい馬小屋でお産まれになりました。また、私達の為にこの世を歩んで様々な苦難を受けて下さいました。そして、私達の罪の赦しと永遠の救いの為に自ら進んで十字架の死まで経験されました。さらに、使徒信条に書いたように、主イエスは私達の為に「よみにくだり、三日目に死人のうちより蘇り、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」。パウロによりますと、この愛であります。この犠牲的愛は私達の手本にならなければなりません。結婚の相手にこのような愛を表す必要があります。つまり、自分のneedsと自分の感情よりも、相手のneedsと感情を大事にしなければなりません。私達に対する主イエス・キリストの愛は一方的な愛です。神が先ず私達罪人を愛して下さいました。今も、神の為の私達の愛と比べると主の愛は無限にもっと大きいです。ある時は結婚の相手の為の愛は一方的にならなければなりません。弱い時や、気がまずい時や、病気の時などの場合、相手があなたを愛する事が難しくなります。その時こそ、あなたの一方的、また犠牲的愛が必要になります。また、誘惑された時も、そのような愛を実行しなければなりません。キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、結婚相手を愛すべきです。その愛があれば「姦淫してはならない」と言う戒めを守るのは十分可能になります。
そのような愛を表すのは簡単ではないけれども、神の助けによって出来ると思います。犠牲的愛を実行出来るように神の助けと導きを常に祈る必要があります。
【神からの赦し】
今日の戒めに関して、もう一つの事を強調したいと思います。それは心から悔い改めたなら、神からの赦しがあります。イエス・キリストはその真理をはっきりと教えられました。ヨハネによる福音書には主イエスと姦通の女の人の出会いが記されています。ちょっと長くなりますが、聞いて下さい。(8:1〜11)
主イエスはその女の人の失敗を責めませんでした。却って、主は彼女を罪に定める人から守って、罪を赦して下さいました。しかし、主が「これからは、もう罪を犯してはならない」と彼女にはっきりと言いました。現在も神の赦しがありますが、主は私達にも「これからは、もう罪を犯してはならない」と教えて下さいます。そして、神の助けによって私達は主イエスの教えに従う事が出来ます。
愛する神は御自分の為ではなく、初めから終わりまで私達の為にこの掟を賜りました。それは私達が豊に生きるように、そして、害と苦しみから守られるように授けて下さいました。どうか、神の豊な祝福を受けるように私達一人一人も感謝と喜びを持って、この御言葉を心に受け入れましょう。
|
|
|