診療案内
スタッフ紹介
院内案内
医院概要(アクセス)
リンク
お問い合わせ

治療方針
治療内容

西谷聖書集会
西谷集会写真集
使徒信条の学びシリーズ
十戒の学び

神戸医学校
永遠の命とは
イスラエルの回復
聖徳太子とイエス・キリスト
近藤診療所事始
院長の趣味

使徒信条の学びシリーズ
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
使徒信条シリーズ9 【主はかしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん
テサロニケの信徒への手紙一4:13ー5:11
◆主は来られる
13:兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14:イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
15:主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
16:すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
17:それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
18:ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
1:兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
2:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
3:人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
4:しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
5:あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
6:従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
7:眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。
8:しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
9:神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
10:主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
11:ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
西谷聖書集会10/12/03【主はかしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん】
【わたしたちの未来―イエス・キリストの再臨】
今朝も、私達の使徒信条の学びを続けたいと思います。ここまでは使徒信条の過去の事について学びました。神の天地創造や、イエス・キリストの御降誕と復活などの事を詳しく見て来ました。特に強調したのは、私達の生活においてその過去に行なった神の御業との関連とその重要性でした。
今朝与えられた使徒信条の個所は将来の事を扱います。つまり、イエス・キリストの再臨と裁きの日の事です。言うまでもないが、これから将来に行なわれる神の御業は私達の興味を起こさせます。特に、全ての人類の歴史と存在を全く変型するキリストの再臨は私達には特に感心深い事です。聖書によりますと人間の歴史はこのまま、いつまでも続きません。世界の始めがあったように終わりもあります。全能の唯一の神は、無からこの世を創造しました。そして、神がいつかこの世の人々を裁き、人間の今までの歴史を閉じると聖書には明らかに記されています。

しかし、それは今の私達には想像もし難いですね。私達は千年も万年も生きるように今生きています。そして、私達は今この地球のむこう側で行われている事さえ自分の目で、自分の経験でやった事のない事はなかなか認めようとしないものです。その気持は十分理解出来ますけれども、実際にイエス・キリストの再び来られる事は私達一人一人には何よりも重要な事です。主の再臨は必ずいつか参ります。そして、その準備をしなければなりません。

【キリストの初臨】
一番最初のクリスマスに神の独り子イエス・キリストは謙遜な弱い赤ちゃんの姿でこの世にいらっしゃいました。主は貧しい両親のもとで馬小屋に生まれ、富と名声もなかったのです。約三年間の間伝道をしましたけれども、神の真理を伝えた為、敵が出来ました。最後に、その敵がイエスを十字架に付けたのです。 救い主として、イエスは当時のユダヤ人ほとんど全ての期待にはずれたかのようでした。弟子達は復活されたイエスに出会って、天に昇られる事も見ましたが、多くの当時の人々は信じませんでした。

しかし、将来イエス・キリストが再び来られると世界の全てが認めるように、力と栄光に包まれて来ます。今日の聖書の朗読に書かれるように「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られます。」(テサロニケの信徒への手紙一4:16)
この素晴らしい事を見ると、世の全ての人々はイエス・キリストは神である事を疑わずに分かります。

もちろんイエスは天に昇られてから今まで、ずっとこの世には留守であった訳ではありません。私達が何処へいようともキリストは聖霊を通して現在も私達と共に御臨在して、今も主はここに私達と一緒におられます。主の聖霊はキリスト者を強めて知恵と愛と慰めを授けて下さいます。

【神の国の完成】
しかし、将来、イエス・キリストが再びいらっしゃると、遥かにもっと良いのです。現在の存在よりも私達に恩恵が増す訳です。主御自身を私達の目は直接見ます。つまり、信仰で見た者が目で見えるようになります。また、世界の人々も神なるキリストとその愛を直接に見られます。その上、人間イエスが始めた神の国は成就されます。戦争と争いが世界からなくなり、全ての人は自分の益よりも、隣人の益を求めます。預言者ミカが予告した日をやっと迎えます。「彼等は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦う事を学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、おびやかすものは何もないと万軍の主の口が語られた。」(ミカ4:3ー4)それは主の祈りに祈る「御国を来らせたまえ」と言う、言い尽くせない程素晴らしい日です。

神はイエス・キリストを通して、完璧な儀と憐れみを持って、この世を治めて下さいます。また、死はもはや無いし、神が私達の目から全ての涙をぬぐって下さいます。そして、信仰は実体化して来ます。神の存在と愛は明白な事実になりますので、私達の内にある不信仰を戦わなくなります。

【主の再臨はいつか?】
愛する皆さん、この何よりも楽しみに待つべきイエス・キリストの再臨はいつになるのでしょうか。実は、聖書にはそう言う事が記されていません。イエスはいつか栄光で皆が見えるように必ず再びいらっしゃいますと書いてありますが、私達にはその日は教えられていません。今日の朗読に記されているように「盗人が夜やって来るように、主の日は来る。」(5:2)また、「人々が『無事だ。安全だ。』と言っているそのやさきに、突然」再臨が来ます。さらに、イエス御自身は再臨の時についてこのように言われました。「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけが御存知てある。」(マタイ24:36)つまりその時は神の秘密です。
どうして私達はその大事な事の時が知らせられていませんか。もしその日が分かったら、準備がもっと熱心に出来るでしょう。しかし、神が教えて下さらない理由があります。それは私達は主の再臨を常に期待し、常に用心する為です。

キリストの再臨は今日中に来る可能性が十分あります。そして、後一万年にも来る事が出来ます。私達には分かりません。実は、聖書に書いた通りに、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(ペトロの手紙3:8)神は人間と違って時間に限られていませんので私達は再臨の時を知るはずがありません。私達は同時にイエスがすぐ戻って来ようと、遅く来ようとも日常の生活をしなければなりません。それが神の御旨です。

従って、私達は再臨の日を予報しようとすることをしてはいけません。第一にそれは神の御心ではありません。常に、主が今日こそ来るように生きよと教えられているからです。

そして、第ニに、予告する事は不可能です。神のみがその時が分かると聖書に記されています。

聖書の教えにも関わらず、多くの人と教団はイエスの再臨の日を予告しようとします。聖書の解釈を誤って主の時刻を決めようとします。また、彼等は常に再臨の印しを探して、その日を計算します。私達人間は将来の事を詳しく知ろうとする本能があると思いますが、イエス・キリストに信頼するより、自分の予告に信頼すると、いつも挫折してしまいます。

特に主の為に自分が作った時刻に合わせようとすると私達は失敗して、空しくなってしまいます。神は神ご自身の時刻に戻って来て下さいますので、常にいつも待つべきです。

【再臨を待つ心構え】
しかし、私達はイエスの再臨を楽しみに待つべきだけではなく、待ちながら神の国の為に働かなければなりません。
ある植木屋さんはイタリヤの北部にある大きな屋敷の広いお庭の手入れの担当でした。毎日、毎日彼が木を刈り込んだり、芝生を切ったり、お花に水をやったりなどをしました。植木が枯れったら、すぐに新しい物を入れ替え、また、美しい木を探してお庭に加えて、いつも一所懸命にそのお庭の為に努力しました。ある日、お庭を見に来る人を迎えました。植木屋さんは案内して、素敵なお庭を全部見せてくれました。後で休憩を取る時に、お客さんはこのように聞きました。「ところで、お庭の御主人がここに来たのはいつですか。」植木屋さんは「約10年前に見えましたよ」と答えるとお客さんはまた聞きました。「そうだったら、いったい何故こんなに一所懸命に努力してお庭の手入れをするんですか。」すると植木屋さんは「御主人の帰りを期待していますので頑張っています」と返事しました。お客さんはまた聞きました。「御主人は来週に来ると思いますか。」すると植木屋さんは「私には主人の帰る日などは知りませんが、今日こそ、その帰りを期待し、準備しながら待っています」と答えました。
私達もイエス・キリストの再臨を待ちながら、主の掟に従い生活を歩むべきです。それは神の愛を伝える為、自分自身を愛するように心から隣人を愛する事。つまり、私達の行ないと言葉においてイエス・キリストの福音を分ち合う事です。そうすると主の再臨の準備が出来ます。

【再臨と裁き】
愛する皆さん、主イエスが再びいらっしゃると使徒信条に書かれた裁きが伴います。つまり、「主はかしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」私達一人一人は神の裁きを受けなければなりません。神は私達を大事に造って、色々な賜物、また自由を授けて下さいました。その賜物の使い方に関して私達には責任が伴います。ですから神はただ私達の罪を見逃す事が出来ません。実は、その裁きの日にイエス・キリストを信じる者は二つの気持があると思います。一つは後悔と悲しみ、もう一つは言い尽くせない喜びです。主イエスと隣人をよりもっと忠実に仕えなかった為の後悔です。また、罪を犯してしまった事での悲しみです。しかし、キリスト者には、その悲しみと後悔は喜びになります。何故なら、ローマの信徒への手紙に書いた通りに、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事はありません。」(8:1)つまり、主イエスは御自分の身に私達の罪を受け、私達の代りにもう既にその罰を払って下さいました。そうです、私達を裁く者は私達の救い主になります。ですから、今日の朗読に記されているように、「神は、私達を怒りに定められたのではなく、私達の主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(5:9)その故に、その時まで体験出来なかった完全な感謝と喜びを持って、愛する神の永遠の交わりに入る事です。

確かに、この全ての事は楽しみに待つ事です。今の生活にあんまり関係がないようですね。でも考えたら実際に大きな関連があります。実は、キリストの再臨と裁きが必ず来るから、キリスト者は現在恐れずに生きる事が出来ます。この世には色々な事があります。しかし、どんな事があってもそれは私達には決定的ではありません。何故なら、キリストの再臨が来るからです。神の勝利と私達の勝利は保証されていますからです。

私達は将来の事を恐れなくても良いのです。死さえも愛する神から私達を引き離す事が出来ません。却って、死を通して神の御前に入る事が出来ます。神によって赦されているから罪の結果を心配しなくなります。

COPYRIGHT(C)2003-2005 近藤診療所 ALL RIGHTS RESERVED.