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使徒信条の学びシリーズ
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
使徒信条シリーズ6【主は十字架につけられ、死にて葬られ陰府にくだり
イザヤ書53:4ー6
 4:彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
5:彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6:わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

◆神の力、神の知恵であるキリスト         コリントの信徒への手紙一1:18ー25
18:十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
19:それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20:知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
21:世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
22:ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
23:わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
24:ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
25:神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
西谷聖書集会9/7/03【主は十字架につけられ、死にて葬られ陰府にくだり】
【最も低い所】
「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり。」もし使徒信条の中で最も低い所があるとすれば、きっとここに、この言葉にあると思います。ポンテオ・ピラトが主イエスを御自身の敵に渡されると、この最も恐ろしい事が起こりました。

【十字架刑】
十字架の死はローマ帝国の一番厳しい刑罰でした。言い尽くせない程ひどい拷問で、大抵数日にわたって痙攣と窒息と喉の渇きの苦しみを受けながら、少しずつ死んでいきました。その苦しみはあんまりにも酷くて、最悪の犯罪を犯しても、ローマの市民は十字架の刑罰を免除されていました。しかし、権利のない外国人と奴隷はよく十字架に付けられました。十字架は特に、ローマ政権に逆ららった植民地住民の為の罰でした。反逆者やスパイや人殺しなどの場合、その刑罰を使ったのです。すなわち十字架の目的は酷い死に方を皆に見せる事によって、犯罪を防ぐ事です。確かに、それは何よりも効果的な方法だったのではないでしょうか。

不思議な事だと思いますが、私達人間は十字架を奇麗にする傾向がなかなか強いようです。特に、十字架はジュエリーになると奇麗ですね。金と銀になって、拷問の道具よりも、すてきなファッション・アクセサリーになります。そして、教会にある十字架も奇麗でしょう。主イエスの粗い木で作られた汚い十字架と違って、教会の十字架は美しい家具のように仕上げています。
十字架は気に障る拷問と死の道具ですから、奇麗にする傾向が分かりますけれども、恐らくその事によって十字架の意味が薄くなってしまいました。もし全ての十字架はイエス・キリストが架けられた釘後と血の染みとトゲだらけの粗い物だったら、その本当の意味がもう少し分かる気がします。

【苦き杯】
間違いなく、主イエスは十字架の死を恐れました。主は痛みを感じないスーパー・マンではありませんからです。聖書によりますと、逮捕される前にイエスはこのように祈られました。
「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行なって下さい。」そして、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるのように地面に落ちた」と記されています。(ルカ22:42)

御存知のように、その杯は主から取りのけられませんでした。悪い事は何に一つも犯していないのに、主は酷い犯罪人の恥ずべき死を体験してしまいました。皆の目の前で、その言葉に言い表せない程大変な拷問にかけられながら、人のあざけりを受けたのです。
そして、主の最後の言葉はこれでした。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」そして、主は「大声で叫び、息を引き取られた」と書いてあります。いくら言ってもこれは奇麗な場面ではありませんでした。誰でも死刑と拷問と血の事を思いたくない事でしょう。

【死にて葬られ】
そして、使徒信条によりますと、主イエスは葬られました。つまり、主は本当に死にました。皆がその遺体を見てからお墓に入れられ、ドアは閉られてしまいました。

【陰府に下り】
その上、イエスはさらに陰府、つまり地獄にくだりました。地獄はどんな所でしょう。私達には色々なイメージがあると思いますが、聖書の教えでは地獄は基本的に神様がいない所です。神の愛と助け、また御自分の交わりと慰めから全く離れた場所であると記されています。
使徒信条に書かれたとおりにイエス・キリストは地獄を経験しました。主は常に父なる神との完全な関係を持ちましたので、その関係が切れるとはどんなに苦しい事でしょう。
主イエスにとって父なる神は全てです。神の御心を行なうようにイエスは御自分を無にして死までも神に従いました。ですから、主にとって、一番辛い事は陰府にくだり、父なる神の愛から完全に離れる事です。イエスは十字架で大変な肉体的苦しみを受けたのですが、陰府にくだり、愛する父なる神から完全に切り離される事は遥かにもっと辛かったと思います。

【福音の中心】
愛する皆さん、ここにこそキリスト信仰の最も中心的な実体がある事を御存知ですか。
きっと、それは「何故ですか。」つまり、何故主は「十字架につけられ、死にて葬られ陰府にくだり」ましたか。何故主イエスはその大変な、大変な事を経験しなければなりませんでしたか。
その答えはまさに福音の良いお知らせです。すなわち、私達の為に主は十字架につけられ、私達の為に死にて葬られ、そして、私達の為に陰府にくだりました。イエス・キリストは御自分の身に私達が受くべき罰を受けて下さいました。私達一人一人は造り主である神に対して罪を犯してしまいます。つまり、主が教えて下さる完璧な道の代りに、自分勝手な我がままな道を選んでしまいました。その結果、私達は神の敵になって、愛する主の罰を招いています。
聖書に記されている通りに「罪の支払う報酬は死であります。」
御自分の犠牲によって主イエスは私達が支払うべき報酬を払って、私達と神様の関係を回復させて下さいました。罪の全くない神の御子イエス・キリストのみはその役割を果たす事が出来ました。
イエスは唯一の罪のない完璧なお方ですから、罰を受けるに値しない者です。ですから、私達の罪の為の罰を受ける資格がありました。

有名な伝道師ビリー・グラハムは車でアメリカの南部の小さな町を通る時、スピード違反で警察によって捕まえられました。グラハム先生はその違反をすぐ認めましたが、ただ罰金を郵便で送る事が出来なくて、裁判所に行かなければならないと言われました。
そして、裁判所へ行くと判事は「どのように申し立てますか。有罪ですか、無罪ですか」と聞きました。グラハム先生は「有罪です」と答えると、判事は罰を科しました。「罰金は10ドルです。制限速度を超えた1マイル当たり1ドルになります。」
突然、判事は自分の前の人が有名なグラハム師である事に気が付き、このように言いました。「あなたは法律に違反しましたから、罰金を払わなければなりません。しかし、私はあなたの代わりにその罰金を払いたいです。」そして、判事は自分の財布から10ドル札を出して、グラハム先生の罰金を払って下さいました。そして、その上、判事は先生を夕食に招待して、ステーキまでをご馳走しました。
この体験を通してグラハム先生はイエス・キリストの恵みを説明しました。誰でも自分の罪を認め、悔い改めるならば、神は御自分の御子の贖いによってその罪を許し、御自分の愛された子供のように受入れて下さいます。
これが福音です。神は私達が受けるべき罰を御自分の御子イエスに実行しました。ですから、神の目から見ると私達は御自分の敵ではなく、全く清められ、許された子供になりました。

イザヤ書にはイエス・キリストの福音の預言があります。もう一度その素晴らしい御言葉を聞いて下さい。(53:4ー6)

「彼がになったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに私達は思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺しつらぬかれたのは私達の背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達の咎の為であった。彼の受けたこらしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。私達は羊のむれ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪を全て主は彼に負わせられた。」

フィリピンに一人の神父がいました。彼は神学校の時代、密かにある罪を犯して、その罪の意識の重荷をずっと感じていました。悔い改めましたが、その罪の事で神様の許しと平安をどうしても経験出来ませんでした。神父の教会の信者の一人の女の人は神様を幻によく見ると主張しました。その幻に神様と話し合って色々な素晴らしい事を聞いていたのだそうです。信者の経験を確かめる為に神父さんは試す手段を考え彼女に言いました。
「今度の幻に入ると神様に一つの質問を聞いて下さい。それは、神学校の時、あなたの神父はどんな罪を犯してしまいましたか。」
数日後、神父は彼女に聞きました。「幻に神様と会いましたか。」「そうです。長く話し合いました。」「私が神学校でどう言う罪を犯した事かを聞きましたか。」「はい、聞きました。」「何とおっしゃいましたか。教えて下さい」と神父が尋ねると彼女はこのように言いました。「神様がこういうふうに答えました。『私はあなたの神父の罪をすっかり忘れました。その罪はずっと前に赦してあげたからです。』」

皆さん、その理由と意味が分かっていたら、主イエスの苦しく恐ろしい死は全世界の歴史の最も美しい出来事になります。その恥じは栄光になり、その苦しみは勝利になり、また、その不快な事は一番優れた愛の現れになります。

使徒パウロは今日の新約聖書の朗読で福音について非常に意味深いことを書きました。コリントの信徒への手紙一1:23ー24にこの御言葉が記されています。

「私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えているのです。」

その意味は、多くの人々には福音は納得し難い変な話しです。そして、また多くの人々は罪を犯すのに、自分が基本的に良い人間だと信じ、救い主がいらないと思います。そして、ある者はイエス・キリストの犠牲の必要性を疑ってこのように考えるでしょう。「神はどうしてただ私の罪を見逃す事が出来ないか。それは神の仕事ではありませんか。」

しかし、使徒パウロが書いた通りに、「世は自分の知恵で神を知る事が出来ません。」(21)神の考えは人間の考えより遥かに高くて、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(25)

キリスト者は神の約束を心から信頼し、イエス・キリストの十字架の死は私達の永遠の救いの為であったと信じます。そして、私達の信仰の歩みの中で福音の事実と真理を経験します。希望と力、新しい生き方と喜び、また本当の意味のある人生を頂きます。
主イエス・キリストは私達の為に十字架につけられ、私達の為に死にて葬られ、私達の為に陰府にくだりましたからです。




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