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十字架上の7つのお言葉
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア

 

    十字架上の7つのお言葉

     ウイリアム・L.・モーア 

    目次

 

  その1:「父よ、彼らをお赦しください」
    その2:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」
その3:「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」
     その4:「我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

その5と6:「渇く」と「為しとげられた」
その7:「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 

 

 本稿は西谷聖書集会にて2006年3月12日(受難節日曜日)から

 416日(イースター日曜日)までの6回の主の日礼拝説教で語られたものです。



十字架上のお言葉(1):「父よ、彼らをお赦しください

 

ルカによる福音書23章3243節

32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、   引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

 35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他    人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。    「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、    同じ刑罰を受けているのに。41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと    一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

【ある韓国人兄弟の物語】

韓国の古い伝説ですけれども、ある貴族に二人の息子がいました。そして、その長男はやがて最高裁判所長官になりました。しかし、次男は不良の道を選び、悪名高い強盗になってしまいました。それにも関わらず、お兄さんは弟思いで本当に愛して、何回も彼を変えようとしましたが、弟は聞きませんでした。そして、弟が遂に捕まえられ、裁判長である兄の裁判に連れられてきました。裁判の結果はもう決まってると皆は思いました。何故なら、兄の長官は弟を深く愛していましたので、手段を選ばず彼を釈放してやると皆は思ったのです。しかし、裁判の結果は、兄長官が弟を有罪と判決しました。兄が弟に死刑を宣告した時、皆は驚きで息が止まりました。

 

やがて死刑を実行する日が来ました。そして、長官であるお兄さんは最後に弟に会いに刑務所へ行きました。面接の時間が終わりかけた時、お兄さんは弟に、「番人が見てないうちに、私の衣服を着て席を交代しよう。そして、私の代わりに帰ってくれ」と言いました。それで弟は兄の工夫に承知して、言われた通りに逃げました。もちろん当局は囚人が実際に裁判長官である事が分ると処刑を止めるはずだと信じていました。

 

しかし、弟は事実を確かめる為、近くにある丘に上って遠くから死刑台を眺めました。誰かが死刑台へ連れられてきました。信じられない光景ですけれどもその人は自分のお兄さんでした。そして自分の目の前で兄が処刑され、自分が受けるべき罰を受けてしまいました。

自責の念で一杯の弟は走って刑務所の門を叩きながら叫びました。「間違っている、無罪の人の死刑を先程実行しました。私こそはその処刑すべき囚人です。私を処刑して下さい。」そして刑務所長が出て来ると弟は自分の名前を言って、繰返し、「私を処刑して下さい、私を処刑して下さい」と願いました。しかし、刑務所長はこのように言いました。「帰りなさい。そう言う名前を持っている囚人の刑は、もうすでに実行されたので、全ては済みました。速く帰りなさい」と命令しました。

 

【イエス・キリストの贖い】

私達は受難節に入りました。そして、節の際私達は特にイエス・キリストの十字架の贖いの死の意味を新たに考え思案します。皆さんはいまだに罪の意識を引きずっているのですか。その罪の罰はもうすでに実行されました。全ては済みました。十字架のお陰で、先程の伝説の弟のように、私達は罪の故に支払うべき罰が主イエスによってもうすでに支払われました。使徒パウロが述べたように、「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を完全に受け入れて下さいました。受難節にその言い尽くせない程の恵みを覚え感謝したいのです。

 

 

【十字架上の7つのお言葉】

十字架に掛けられた間に私達の為、主イエスは七つの御言葉をおっしゃいました。その御言葉は十字架の意味について主イエスだからこそできた解き明かしになりますので、教会によって高く評価されて来ました。そして、その七つの御言葉は神が十字架を通してどのようにして私達人間の最も重要なニーズに答えたかを啓示されます。つまり、主イエスの十字架からの御言葉は愛する神がどのような救いを賜ったかはっきりと教えて下さいます。

 

ですから、今年の受難節に十字架からのイエス・キリストの御言葉を一緒に学びたいと思います。4月の第三の主の日、復活祭まで毎週、その御言葉一つ一つをくわしく学びたいのです。私達がイースターを迎える為の準備として神様はきっと私達の学びを大きく祝福され私達は主イエス・キリストにより近ずけると信じております。

 

【第一の御言葉:赦し】

さて、十字架からの第一の御言葉は赦しのメセージです。今日の朗読によりますと、主イエスは十字架につけられるとこのように言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架の激しい苦しみの中で主イエスは御自分の敵の為に赦しを祈られました。言うまでもなく、拷問にかけられると、とりわけ死に至る拷問の場合、その苦しみを起こす人の為に赦しを祈るのは非常に難しい事です。特に、罪を犯していなかったのに、そう言う酷い待遇を受けると、赦しよりも呪いと憎しみを表す方が当然です。しかし、イエス・キリストは肉体的に、霊的に一番難しい時、自分を忘れ、心から敵に赦しの言葉の述べました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。

 

【ローマ兵】

主イエスはこの驚くべき赦しの言葉を発せられた時、誰の事を考えていたのでしょうか。十字架の周りには色んなグループがいました。距離的に最も近い人々は死刑実行人でしょう。彼らはローマ兵として、死刑囚を釘で十字架につける恐ろしい本分がありました。また、囚人の死を確かめる義務もあったので、最後まで十字架の現場で待ちました。彼らは無罪である神の御子イエス・キリストの刑を実行しましたけれども、それはローマ帝国の総督ピラトの命令でした。もしその命令に逆らったら大変な事になります。そうだからではなく、彼らは自ら喜んで主イエスの死刑に参加し、今日の御言葉によりますと主を侮辱して、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲りました。ですから、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエスは、まずそのローマ兵を考えた事でしょう。

 

【ユダヤ教の指導者達】

また、ユダヤ教の指導者達がイエスの死に大きな責任があったのです。イエスは神の真理を語りましたので、彼らは主を憎んで誰よりもその十字架の死を起こしました。彼らはイエスの裏切り者にお金を払い、主の裁判で偽証しました。更に、ローマの当局に圧力を掛け、主イエスの死を要求しました。間違いなく、主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った時、ユダヤ教の指導者を思いました。

 

【ローマ総督ピラト】

ローマ総督ピラトもイエスの赦しが必要でありました。イエスは無罪であると判断したのに、彼は告発者に負けて、死刑を宣告してしまいました。人の機嫌を取る為、不正な判決を言い渡しました。

【ユダヤの群集】

主の裁判を見た群集にも責任がありました。聖書によりますと彼らは、「イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。」(ルカ23:23)彼らは殺人者バラバの釈放を選択し、イエスについて「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。確かに主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った時、群集を思った事でしょう。

 

【主の弟子達】

死刑を実行した兵とユダヤ教の指導者達と総督ピラトと血に飢えた群集、つまり主イエスの敵は赦しが必要でありました。しかし、主の赦しのお祈りはただ彼らの為だけではありませんでした。主との一番近い者、御自分の弟子達も罪を犯してしまいました。ユダヤはイエスを裏切り、ペトロは主を知らないと三度も言って、そしてイエスが逮捕されると、その残りの者も逃げてしまいました。つまり、彼らはイエスを主と呼んでも、危険な時が来ると「主」をすぐ見捨てました。ですからイエスは「父よ、彼らをお赦しください」と祈った時、御自分の弟子達も考えたでしょう。

 

【全ての人びと】

実に数多くの人々はイエス・キリストの死に責任がありました。しかしながら、彼らはただ全人類の代表であったのです。聖書によりますと我々人間全体に「世の罪を取り除く」主イエスの死の責任があります。私達一人一人は自己中心になり、神の愛と神の支配に逆らい、主に対しても隣人に対しても罪を犯してしまいます。もし当時の者だったら、私達も主の死を求めた群衆に加っていたに違いありません。罪人として私達皆は重い責任があります。

【父よ、彼らをお赦しください】

しかし、そんな私達に対して十字架から素晴らしい御言葉があります。深い苦しみの中にいても主イエスは私達の為に祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」そして、不思議にイエスの十字架の贖いの死を通して父なる神はその赦しのお祈りを叶えて下さいました。罪の全くないイエス・キリストは私と、あなたと、そして、全人類の罪の罰を御自分の身にお受けになり、その罪を完全につぐなって下さいました。ですから、私達は清い者として神の御前に立つ事が出来、主の永遠の救いと豊な恵みを受けられます。ヨハネの第一の手紙(1章9)に記されているように、「もし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての不義から私達を清めて下さる。

 

赦し。それはイエス・キリストの賜物です。そして、その赦しは全てを新にさせて下さいます。つまり、希望のない私達は大きな、大きな確かな希望を得て、毎日を神の愛された子供として生きる事が出来ます。

 

そして、私達は神によって赦されているから、私達は人間同士を赦すべきです。私達は主の祈りでこのように祈ります。「我等に罪を犯す者を我等が許すごとく、我等の罪をも許したまえ。」

 

【カールと妻エミリー】

1950年代の事ですけれども、カール・テーラーと奥さんエミリーはアメリカの田舎町に住んでいました。カールは公務員で米軍の倉庫関係の仕事に携わっていましたので出張が多かったのです。二人は仲良く暮していました。丁度結婚して23年目の時ですが、カールは数カ月間の出張で沖縄へ派遣されました。出張の時、カールはいつも毎日エミリーに手紙を欠かさず送って来ました。しかし、今回は一ヶ月経っても、二ヶ月経っても手紙がなかなか来ませんでした。そして、ある日突然、こんな内容の手紙が来ました。「エミリーへ。大変言い難い事ですが、私はあなたと離婚しました。」彼は郵便でメキシコで離婚を得て、沖縄で19歳の愛子と言う娘と結婚しました。48歳になったエミリーはもちろん大変なショックを受けたけれども、彼女は何とかして続けてカールの愛を信じたのです。そして、離婚してもエミリーはカールに縁を切らないでと頼んで、彼らはたまに手紙を交換しました。やがて、カールと愛子の間に、ヘレンとマリーと言う二人の娘が生まれました。そして、エミリーはその子供にプレゼントを送りました。そして、数年経ってカールからこのような手紙が来ました。「私は病気になって、あんまり時間が残っていないと告知されました。治療の為に貯めたお金を全部使ってしまい、愛子と子供の将来は心配です。この三人を助けて下さい」とカールが書きました。難しいことですけれどもエミリーはその最後の願いを叶えて、小さいヘレンとマリーをアメリカへ呼び、二人の子供を育てました。その姉妹は新しい国と新しい生活にすぐ馴染んで、エミリーは喜んでカールの子供の世話をしました。しかし、今度は愛子からの悲しい手紙が来ました。と言うのは、ヘレンとマリーがいなくなると、大変寂しいと。ですからエミリーはカールの為にもう一つの事をしなければならないと悟りました。愛子も呼ぶ必要がありました。

 

1957年に愛子もアメリカに来ました。彼女の飛行機が着陸した時、エミリーはこのように思いました。「もし私から主人を奪ったこの人を憎むなら、どうすれば善いのでしょうか。」愛子は最後に飛行機から出て来ましたけれども、そのまま立って降りて来ませんでした。エミリーは彼女の気持ちが分って、愛子の名前を呼びました。そうすると彼女は走って降りて来て、二人は抱き合いました。その瞬間エミリーは祈りを捧げました。「神様、私を助けて下さい。カールを愛したようにこの人を愛する事が出来ますように。カールの帰りを長い間祈り待っていました。そして今、彼の二人の娘と彼が愛したこの女の人を通しカールはやっと帰って来ました。どうか彼女を許し愛する事が出来るように助けて下さい」と祈りました。

 

神はエミリーの許しの祈願を叶えて、家族のように四人で暮しました。そして、後で彼女はこのような証を立てました。「愛する主人の命は私から取られましたが、神はその代わりに愛する三人を私に送って下さいました。私は神様から大きな祝福を受けました。」

 

どうか、私達は神の大きな赦しを受けると同時に周りの者を心から許せる

ようにと祈りましょう。(おわり)2006.3.12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字架上のお言葉(2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

 

 

ルカによる福音書23章39-43節

 

【有名人物の最期の言葉】

有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ウ゛ィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」 また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死に際の言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかまない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉い事を言ったと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

 

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

 

【「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】

 

今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

 

イエス・キリストは二人の犯罪人と共に死刑されました。マルコによる福音書に記されていますが、彼らは強盗でした。つまり、彼らの罪はただ万引きではなくて、暴力を用いて人から財産を奪いました。恐らくその二人の強盗は「善いサマリア人」と言うイエスの譬え話に出た追剥ぎのようでした。多分犯罪を起こした時、犠牲者に重傷を負わせたり、殺したりしてしまいました。とにかく、その二人の犯罪者が当局によって捕えられ、主イエスと共に十字架に掛けられました。

主イエスはその二人と共に処刑されたのはただ偶然ではなかったと思います。当局はわざわざイエスを普通の犯罪者の間で罰を受けさせました。その事によって、イエスも強盗のような罪人であると皆に見せたかったのです。共に同じ罰を受けたから、同じような悪者である印象を人々に与えたかったでしょう。また、主をその卑しい悪党と一緒に罰する事によってイエスに恥をかかせようとしました。当局は自分の計算をして主を強盗と共に死刑しましたが、実際にそれは旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書53章12節に救い主について、「罪人の一人に数えられた」と言う預言が記されています。実に、御自分の御子をその二人の間で十字架の死を受けさせるのは神の御計画であって、神の御旨でもありました。その事によって御自分が提供なさる永遠の救いをはっきりと現したかったのです。

 

【イエスと共に十字架に架けられた二人の犯罪者】

さて、その二人の犯罪者を一人ずつ見てみましょう。今日の御言葉の39節にこの事が記されています。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシア(すなわち、救い主)ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」彼は自分の罪の故に十字架の拷問を受けても、その罪を悔い改めず、罪の全くないイエスをわざわざあざけて馬鹿にしようとしました。恥知らずな彼はイエスの憐れみ深い言葉、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と聞きました。イエスは自分のような犯罪人ではないとよく知りながらでも、主の善を認めず、イエスに侮辱しか言えませんでした。その強盗はすぐ側にいらっしゃる神の御子から罪の赦しを受ける立ち場ですけれども、その赦しを拒否して、清い者に呪いを言いながら、その日地獄へ落ちてしまいました。彼は大事な選択をしたと思います。そして、その選択は永遠に彼に影響してしまいました。

 

【悔い改めた強盗】

今度、もう一人の強盗を見てみましょう。彼は悔い改めない犯罪人をこのようにたしなめました。40節から彼の言葉が記されています。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」彼は主イエスの清さと義を認めると同時に、自分の罪深さが分りました。実際、自分をイエスと比較すると、自分の酷い罪が悟らされ、正しい報いを受けていると分って来ました。だからこそ、彼はもう一人の犯罪人をたしなめ、イエスの為に言い開きをしました。確かに彼は酷い罪を犯しました。しかし、もう一人の犯罪人と違って、彼は自分の罪を認めて、そして、心から神を畏れました。永遠の滅びに直面した彼は我に返って希望と信仰が湧き出て来て、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」と願いました。そして、主イエスはすぐに答えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束されました。

 

 

【楽園】

この「楽園」と言う単語は元々ペルシアから来ました。その文字通りの意味は、塀に囲まれた王様専用庭園です。大昔、ペルシア帝国の王様は特別に親しい者や敬意を表したい者などを自分の「楽園」に招き、共にその美しいお庭を楽しみました。間違いなく、ここで主イエスは楽園と言われるとき天国の意味がありました。しかも、その犯罪人は天国へ行くだけではなく、神との親しい交わりも楽しむ事が出来ると教えられました。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と主イエスが約束されました。

 

【この御言葉の三つの大事な真理】

愛する皆さん、この事件とイエス・キリストの十字架からの救いの御言葉は少なくとも三つの大事な真理を現して下さいます。第一に、救いへの道は驚く程簡単です。永遠の救いは難しいし、聖人のみが受けられる賜物だと悪魔は私達を信じさせたいのです。しかし、それは大きな偽りです。犯罪人はただ、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」と願ったのです。確かに、その願いには悔い改めと信仰があったのですが、実に、彼はイエスと聖書と神学についての知識は殆どなかったのです。ただきわどいところで、自分の一番大事なニーズがやっと悟らされ、イエス・キリストの憐れみに頼り、救いを求めました。ローマの信徒への手紙10章13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と記された通りです。救いへの道は複雑ではありません。実に簡単です。

    

この御言葉の第二の真理は、どんなに罪深い人でも神の救いを頂けることです。間違いなく、主イエスと共に十字架に掛けられた犯罪人は本当に悪者でした。彼は多分何回も暴力を用いて人の物を奪い取りました。恐らく悪事を働いた時、人の命も奪ったでしょう。しかし、自分の罪の程度に関係なく神から永遠の救いを頂きました。もし主イエスの救いがその悪党にまで届くならば、必ず私達にも届きます。イエス・キリストの十字架の死はどんな罪でも贖う力があります。悔い改めと信仰の故に神はその強盗を受け入れて下さいましたので、どんなに罪深くて、どんなに足りなくて、どんなに弱くても、神は御子イエスを信じる者を御自分の尊い子供のように赦し、自由に救いと永遠の命を賜ります。

 

【救いに関する誤解】

ある人は神の救いを誤解して、その恵みを受ける前に、先ず自分の足りない所を直したり、自分の罪をなくしたり、善い人間になってからだと言います。しかし、その時まで待つならば、遅すぎるかも知れません。実は、私達の義に頼ったら、滅びしか期待出来ません。神はありのままで私達を受け入れたいのです。なぜなら、神は私達を見ると、私達の義ではなく、その代り私達の為に死んで下さった主イエスの完全な義を見ます。神はもうすでに救いの道を開きましたから、私達はありのままでその恵みを頂くべきです。

 

【御言葉の第3の真理】

最後に今日学ぶ主イエスの十字架からの御言葉を通してもう一つの真理が啓示されています。それは私達の救いは全く神様の一方的な賜物のお陰です。その永遠の救いは人間が行う宗教的の儀式も、善行も、努力にも頼っていません。もちろんその事は大事ですけれども、救いの為に絶対に必要なものではありません。今日の強盗の場合はその事をする時間がなかったのですが、主イエスから救いを頂きました。救いは始めから終わりまで神の賜物です。そして、悔い改めと信仰を通してその賜物を自由に受けられます。

 

もう一つの大事な事を覚えて頂きたいのです。イエスと共に十字架に掛けられた犯罪人二人がいました。一人は悔い改め、信仰を通して救われましたが、もう一人はその救いを拒否して信じませんでした。両方の人には選択の時が来ました。そして、彼らにはその選択は改変出来なかったのです。

 

私達にも選択の時があります。これからの地上の時間は限られ、もちろん保証されていません。そして、生涯自分が選択しなかったら、結局選択させられます。

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」と私達も皆、願いたいのです。

 

 

 

【この時計をあげよう】

ある先生は自分が大事にしていた腕時計を生徒に上げたかったのです。先は一番背の高い子供に時計を出して見せてから、「もしこの時計が気に入ったら、上げよう」と言いました。すると、背の高い子は先生が冗談を言っていると思ったので、笑うだけで何も言わなかったです。

 

先生は今度は次の生徒にも同じように言いました。次の子も、もし手を出して受け取ると人に笑われそうで、黙っていました。

 

先生は次に一番小さい生徒にも同じように言いました。するとその手はすぐ時計を受け取り、時分のポケットに入れながら、お礼を言いました。先生は、「私の言葉を信じてくれて本当にありがとう。その時計は君の物だから大事にしなさい」と言いました。その時になって始めての二人の子供は、「本当にくれるのだったのね。本当だったら私が貰えばよかったのに」と後悔しました。

 

神は一番大事なプレゼント、すなわち御子による永遠の救いを私達に提供下さいます。私達は受ける価値がありませんが、代価なしで受け取れば良

いのです。(おわり)2006.3.19

 

    

    

    

    

 

 十字架上の御言葉(3)

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」

 

ヨハネによる福音書19章23-27

 

【二つのグループ】

イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。

さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。

    

【兵士たちがしたこと:預言の成就】

先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)

 

事実、兵士達は自ら喜んで主イエスの処刑に参加し、ルカによる福音書に記されたように、兵士達は主を侮辱して、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とあざけました。

    

【貪欲と苦しみに対する無関心】

彼らの前に神の独り子,世の唯一の救い主が十字架に架けられていました。そのお方から罪の赦しと永遠の命を頂く事が出来ましたけれども、兵士達は主の衣服を取ることしか考えられませんでした。その物を市で売れば僅かな収入になるかもしれませんが、哀れなことですが、比較出来ない程の賜物を見落としてしまいました。価値のあんまりない衣服の為の貪欲と、すぐ目の前の人の苦しみに対する無関心。それは兵士達の本当の悲しい姿でした。

    

【主を愛する5人】

十字架の側にいるもう一つのグループは兵士達に対比して主イエスを心から愛した者です。その人達は主のお母様マリアと、その姉妹と、クロパの妻マリアと、マクダラのマリアと、主の弟子ヨハネでした。その所にいるだけで非常に危険な事でした。イエスは反逆者として処刑されましたので、主と共にいた人は疑いをかけられて来ました。ですから、彼らが逮捕されても意外な事ではありません。しかし、彼らは愛の故に、その時、主イエスを見捨てる事が出来ませんでした。そのような状態でイエスを見るのは何よりも辛かったですが、どうしてもその一番大変な時、愛する主と共にいたかったのです。何も出来なかったのですけれども、そこにいる事だけで、自分の愛をイエスに示したかったのです。

    

【母マリア】

特に主イエスのお母様マリアの立ち場は辛かったと思います。マリアには決して楽な人生がなかったのです。ヨセフと結婚する前に彼女は聖霊の力によってイエスで身籠って、人に軽蔑されたと思います。また、ヘロデ王の迫害を逃げる為、エジプトへ非難しなければなりませんでした。さらに、夫ヨセフを早くに亡くして、未亡人になってしまいました。そして、今、長男イエスは何一つ罪を犯してもいないのに、その生々しい拷問と残酷な処刑を目撃しなければなりませんでした。

 

母マリアは喜んで自分の子イエスを守る為、その身代わりに十字架の死を経験したいと思った事でしょう。しかし、それは不可能で、どうしようもなく長男の苦しみと死を見るしかなかったのです。

    

その時、十字架に掛けられたイエスは自分の母マリアと弟子ヨハネを見て、驚くべき事をしました。自分の深い苦しみの中にも、イエスは母マリヤの将来を考えて十字架から第三の御言葉をおっしゃいました。母と側に立っている愛する弟子ヨハネを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい、あなたの息子です」と言われました。それから愛する弟子に「見なさい、あなたの母です」と言われました。そして、その弟子はマリヤを自分の家に引き取りました。やはり、イエスはお母さんを深く愛していたのです。そのもっとも難しい時、御自分の苦しみを忘れ、母の事を心配して、十字架からの第三の御言葉を通して、その大事なニーズに答えて下しました。

    

愛する皆さん、主イエスとは比較するには及ばないですけれども、私達も痛みと苦難を経験した事があると思います。そして、私達は精神的と肉体的苦しみを受けると、どんな状態でいられるのでしょうか。自分の苦しみの中で周りの者の事まで気配りが出来るのでしょうか。自分の状態が正常で良い時は、何とか相手の気持ちと立場を思い、同情する事が出来ますが、悩み苦しむの場合は、周りの者の問題とニーズは面倒になり、その人の為に何も出来ません。「ほら、僕は自分自身の悩みがあるから、ほっといてくれ」と言いたいのです。

    

 

 

【主イエスはどんな苦しみをも覚えてくださる】

しかし、主イエスは十字架で私達が想像出来ない程、霊的と肉体的苦しみを受けていても、人のニーズを深く思い、そのニーズを叶えて下さいました。主は。「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈って、自分を迫害する者、また全人類の罪を赦して下さいました。

さらに、隣で十字架に掛けられた犯罪人に救いと永遠の命を約束されました。それから、ここでは自分のお母さんを思い、彼女のこれからの世話を弟子ヨハネに托しました。苦しみがあまり激しいから、その苦しみしか考えられなかったはずですが、イエス・キリストは自分を忘れ、最後まで相手の事、そして敵の事さえも考えて下さいました。

    

【十字架は愛】

愛する兄弟姉妹達、私達の救い主、イエス・キリストは私とあなたを御自分のお母さんと同じように一人一人を大事に、愛して下さいます。私達の為に御自分の命を捨てて下さいました。私達の為に十字架の苦しみを受けて下さったのです。一番苦しい時、私達の一番大事なニーズ、罪の赦しと永遠の命を考え叶えて下さいました。しかも、主イエスは今も天国で私達の為に執り成し、助けて下さいます。

【ある兵士と子供】

アメリカの南北戦争の時ですが、ある若い兵士が自分の父と兄も戦死してしまいました。その為に彼は家長になり、農園で残されたお母さんと妹の事で大変心配でした。彼の助けがないと、春の種蒔きが出来なくなって大変困ります。その二人が飢え死ぬかも知れないと恐れました。兵士はその心配を将校に言いましたけれども、何も助けてくれませんでした。

    

そして、彼には一つアイデイアが浮かびました。もし首都のワシントンDCへ行って、リンカン大統領に合ったら大統領はきっと自分の問題を聞いて、家族を助ける為、休暇を与えると信じました。ですからリンカン大統領に合う為、二日の休みを頂いて、ワシントンDCへ出掛けました。彼はワシントンDCへ着くと直接にホワイトハウスに行き、正門で自分の用件を警備員に伝えました。そしたら、警備員は言いました。「大統領は大変忙しい人ですから、紹介なしで面会は不可能です。このまま大統領と合うのはとっても無理です。基地へ速く帰って下さい」。

    

その事を聞いて兵士はもちろん大変がっかりしました。そして、ホワイトハウスのすぐ隣にある公園へ行ってベンチに座り、これからどうしようかと考えたのです。その時、小学生の坊やが彼のところにやって来て言いました。「兵士さん、どうかしましたか。大変悲しそうな顔をしていますよ。」その事を聞いて兵士は坊やに自分の悩みを全部言ってしまいました。「リンカン大統領に合えるなら、きっと私の悩みを聞いて助けて下さると信じる」と坊やに言いました。

    

坊やは彼の悲しいお話しを聞いて、「僕と一緒に来て下さい」と返事をしました。そして、坊やは兵士の手を持って一緒にホワイトハウスの方へ歩きました。ホワイトハウスの正門を通るとき警備員は何も言いませんでした。しかも、ホワイトハウスの正面玄関に上がっても、誰も彼らを止めませんでした。そして、大統領の執務室に着くとドアを叩かないでそのまま入りました。そして、兵士の目の前で、リンカン大統領が机に向かって座っていました。大統領は坊やと兵士を見て言いました。「あ、トッド、どうしたの。友人を連れて来たのか。紹介してくれ」と優しそうに言ってくれました。そして、大統領の息子、トッド・リンカンはお父さんにこう返事しました。「この兵士さんはあなたにお話があるそうです。」それから兵士は自分の悩みをアメリカの大統領の前で全部言いました。そして、リンカン大統領は兵士の願いを叶えて、家に帰らして下さいました。実に、兵士は大統領の息子の紹介があったからこそ、その願いが満たされたのです。

    

実は、私達の救い主イエス・キリストは私達の為にその息子のような役割りを果たして下さいます。主イエスのお陰で私達は清い者として全能の唯一の神の御前に出る事が出来、私達も神を「父」と呼ぶ事が出来ます。イエス・キリストの愛はどんなに大きいでしょう。

    

 

 

【愛する弟子ヨハネに】

最後に主イエスは十字架から愛する弟子ヨハネにお母さんについてこのようにおっしゃいました。「見なさい。あなたの母です。」そして、「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった」と記されています。私達もヨハネのように主イエスが教えられた事を素直に受け入れるべきです。愛する主はこのように言われました。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。」(ヨハネによる福音書14章15)どうか、私達は毎日主イエスに対する愛を表しましょう。(おわり)

2006.3.26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字架上の御言葉(4)

「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

 

聖書:マタイによる福音書27章45-50

 

 

父に縁を切られたエリザベス】

英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。

 

結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。

          

エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。

          

見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。

    

【十字架上の第四のお言葉】

今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫びです。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

    

聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、「見なさい。あなたの母です」とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。

【全地は暗くなり】

そして、今日の聖句の45節によりますと、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。これは空が曇った事とか、太陽が日食によって暗くなったと言う、ただの偶然な事ではないと思います。実は、それは神からのしるしでありました。十字架に掛けられた間、イエス・キリストこそが全人類の罪の為の罰を御自分の身にお受けになりました。そして、その時、私達の罪の暗さが主イエスの魂を包んでしまいました。その霊的な出来事のシンボルとして神は誰もが分るように、全地を暗くさせました。間違いなく、その暗さを経験した人々は注目しました。そのような現象を見た事がないので驚き、恐れたでしょう。自分の目の前で刑を受けているイエスは特別な役割りを果たしていると悟ったと思います。

    

【預言の成就】

そして、突然、その深い暗さの中から、神の独り子の苦悩に満ちた叫び声。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」原文を見るとそれはライオンが出すような大声の叫びでした。実は、その主イエスの叫びは旧約聖書の詩編にある預言の成就でした。詩編第22編にこう記されています。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、うめきも言葉も聞いて下さらないのか。

 

主イエスはヘブライ語もギリシア語も出来ましたけれども、その時、御自分の母語アラム語を使って、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びました。やはり、その霊的と肉体的に最も苦しい時、主イエスは母の元で習った言語に戻りました。

【全人類の罪のために】

その叫びは主イエスの徹底的苦しみをよく表現しましたけれども、「神に見捨てられた」その意味は何でしょうか。宗教改革者マーチン・ルーテルはこの十字架上の主イエスの御言葉を分ろうとする為、食べる事も、寝る事もせず、数日をかけて勉強しました。ついに彼は立ち上がって、このように言ったんだそうです。「神が神を見捨てる事なんて、誰がその事が分りますか。」人間にはそれは分り難いかも知れませんが、主イエスはその叫びで、とても大事な事を私達にお伝えになりました。つまり、御自分の十字架を通して私達の為に何をなさったかをはっきりと教えて下さいました。イエスは、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」とお聞きになりましたが、実際に主はその答えが始めから分っていました。実に、あなたと私と全人類の為に、主イエスはその時、父なる神によって見捨てられたのです。

    

 

【人に見捨てられたイエス】

イエス・キリストはこの世を歩んだ間、人間によって見捨てられた事をよく経験されました。御自分の郷里の者は主のメセージを拒否しました。自分の国の指導者達は主を十字架につけてしまったのです。御自分の弟子達さえもイエスを見捨てました。さらに一人の弟子ユダはお金の為に主を裏切って御自分の敵に渡しました。また、その残りの弟子たちは危険な時、自分達を守るように、イエスを捨てて逃げてしまいました。ヨハネによる福音書111節に記されているように、「言(すなわちイエス)は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」その辛い経験がよくあったのですが、父なる神はいつも御自分と共にいて下さいました。イエスはよく独りで寂しい所へ行って祈られました。その時、愛する神と対話をして、力と慰めと癒しを受ける事が出来ました。周りの人間が彼を侮辱し見捨てても、神の交わりと助けに頼りました。しかし、十字架に掛かっていた間、父なる神さえも独り子イエスから遠ざかって、共にいて下さいませんでした。その時、主イエスは始めてそう言う事を体験されました。そして、その極度の辛さと恐怖から、遠ざかってしまった天の父に「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」とお叫びになりました。

    

【父なる神に見捨てられたイエス】

罪深い私達はその時の主イエスの気持ちがなかなか分らないのです。なぜなら、私達は神の交わりをそんなに大事にしないで、ある時はその交わりから遠ざかりたいと思います。しかし、イエス・キリストには神との関係が全てでした。主イエスのその気持ちと比べられるものはなかなかありません。しかし、皆さんが小さい時、始めて幼稚園や学校に連れられた事を覚えていますか。もしくは私達の子供を始めて幼稚園や保育所に入れた時の事です。主イエスの気持ちは小さい子供の幼稚園の最初の日の体験と少し似ていると思います。生まれてからずっとお母さんの愛と保護と世話に囲まれ、一分もお母さんから離れた経験がありません。そして、急にある日、騒々しい幼稚園に連れられて、知らない人に託せられ、お母さんが、「さようなら」と言って帰ってしまいます。それは大変辛い事です。パニックになって、「お母さん、お母さん」と一生懸命に叫びます。それから身も世もあらぬようにむせび泣き続けます。皆さん、父なる神が御自分の顔を十字架につけられたイエスに隠されると、主イエスはそのような苦悩を何倍も経験されたと思います。

    

愛する神はいったいなぜこのように独り子イエスを見捨て、苦しまれましたか。やはり、それは私とあなたと全人類の為です。十字架の時、神は人間が犯した全ての罪を主イエスに負わせてしまいました。アダムとエバの時代から現在まで、そして将来に犯す人間の全ての罪もイエスに架けたのです。私達の自己中心や恨みや、憎しみや、人種差別や、偶像崇拝や、不信仰や、悪い思いなど全てを主イエスに負わせました。それはどんなに大変な重荷だった事でしょう。その臭さと汚れは最も堕落した人もむかむかさせるものだと思います。ペトロの第一の手紙に記されているように、主は「十字架にかかって、自らその身に私達の罪を担(にな)って下さいました。」

    

イエスは私達人間全ての罪を担うと、父なる神は主から去ってしまったのです。なぜなら、神は聖なる神ですから、罪を大目に見られません。愛された御自分の独り子が負った罪さえも見られないのです。その故に神は、御子から遠ざかりました。そして、十字架に掛かっていた主イエスは直ぐにその最も恐ろしい事を感じて、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだのです。

    

愛する兄弟姉妹達、主イエスは私達の罪を御自分の身に受け、私達に代ってその罪の罰を払って下さいました。イザヤ書53章5節にこの意味深い御言葉が書いてあります。「彼がさしつらぬかれたのは、私達の背(そむ)きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達のとがの為であった。彼の受けたこらしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。」その通りです。イエス・キリストは十字架で私達の為に死んで下さいましたので、神は私達の全ての罪を赦し、私達一人一人を御自分の尊い子供のように受け入れて下さいます。私達の造り主である神を知る事が出来、その素晴しい交わりと祝福に加わっているのです。永遠に唯一の神は私達を支え守って下さいます。さらに御自分の民として私達に意味のある奉仕をさせて下さいます。

    

【神は私たちを決して見捨てられない】

実は、主イエスは、「我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びましたから、私達はその同じ言葉を叫ばなくても良いのです。主イエスの贖いのお陰で、神は決して御子を信じる者を見捨てる事がありません。いつでも、どんな状態であっても、死後にも、神は私達を愛し、助けて、共にいて下さいます。主イエスの贖いのお陰で私達は、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ事がありません。私達は使徒パウロと共にこのように言えます。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離す事は出来ないのです。」(ローマ8章38)

    

どうか私達一人も残らず、その同じ確信と信仰を持つようにと祈っており

ます。2006.4.2

 

 

 

 

 

 

 

十字架上の御言葉:5「渇く」と6「為しとげられた」

 

ヨハネによる福音書19章28-30

 

 

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは「渇く」と「成し遂げられた。」です。

 

【渇く】

先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

 

【脱水】

私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

 

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

 

【人間となられたイエス】

私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

 

【主イエスの霊的渇き】

間違いなくイエス・キリストは大変な肉体的渇きを覚えられました。しかしながら、肉体的渇きだけではなく、激しい霊的な渇きも経験されたのです。先週の説教で強調しましたけれども、十字架で私達の刑を受けた間、天の父なる神はイエスから遠ざかってしまいました。そうしないとイエスは私達の代りに罪の為の罰を受けられなかった事になります。十字架の時点まで父なる神は主イエスといつも共にいて、常に力や慰めや助けや愛などを与えて下さいました。イエスにとってその交わりは何よりも大事で、なくてならない信頼関係です。しかし、十字架に架かっていた間、父なる神は御子を見捨てて、共にいて下さいませんでした。

 

イエスは始めてその空しさと孤独を経験して、激しい霊的な渇きを覚えられました。神との交わり、つまり御自分にとって一番貴重な関係がなくなることは、何よりも辛かったのです。詩編42篇2に主イエスの霊的な渇きをよく表現されています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔をあおぐ事が出来るのか。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と。」十字架に掛かっていた主イエスこそ、その姿でした。

 

愛する兄弟姉妹、イエス・キリストがその霊的な渇きを経験されましたので、私達は霊的に渇かなくても良いのです。主御自身の苦しみと贖いの死を通して私達の全ての罪が赦され、神と和解されたのです。つまり、その犠牲は、信じる者の為に、神との平和をもたらして、私達は御自身の子供のように神を知る事が出来ましす。神はいつも、この世にあっても、永遠にも私達と共にいて下さいます。主イエスが井戸で会ったサマリアの女におっしゃった事を思い出させます。井戸で汲んで飲む水について、「この水を飲む者は誰でもまた渇く」とイエスは言われました。けれども主イエスが与える霊的な水は違います。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネによる福音書4:13、14)と主が約束されました。

 

イエス・キリストのみが人間の霊的な渇きを満たす事が出来ます。本当の希望と目的、また生きる力と慰めを与えて下さいます。主イエスが十字架で渇きを覚えられましたので、私達は渇かなくても良いのです。

 

【成し遂げられた】

今日の個所の30節を見ますと、主イエスの十字架からの第六の御言葉が記されています。「イエスは、この葡萄酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と書いてあります。

 

【勝利宣言】

「成し遂げられた。」これは敗北感からの叫びではなく、主イエスは勝利の叫びをあげて息を引き取られました。主は悔しい気持ちで「全てが終わった」と言ったのではありません。勝利を得た喜びで「成し遂げられた」とおっしゃいました。闘争は終わって、戦いに勝ちました。そして、十字架の上にありながら、イエスはその喜びを味わいました。父なる神から託せられたもっとも大事な使命を果たして、満足と平安のうちに天に帰る事が出来ると言う気持ちで、イエスは「成し遂げられた」と叫んでお亡くなりになられました。

 

【十字架で主が成し遂げられた三つの恩恵】

主イエスは御自分の十字架の死を通して何を成し遂げられたか。そして、その出来事は私達と何の関係があるのでしょうか。実は、主の十字架の死を通して全人類は比べられない程大きな恩恵を受けたのです。神から少なくとも三つの賜物が与えられました。

 

【全人類の罪の贖い】

先ず、キリストは十字架で私達の罪を贖って下さいました。その最も大事な事を成し遂げられました。聖書によりますと、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)」

罪の全くないイエスは十字架で私達に代って死んで下さいましたので、「主の血によってあらゆる罪から清められます」(ヨハネ一1:7)と記された通りです。

 

私達罪深い人間は自分だけの罪の報酬を払えます。しかし、唯一の清い人間である主イエスは御自分の十字架の贖い死によって、私達を清める事が出来ます。罪のない主イエスは私達の為に死んで下さいましたから、神の目から見ると私達は全く罪のない者になります。

 

【神との和解】

イエス・キリストが成し遂げられた第二の恩恵は、神との和解です。罪の故に神の敵になった私達は主イエスの死によって神と和解されました。清められましたので、愛する造り主との関係が回復され、神の仲間として受け入れられました。そして、神と和解させて頂いた私達は主の怒りの代りに、御自身の愛と交わりの中に生きる事が出来ます。イエス・キリストは十字架でその素晴しい恵みを授けて下さいました。

 

【救いの不動の確信】

最後に、主イエスは永遠の救いの確信を私達に与えて下さいました。その事も十字架の御業で成し遂げられました。主の犠牲は完璧ですから、有効と力はいつまでも続きます。繰り返さなくても良いのです。ですから、私達の永遠の救いは確かなものになります。罪を犯しても神の赦しを受けつつ、神の裁きと怒りの恐れは完全に除かれて、救いは永遠に保証されています。

 

主イエスはこのように約束されました。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事は出来ない」(ヨハネ10:27)と記されています。

 

主イエスの十字架の贖いのお陰で私達の救いは安心で、確かな事です。誰も、何もその恵みを私達から取り上げる事が出来ず、失う事もありません。現在この世にても、永遠までも、神の子供のように生き、主の豊かな、豊な恵みを受けられます。主イエスは御自分の使命を成し遂げられましたので、私達はそう言う不動な確信を持つ事が出来ます。

 

この三つの最も貴重な恵みは誰でも受ける事が出来ます。どのように受けられるかと言いますと、それは全く神の賜物ですので、自分の努力で勝ち得る事が出来ないし、自分の善い行いによって儲けられません。神の救いは始めから終わりまで信仰によって得るものなのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます」(使徒言行緑16:31)と記された通りです。つまり、自分の救い主としてイエス・キリストを心から受け入れる事です。

 

成し遂げられた」とイエスが十字架からおっしゃいました。すなわち、主イエスは人間の唯一の救いを成し遂げられました。御自分の死を通して私達を贖って下さいました。何よりもそれは神の福音の本質です。どうか私達一人一人はその福音を信じ、愛する神の素晴しい恵みを経験出来るよ

うに祈ります。(おわり)2006.4.9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字架上の御言葉(7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 

 

ルカによる福音書23章44-24章12

 

 

イースター】

御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝います。

 

十字架上の七番目の発言】

今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」と記されています。

 

父よ、私の霊を御手にゆだねます。」実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。詩編第35編6節にこの御言葉が書いてあります。「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

 

【父よ】

主イエスの時代、ユダヤ人の母親はこの御言葉を幼い子供に教えました。暗い夜、寝る前に祈祷として子供達は、まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます」と祈りました。確かに、イエスは母マリアからこの御言葉を始めて聞いた事だと思います。しかし、イエスは「まことの神、主よ」の代りに、「父よ」と祈られました。イエスにとって神は愛する父のような存在でした。神に対して親しみと不動の信頼を持って、十字架で死なれた時、主イエスは自分の父に抱かれて眠り込む子供のように亡くなりました。イエス・キリストは自分の天の父なる神を完全に信頼して、十字架の大変な状態であっても、平安と希望を持って勝利者として息を引き取られました。主イエスはこの世にあるもの何一つ恐れなかったように、死も恐れませんでした。実際に、父なる神が御自分を復活させる力を信じ、神の御心に死ぬまで従いました。

 

皆さん、私達の愛する天のお父さんの手は信頼出来るものなので、私達もこの世にも死後にも、その御手に全てをゆだねられます。神は私達一人一人を創造して、そして、御自分の独り子をお与えになった程に、私とあなたを愛しますから、その愛を徹底的に信じる事が出来ます。イエス・キリストは神の御手を信じ、そして、その御手こそは主を死から復活させて下さいました。

 

【最初のイースター】

初めのイースターの出来事を見てみましょう。婦人達は主イエスの遺体を葬る準備をする為に朝早くお墓に行きました。愛する先生の残酷な処刑を目撃し、命のない遺体も自分の目で見ました。間違いなく、主イエスは死なれました。そして、イエスの死に伴って彼らの希望は消えてしまったのです。主は本当に救い主ならば、決してその悲惨な目にあうはずがないと思ったのです。深い悲しみの中で、婦人達はお墓へ行って、先生の為に最後の奉仕をしようとしました。しかし、墓場に着くと大変驚きました。聖書によりますと、「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。その為、途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」その御使いはこのように言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになった事を思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する事になっている、と言われたではないか。」

 

イエス・キリストは御自分の霊を父なる神の御手にゆだねました。そして、御子を復活させた事によって神は御自分の完全な信頼性を現して下さいました。ですから、私達もどんな場合でも、神の約束と神の愛を信じる事が出来ます。悩みと逆境の中にいても神は私達を支え強めて下さるので、絶対に負ける事がありません。そして、私達は使徒パウロと共にこのように告白出来ます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私達は知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28)

 

【新しい命への復活】

さらに、私達の霊を御手にゆだねると、神は私達を霊的な死の状態から新しい命へと復活させて下さいます。使徒パウロは私達の救われる前の状態をこのように描写しました。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪の為に死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望のおもむくままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」それは私達の霊を神にゆだねる前、つまり、イエス・キリストを救い主として受け入れる前の希望のない状態であります。しかし、主イエスを受け入れると全てが変わります。「憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪の為に死んでいた私達をキリストと共に生かし、……キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました」と使徒パウロはエフェソの信徒への手紙2章1に書きました。イエス・キリストの贖いの死のお陰で私達は神を知る事が出来、御自分の愛された子供のように主との交わりを楽しむ事も出来ます。神の敵の希望のない霊的に死んだ状態から、神の子供としての恵まれた立場に復活させられたのです。その故に私達は主イエスと共に、霊を神の御手にゆだねます。

 

イエス・キリストは十字架に架かっていた時、御自分の霊を神の御手にゆだねて、死んでも生きる事が出来ると心から信じたのです。この世での事が全てではないと信じ、平安と希望を持って息を引きとられました。そして、永遠の命の印として、神は御子を復活させて下さいました。従って、イエス・キリストの復活のお陰で私達も死に対する神の勝利を期待し、楽しみに待つ事が出来ます。主イエスの贖い死のお陰で、信じる者には天国の戸が開かれ、言い尽くせない素晴しい神との永遠の命に入ります。

 

【ある双子の話し】

昔々、男の双子が母の胎に孕みました。その二人は段々成長して、自分達が生きている事と胎内の環境を認識するようになりました。彼らは喜んでその安全な所で生き、一緒に楽しい日々を過ごしました。ある日、一人はもう一人に、「この素晴しい所に孕まれ、良かったですね。私達のこの世界は本当に良いですね」と言いました。そして、もう一人は大賛成して、「母が命を下さり、二人で共にこの所で生きる事は大変有り難い」と返事しました。彼らは少しずつ大きくなり、自分の小さな世界で自由に遊びました。そして、自分達の環境を探検して、ある日へその緒を見つけました。へその緒を通して母から栄養を頂く事が分って驚きました。「母の愛はどんなに大きいでしょう。自分が持っている全ての物を私達と分け合って下さいます」とその二人は思いました。

 

時間が経つと共に自分の体が変わって来る事に気が付きました。「体が変わって来るって、どう言う意味でしょうか」と一人がもう一人に聞きました。「その意味はもうすぐこの所を出なければならない」と返事をしました。間もなく自分の素晴しい世界を去ってしまわなければならない事を思って二人は非常に不安になりました。「もし可能だったら、いつまでもこの所にいたい」と一人が言いました。「それはそうですが、実は、私達は生まれなければなりません。それは絶対に避けられない事です。私は誕生後の命を信じる。あなたはどう思いますか」ともう一人が言いました。「誕生後の命?それは不可能でしょう。この所から出たら、へその緒が切られ、栄養が受けられなくなり、死ぬでしょう。あなたは生まれた人と話した事がないでしょう。生まれてから母の胎に帰った人がいませんから、誕生後の命を信じられません。」この事を思いながら彼は絶望しました。「もし私が生まれる為だけに孕まれ、胎内で十ヶ月も成長していたならば、全ては無意味で空しいです。そして、母もいないかも知れません」と彼は言いました。もう一人は、「母は絶対にいるよ。いなかったら、私達が受ける栄養は何処から来ますか」と返事しました。「栄養はこのへその緒から頂く。そして、この胎内の世界は永久にあったのです。母が本当にいれば、どうして私達は母を見た事がないでしょうか。私達が何も知らない小さい時、私達は何かにすがりつきたい、また慰めになるから、母と言う存在を作り上げたに違いありません。」

 

双子の一人はこのように絶望しましたけれども、もう一人は母の愛を信じ、自分の命を母の手にゆだね、安心しました。そして、やがて生まれる日が来ました。出産は大変ですけれども、やっとその二人は狭い母の胎から新しい世界に入りました。息もちゃんと出来て落ち着くと彼らはゆっくりと目を開き、大喜びの母の美しい顔を見る事が出来ました。そして、彼らは母に抱かれた時、悟りました。自分達は母の家にいたのです。

 

父よ、私の霊を御手にゆだねます」と主イエスは祈られました。そして、イースターに真実である父なる神は御子を復活させて下さいました。イエス・キリストの贖い死と復活のお陰で私達も霊を真の神の御手にゆだねられます。そして、私達もこの世にも、死後にも、神の愛された子供のように豊に、豊に生きられます。(おわり)   2006.4.16

 

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