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第八戒:盗んではならない
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西谷聖書集会 2004年6月27日
【賢い方法】
ニューヨーク市には八百万匹の猫と一千百万匹の犬がいるんだそうです。その町は大阪のような大都市ですから、自分のペットが亡くなると、公園で葬ったり、ゴミに捨たりするのは禁じられています。正しい方法は区役所に頼んで、区役所の方から係り人に自分の家へ来て貰って、その人がペットを処分する為、持って帰ります。しかし、区役所に頼むと50ドル、日本円で5,000円程の費用を支払わなければなりません。
ある女の人は良いアイデイアがありました。区役所よりも、もっと安くペットの処分が出来ると思って新聞に広告を出しました。半額で、つまり、25ドルでそのサービスをするという広告を出しました。
彼女の処分方法は本当に賢かったです。中古店へ行って、2ドルの古いカバンを買いました。そして、亡くなったペットの飼い主からの依頼が入ると、その家へ行って、25ドルを貰って、ペットをカバンに入れました。それから、すぐ地下鉄に乗ってカバンを人目につかない、ちょっと離れた所に置いて、カバンを見ないフリをしました。そして、少し待つと、いつもあんまり時間が経たない内に、泥棒がやって来てカバンを盗みました。彼女はペットの飼い主のお金を節約したばっかりではなく、同時に泥棒を困らせました。恐らく、泥棒はカバンを開けて、あんまりにもびっくりして、その悪い仕事を止めました。とにかく、賢い彼女には盗まれる事が益になりました。
【盗まれた経験】
しかし、多分私達の経験は違います。自分の物が盗まれると腹が立ち、イヤですね。日本は多分どの国よりも窃盗罪(せっとうざい)が少ないけれども、誰でも少なくとも一回くらいは、いつかそう言う不愉快な事を経験するでしょう。ですから、私達一人残らず、今日の十戒の「盗んではならない」と言う第8番目の戒めに大賛成すると思います。
誰でも知っている事ですが、盗む事は、自分の所有ではない物を自分の物として取る事です。その行為はいつも悪いとされますが、何故悪いでしょうか。初めに、盗む事は自己中心的行為です。つまり、被害者を忘れ自分だけを考える、わがままな行いです。小さくあんまり価値のない物が盗まれても、色々な面で迷惑を被ります。たとえば、去年自転車のサドルが盗まれました。古い物でしたが、結局、使えるつもりの自転車が使えなくなりました。私の自転車に合う新しい物を探すのは時間がかかりました。また、便利な外部の自転車置き場は安全ではないので、その時からガレージに入れなければなりませんでした。その上、物が盗まれると、周りの人に対する信頼が薄くなってしまいます。とにかく、相手の立場と気持ちを無視するので、盗む事は全く自己中心の行為です。
【盗みはなぜいけないか】
今日の戒めが授けられた理由はまたあります。それは盗む事は「隣人を愛しなさい」と言うイエス・キリストの教えを破ってしまいます。隣人を愛するのは結局、隣人の為に良い事をするでしょう。言うまでもないが、人の物を勝手に取ると、愛よりも軽蔑を表します。隣人を愛すると、その人の物を盗まないで、逆にその人の物を守ります。
また、盗む事は愛する父の神を侮辱することになります。どうしてかと言えば、神の摂理を疑う事になります。盗む事によって人間は神にこのように宣言します。「あなたが私に必要な物を与えて下さる事は信じられないから、人の物を取らなければなりません。」さらに、人の物を盗むと、神の戒めに従うよりも、物質的な物を得るのがもっと大事であると宣言します。
エフェソの信徒への手紙にこの御言葉が記されています。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)仕事は神からの恵みです。仕事を通して神が下さった力と才能を生かす事が出来、満足感を得られます。また、働く事によって自分と家族を支える事も出来ます。そして、記されているように仕事から得た収入を「困っている人々に分け与え」られます。泥棒は人を困らせますが、与える人は困っている人々を助けられます。愛する神は私達を色んな面で祝福して下さいました。信仰と希望と人生の本当の意味を賜って、そして、物質的にも豊に支えて下さいます。こんなに祝福されたら、自然に私達は人の祝福になりたいはずです。このような信仰と態度があれば、人から物を盗むのは難しくなります。却って、与える人になります。
【見つかった万引き】
実は、今日皆さんに告白しなければならない事があります。それは私が6歳の頃、物を盗んだ経験がある事です。私と弟がコンビ二に入って素晴らしい物を見つけました。それはマッチでした。でも幼い私達にはそのマッチは特別な物でした。そのマッチは箱の外のざらざらした所につける安全マッチではなく、何処でもつけられるマジックのようなマッチでした。例えば、石やレンガや靴の底(そこ)でもつけたら、火が出ます。
そのマッチを見ると、私と弟はどうしても試したかったのです。しかし、お金があっても店員は私達小さい坊やにマッチを売るはずがないと思いました。そして、マッチ箱をこっそりと開けて一本ずつ取って、ポケットに入れてお店を速く出ました。あいにく、店員さんが私達がやった事を見ていて、すぐに捕まりました。私にはどんなに恥ずかしい事だったか今もその気持ちをはっきりと覚えています。心から謝りながら、マッチ一本ずつだけを取ったと説明しましたので、店員は私達を厳しく注意してから、やっと逃がしてくれました。その忘れられない恐い事件以来、私は人の物を盗んだ事が一度もありません。
【人のものを盗む】
もし今日の戒め、「盗んではならない」は物を直接に奪う事だけを考えているなら、私は喜ぶ事が出来ると思います。その事件から何十年間その戒めをちゃんと守って来たからです。恐らく皆さんもこの戒めに対して同じ気持ちでしょう。しかし、「盗んではならない」はもう少し広い意味があるではなかと思います。強盗と万引きだけを禁じる訳ではありません。
物やお金などを誰かから借りて、返さなっかた事がありますか。結局それも盗む事になります。陰で人の悪口を言った事がありますか。その行為によって人の良い評判を奪うので、第八番目の戒めを破る事になります。試験でカン二ングをした経験がありますか。それは点数を盗む事になります。また、税金のがれを少しでもやった事がありますか。もちろん、そうすると国から盗む事になります。同じように、怠けて仕事をちゃんとしない時、自分の会社から盗みをする事でしょう。こういうふうに今日の戒めの意味を広くすれば、完全に守れる人は少ないです。
【神のものを盗む】
他の人からだけではなく、愛する天の父なる神からも盗む事もあります。例えば、神は私達一人一人に能力を与えて下さいました。その賜物を下さったので、周りの者を助けたり、福音を伝えたり、神の栄光を現したりします。頂いた能力を自分の益だけの為に使うと、神のものを奪っています。そして同様に、神から託せられた年月と健康と宝も自己中心的に用いたら、泥棒する事です。神の被造物として私達が持っている全ては実際に神のものです。詩編に記されている通り、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地のもといを置き、潮の流れの上に世界を築かれた」(24:1〜2)。ですから、私達は神のものを預かっています。私達が持っている全ては神によって託されました。そして、管理者として忠実に主のものを大事に用いる責任と喜びがあります。その事を忘れる瞬間に、盗人になってしまいます。
【天に宝を積みなさい】
主イエスはこのように教えられました。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人がしのびこんで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食う事も、さび付く事もなく、また、盗人がしのびこむ事も盗み出す事もない。あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19)
やはり、何よりも「盗んではならない」と言う神の戒めは、天に富を積むように私達に授けられました。どうか、神の助けによって、その戒めの深い意味と祝福を私達の毎日の歩みの中に生かしましょう。
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第九戒:隣人に関して偽証してはならない |
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西谷聖書集会 2004年9月5日
参照 マタイによる福音書7:1〜5
【ばれた大学生の嘘】
ある良い天気の春の日、4人の大学生仲間は授業の前にドライブに行きました。しかし、あんまり良いお天気の日なので時間を忘れ、学校に着くのが大変遅くなってしまいました。教授は授業の出席を非常に強調していましたから、遅くてもクラスに行った方が賢明だと、4人で判断しました。そして、言い訳として嘘でも、学校に来る途中車のタイヤがパンクした事に決めました。やがて4人は授業中の教室に入りました。そして、車のタイヤがパンクした事を言ったら、教授はその言い訳をすんなり受け入れて下さいました。遅れた仲間はほっとしました。しかし、教授はこのように言いました。「君達が今日のクイズに遅れたので、君達には特別なクイズを与えよう。教室の別々の所に座って、互いに相談せずにそれぞれこの質問に答えなさい。パンクした車のタイヤはどの部分でしたか。紙に書いて下さい。」
今朝、私達の十戒の学びを続けたいと思います。そして、第9番目の戒め、「隣人に関して偽証してはならない」を取り上げたいと思います。間違いなく、この戒めの原義は裁判で偽りを禁じることです。つまり、裁判で本当の事を言う義務を強調します。言うまでもないが、もし裁判の時、人が偽りを言ったら正義ある判決はなかなか難しいです。そして、正義のない社会は住み難く、力ある者が弱者を圧迫してしまいます。神は正義の神ですから、また主は私達人間の幸福を強く望むから、十戒の第9番目の戒めによって裁判での正直を要求します。アモス書の御言葉に記されているように、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きる事なく流れさせよ。」(アモス書5:24)
しかし、この戒めは裁判での正直さだけを要求するならば、私達には直接の関係がちょっと薄いかも知れません。何故なら、多分私達は裁判で証言する経験が少ないと思うからです。そして、もしその経験があっても偽証罪を犯す誘惑に陥った事はないです。とにかく、裁判へ行く事は私達の日常の経験ではないので、法廷での偽証は一般の人と直接の関係があんまりありません。
【ウエストミンスター小教理問答】
十戒の第9番目の戒めの原義はおもに法廷に関わりがありますが、ほかにも、もっと広い意味があると思います。ウエストミンスター小教理問答はこの広い意味を認めます。小教理問答には十戒の第9戒についてこの説明が書いてあります。「第9戒が求めている事は、人と人との間の真実と、また私達自身と隣人の名声とを、保ち、高める事、特に証言する時にそうする事です。第9戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私達自身や隣人の名声を傷つける事です。」(77、78)つまり、この戒めは全てにおいて偽りを言う事を禁じています。特に人に対する偽りが禁じられているのです。このように広く意味を見ると、この戒めは私達の日常生活には大きな関係があります。実は、私達の現代社会に真実はそれ程重んじられていないようです。多くの人は嘘を言うのは普通になって、平気で嘘をつきます。例えば、自分の都合が悪くなったり、もしくは自分に役立と思ったら、あんまり考えずに、すぐ偽りを言ってしまいます。そして、多分自分も嘘をよく言うから、人の嘘を聞いても、あんまり気にしないで平凡な事だと思われる状態になります。
【ある調査】
ある学者の調査によりますと、アメリカ人の91%程は自分が度々嘘を言う事を認めました。79%は旅をする時、人に偽りの電話番号を教えたり、新しい身元を作り出したりした経験があったと白状しました。そして20%はもうすでに言った偽りを隠す為に、毎日のようにまた嘘を繰り返し言う癖があると告白しました。その上、調査によりますと、アメリカ人の半分位は嘘をつく事は別に悪くはないと言っています。日本の場合はどうでしょうか。日本では「嘘は方便」と言う言い方がありますので、多分アメリカの状態とそれ程変わっていないでしょう。
この十戒の「隣人に関して偽証してはならない」はちょっと時代遅れでしょうか。現代の人に意味があんまりないでしょうか。自分にとって役に立つのなら、小さい嘘は何が悪いのでしょうか。
【嘘をつく原因】
偽りを言う事は本当に悪いかどうかを調べる為に嘘をつく理由から先ず調べたいと思います。先に語った授業をサボった学生のストーリを用いて考えて見ましょう。言うまでもないが、学生達は悪い行動を隠す為に先生に「タイヤがパンクした」と言う嘘をつきました。つまり、知りながら悪い事をしたのに、偽りの言い訳で、その結果から逃れたかったのです。多くの嘘の目的は自分の罪や過ちや恥ずかしい事を隠し、受けるべき報いを避ける手段になります。そして、他の嘘の種類は、偽りを用いて自分が受けるはずがないものを受けようとする手段です。例えば、物を騙し取る事や資格を偽る事などはそのような嘘です。他に色々な種類の嘘がまたあるかも知れませんが、全ては一つの共通点があります。全ては自己中心から出て来ます。つまり、自分が行った悪い事の結果から自分を守る事と貰うべきではないものを貰う事です。聖書の基本的教えによりますと、「罪」はおもに自己中心的行為です。あくまで自分を守る、先ず自分の益を考える事です。偽りを言う事は自己中心的行為なので罪と言います。ですから、嘘をつく事はしてはいけないです。
ある偽りは人に隠す事が出来ますが、ほとんど全ての嘘はいつか暴かれています。そうすると、人と人との間の信頼が崩れてしまいます。例えば、この間、週末に家の子供達が友達と遊びに行きました。出掛ける前に12時まで帰ると堅く約束しました。しかし、その時になっても帰らなかったのです。一時までも帰宅しませんでした。やっと1時半頃になって帰って来ました。そのように良い言い訳がなく、約束を破ると、嘘つきになって信頼性が薄くなります。その結果、これから子供が何か約束する時、私はその約束を信じるかどうかが分かりません。偽りは人と人の間の信頼を損なうので、十戒で禁じられています。
または、偽りを言う事によって人に傷をつけますから、神の御言葉に禁じられています。今日の新約聖書の箇所にはこのイエス・キリストの教えが記されています。ウエストミンスター小教理問答と共に偽りを言う事によって人の名声を傷つけないように私達を注意します。もう一度聞いて下さい。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来る。」
【人に関する話題】
人間が集まると何をしますか。おもにおしゃべりをするでしょう。そして、その話題は色々ありますけれども恐らく一番好きな話題は人間同士のことです。なぜなら、私達の生活において人間は最も面白いモノだからです。スポーツやお天気の事などよりも人間が遥かにもっと面白い話題です。しかし、「人」が話題になると、「隣人に関して偽証する」誘惑に陥る恐れがあります。人間は不思議で自分を高くするように人の悪口と噂をよく言ってしまいます。そして、他人の人格や名誉などを傷つければ、自分が比較的に優れた者に感じてしまいがちです。イエス様が語ったように、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかないのです。」
多分、人間の最も大事な持ち物は自分の評判と名誉です。ですから、人に対して噂と偽りを言って、その評判に傷つけるのは小さい過ちではありません。うわさ話は数えきれない程多くの人の人生を没落(ぼつらく)させるのです。誰でもその沢山の例が分かると思います。ゴシップの被害者が多いのに、人はいつでもその話を好みます。箴言に書いたように、「陰口は食べ物のようにのみこまれ、腹のすみずみに下って行く。」(26:22)噂と陰口は美味しい物ですけれども毒になります。ですから、毒のように避けた方が良いのです。その上、イエス様が言われた通りに、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
【偽りでなく真理を語る】
十戒の第9番目の戒めは偽りを言う事を禁じます。そして、私達は偽りの代わりに真理を語るべきです。しかし、どのように真理を語るべきでしょうか。
ある新聞記者が色んな扱い難い課題について記事を書いて、読者から「嘘つき」と呼ばれてしまいました。その厳しい批判を受けた彼は、「これから真理だけを書く」と皆に約束しました。次の日、彼はその町の人の結婚式についてこのような記事を書きました。「ジェームス・コリンスさんとシルビア・スミスさんの結婚式は先週の土曜日バプテスト教会で行いました。同教会の牧師ゴーダン先生は式をあげました。花嫁はごく普通の娘ですけれどもお料理は全然出来ません。また、彼女はお母さんの家事の手伝いをした事が一度もありません。彼女は決して美人ではなく、花婿の方は怠け者で30歳なのに両親のお金で生活をしています。彼は財産と職業もないので、お二人の将来の見通しは実に明るくありません。」
【愛に根ざして真理を語る】
実は、記者がその二人を良く調べて、記事の内容全ては真理でした。しかし、何の為の真理でしたか。自分を正当化する為、また無理に人を傷つける為の真理でした。エフェソの信徒への手紙にこの使徒パウロの言葉が記されています。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(4:15)私達は「愛に根ざして真理を語る」べきです。つまり人に傷つける為ではなく、愛の動機で真理を語ります。愛の動機だったら私達が語る真理が人に祝福となります。
私達は本来滅びに向かう者でした。神から裁きを受ける事しか出来ない存在ですが、神は私達を愛し、私達は主イエスの贖いによって今や義人とされ、全ての過ちが赦されました。このような恵みのうちにいるが、隣人を批判し、偽証し、愛さないのは神の赦しと愛に対して反抗し、不信仰的態度になり罪とされます。
愛する皆さん、真理である主イエスに従って行く私達はいつも真理を語る使命が与えられています。主の助によって「愛に根ざして真理を語る」ように努めましょう。
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