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使徒信条の学びシリーズ
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
もくじ
1.われは神を信ず
2.天地の造り主、全能の父なる神を信ず
3.その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず
4.主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ
5.主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
6.主は十字架につけられ、死にて葬られ陰府にくだり
7.主は三日目に死人のうちより蘇り
8.主は天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり
9.主はかしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん
10.我は聖霊を信ず
11.我は聖なる公同の教会を信ず
12.我は聖徒の交わりを信ず
13.我は罪の赦しを信ず
14.我は身体のよみがえり、永遠の生命を信ず





使徒信条シリーズ1 【われは神を信ず
◆汚れた霊に取りつかれた子をいやす マルコ9:14ー29
14:一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
15:群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
16:イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
17:群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
18:霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
19:イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20:人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
21:イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
22:霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
23:イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
24:その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
25:イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
26:すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」 と言った。
27:しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
28:イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
29:イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。


 西谷聖書集会5/11/03 われは神を信ず 
【真理とは何か】
聖書の有名なお話ですが、イエス・キリストの裁判で、総督ピラトは主を尋問する時、イエスにこのように聞きました。「それでは、あなたはやはり王なのか。」するとイエスはこう答えました。「私が王だとは、あなたが言っている事です。私は真理について証しをする為に生まれ、その為にこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」そして、ピラトはそのお話を聞いてこのように返事をしました。「真理とは何か。」(ヨハネ18:37)

真理とは何か。それは本当に良い質問だと思います。何故なら、最近、絶対真理と言う事がないと思う人々が増えて来たからです。実は、世論調査によると3分の2程のアメリカ人は絶対真理の存在を疑っています。しかし、その同じ人々は人生について自分の大切な質問の答えを必死に探しています。「私の人生の目的は何ですか。どのように幸せになれるか。心の平安はどのように得られるか。死後にはどうなるのか」などのような質問を問い掛けています。そのような大事な事を聞き求めていますが、真理と言う概念を疑いますと、なかなか満足出来る答えは出て来ないと思います。もちろん真理があると信じなかったら、全ての答えにたいして疑うはずです。特に宗教に関する事の場合も多くの人はその真理が理解しにくいと言っています。宗教の全ての事は主観的な事と思って、宗教的真理がよく分からないと主張する者が少なくありません。

しかし、イエス・キリストによると真理があってそして、真理を知る事が出来ると言っています。主はこのように言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)そして、主はまたこのようにおっしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」(ヨハネ14:6)

キリスト信仰は初めから真理を重んじて、それに従い大事にして来ました。何故なら、信仰は真理を教えるかぎりに力がある訳です。また、キリスト信仰は真理であるからこそ命を懸けて信じられます。当たり前の事ですが、信仰というものがいくら素晴らしい教えであっても真理でなかったら、信じるはずがありません。キリスト信仰は神様の啓示、つまり神の真理に基づいているので信じるべきです。そして、イエス・キリストを通して神の真理がはっきりと見られます。神の御子イエス・キリストがおっしゃった通りに、御自身こそは神の真理です。それゆえに、イエス様を通して私達は神がどんな神であるか、また神の前にどのように生きるべきかを、はっきりと知る事が出来ます。これはキリスト信仰の基本です。

聖書にはイエス様の教えを含めて神の啓示、すなわち神の真理が記されています。その御言葉は手元に旧約聖書の39巻と新約聖書の27巻にありますが、初代教会の時からその一番大事な真理を纏(まとめ)る為に教会の指導者達は信条を書き出しました。短い信条を通してキリスト者、誰でもが信仰の最も大事な真理を覚え、告白する事が出来ました。

いくつかの信条が書かれていましたけれども、使徒信条と呼ばれるものは一番広く使われて来ました。現在はほとんどのキリスト教会は使徒信条を認めて、礼拝で信仰を告白する時、共に朗読されます。プロテスタントだけではなく、カトリックと正教会も使徒信条を重んじて告白します。世界のキリスト教会は様々な違った伝統を守りながら、一つの信条、使徒信条を一緒に告白します。
使徒信条を良く存じる方もいらっしゃると思いますが、皆で一度で朗読しましょう。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりでやどり、乙女マリヤにより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来りて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、生徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。」

この使徒信条は聖書に載っていませんけれども、始めから終わりまで聖書の教えに基づいて、最も大事な神様の真理を纏めています。その真理を学ぶ為にこれからのいくつかの説教で使徒信条を一緒に見てみたいと思います。

【信じるとは】
さて、今日は使徒信条の始めの所「我は神を信ず」を学びましょう。使徒信条にはキリスト者が信じる一番大事な事が記されています。しかし、私達はここで「我は神を信じる」の「信じる」と言うとき、どう言う意味があるのでしょうか。その信じる事は確実な証拠があるから、それをもとに、事実として私達が知ると言う事ですか。それとも、証拠が全くないけれども私はただそのように信じたいと言う事ですか。または、宗教の事はなかなか分からないので、何を信じても、その人の好みであるから構わないのですか。使徒信条に於ける「信じる」は確かにそう言う意味ではありません。その本当の意味が分かるように今日の聖句を学びたいと思います。

今日の朗読、マルコによる福音書9:14ー29はイエスの一つの奇跡を語っています。父親は自分の病気の子供を癒してもらう為にイエスの所に連れて来ました。子供の症状を聞きますと、彼は恐らく癲癇で悩んでいました。イエスの弟子達はその息子の病気を治す事が出来なかった為、主に頼みました。大変な病気ですから父親はこのようにイエスに請い求めました。「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助け下さい。」(23)それに対して、イエスは言われました。「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」その事を聞いて父親は「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と大声で叫びました。そうすると、イエスはその瞬間、子供を癒して下さいました。

この御言葉を通して信じる事について三つの大事な事が分かって来ます。始めに、信じる事には大きな力があります。「信じる者には何でも出来る」とイエス様が約束して下さいました。しかし、その意味は、もし一生懸命に信じたら何でもかんでも出来るという訳ではありません。イエスの意味はこれです。信じる事によって神様の力は全ての状況で届けられます。つまり、息子の癒しと父親の信仰とは関連がありました。彼は信じましたから主イエスは御自分の癒す力を子供に注ぎました。ですから、神の力を心から信じたら、奇跡も可能になります。私達の状況は大きく変わる事が出来ます。間違いなく、信じる事には大きな力があります。

今日の御言葉を通してもう一つの事が分かって来ます。それは信じる事は情熱的です。聖書によると、父親はすくに「信じます」と叫びました。ある古いマルコによる福音書の原文によりますと父親は涙を流しながら「信じます」と叫びました。彼の信仰は決して無感情的ではありませんでした。私達は信仰から全てのフィーリングを取り除く傾向がありますが、この父親は心の底から「信じます」と叫びました。

今日のテキストから学ぶ事がまだあります。それは信じる事はやさしくはありません。つまり、私達の中に信仰と不信仰は同時に存在しています。父親はこのように叫びましたね。「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」確かに信じる事は簡単ではありません。何故なら、リスクがあります。つまり、間違いである可能性があるからこそ、信仰と言えるのです。例えば、神様の存在する証拠が沢山ありますけれども、同時に存在しない証拠もあります。その故に信仰にはリスクがあります。何かが全く確実な目で見える事だったら信仰とは言えません。信じる事には決断と決心が求められています。

使徒信条に戻りますが、奇跡を可能にする信仰と使徒信条で告白する信仰は別々な事ではないかと思われるでしょう。一つは心と関わります。そして、もう一つは口と関わるのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙10:9にこのように書きました。「口でイエスは主であると公に言い表わし、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」実は、本当の信仰は心も口も含まれています。確信と告白、両方が必要です。ただ口先の信仰では足りません。そして、同じように、心に信じても公にキリストを告白しない信仰も欠けています。両方が必要とします。

実は、使徒信条を告白する時、私達はあの奇跡を可能にした父親の立場からそんなに離れていません。私達にも信仰は簡単な事ではないでしょう。私達も不信仰と戦わなければなりません。心から信仰を告白するのだったら、汗をかくはずです。何故なら、リスクがあるからです。実は、明確な、リスクがない事だったら、あんまり信じる価値がないのです。

【信じる決断】
この父親はイエスを信じる決断をしました。私達も何を信じるかは決断しなければなりません。キリスト信仰は全く明確な事ではないかも知れません。また、もちろんとんでもない事でもありません。証拠は色々あります。前に言いましたけれども、この世を見ると神様の存在を疑う証拠もあるけれども、存在する証拠がかなり多くあります。同じように、イエス・キリストは勘違いしている理想主義者である証拠があります。しかし、主は神の独り子、またこの世の唯一の救い主である証拠が沢山あります。信じるのは自分の命をかける事です。決断も献身もいります。

父親の信仰は息子の癒しをもたらしました。神様の力へのドアを開けたのです。信仰によってその同じ力は私達のものになります。例えば、罪の赦しを信じる者には神様の心の癒しがあります。永遠の命を信じるならば、病気と死に負けません。そして、イエス様は本当に「全能の父なる神の右に座したまえり」という事を信じたら、この世で圧制者を恐れる必要がありません。

今日は信じる事と信仰の事を語りました。実は聖書にはその二つの事は一緒です。そして、その最も根本的な意味は「信頼」ではないかと思います。もし誰かを本当に信頼するならば、その人に頼って、自分の命もその手に委ねる事が出来ます。従って、使徒信条の意味は実はこのようになります。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信頼する。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信頼します。また、我は聖霊を信頼する。」
その最も深い意味はこれではないかと思います。お金や自分の力や国やお酒や地位などを信頼するより、先ず唯一の全能の愛である神のみを信頼すべきです。

主イエスはこのように言われました。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの物はみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
このような信仰は決して簡単ではありません。しかし、主の助けによって何よりも先ず神様を信頼すると、比べる事の出来ない平安と癒しと解放は自分のものになります。
神様、「信じます。信仰のない私達をお助け下さい。」


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