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使徒信条の学びシリーズ
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
使徒信条シリーズ11【我は聖なる公同の教会を信ず
◆パウロの祈り エフェソの信徒への手紙1:15ー23
15:こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、
16:祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
17:どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
18:心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
19:また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
20:神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
21:すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22:神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
23:教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

#11西谷聖書集会 10/26/03 【我は聖なる公同の教会を信ず】
【神信仰】
去年の事だと思いますが、家の子供のカネデイアン・アカデミーの理事会は学校の先生と職員の為にクリスマス会を開きました。そして、理事として私は参加しました。そのデイナーの間、私は学校のボランテイア財務顧問の側に座り、面白い会話が出来ました。彼は大手ヨーロッパ系食品メーカの在日本財務担当ですけれども、日本に来たばっかりです。彼は自分の仕事について少し話してから、私の職業を尋ねました。「宣教師でキリスト教会に仕えている」と答えると彼はこのように聞きました。「日本にはお寺と神社が沢山あるのに、キリスト教会はいったい何故いりますか。」そして、彼はこのように言いました。「実は、僕は長い間教会に行った事がない。神様と近づきたい時は、山歩きをします。何処よりも、大自然の中に神様の存在を感じられるからです。」そのお話を聞くと、私は彼の祭る神について尋ねました。そして、その答えは聖書の神と非常に似ていました。神は唯一の神であることや、天地の創造主や、人間を愛する事などと言いました。「山歩きをしながら、そう言う事を悟りましたか」と私が聞くと、このようにおっしゃいました。「実は、僕は子供のころ、教会に連れていかれましたが、高校に入ると教会を卒業しました。僕は神を信じるけれども教会はいらない。」

もう少し話すと、彼は自分の矛盾する立場がすこし分かって来た様子でした。彼の神の事についての全ての知識は教会から学んだ事でした。それなのに彼は教会はいらないと言っていました。

【聖なる公同の教会を信ず】
今日は、また私達の使徒信条の学びを続けたいと思います。そして、我は「聖なる公同の教会を信ず」と言う所に着きました。「教会を信じる」と言う意味は何でしょうか。使徒信条の最初の言葉は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」そして、先週私達は「我は聖霊を信ず」と学びました。しかし、私達は父なる神と子なる神、そして聖霊なる神と同じように教会を信じるべきですか。つまり、三位一体の神に信頼するように私達は教会にも信頼し頼ると言う事でしょうか。そうではないと思います。簡単に言えば、その意味はおもに「私達には教会がいる、教会が絶対に必要」と言う信念です。教会はいらない、教会を卒業したキリスト者はいません。主イエス・キリストこそが教会を設立して今も生かして下さいます。そして、イエスを信じる者は神の民に入れられ、教会に属しています。使徒パウロは教会を「キリストの体」と呼びました。ローマの信徒への手紙にこのように書きました。「「私達の一つの体は多くの部分から成り立っていても、全ての部分が同じ働きをしていないように、私達も数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」(12:4、5)

孤立したクリスチャン信仰生活は非常に難しいです。なぜなら、キリスト者はお互いな励ましと刺激、また助けが常に必要であります。教会のみにそう言う事ができます。山歩きは楽しい趣味と良い運動になります。また、大自然を見ると神様の創造的力が分かって来ます。しかし、いくら言っても山歩きは教会の役割を果たせません。
そして、御自分の体として主は教会を通してこの世で働くのです。キリスト教会は唯一の真の神の事を教え、礼拝し、唯一の救いの福音を述べ伝えます。また、教会、神の民はキリストの名前によって世界の人々に仕え、主の愛と憐れみを現します。ですから、教会がこの世に絶対に必要なものです。キリスト者は教会を軽んじたり、いらないと思ったりするのは極めて矛盾する事です。使徒信条の「我は教会を信ず」と言う事を告白するとき、「私にはキリスト教会が無くてはならないものである」と言っています。

言うまでも無いが、もし心からキリストの教会を信じるならば、すなわち、絶対に必要であると思ったら、もちろんその教会を愛し大事にします。ヘブライ人への手紙に記された通りに「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人達の習慣に倣って集会をおこたったりせず、むしろ、励まし合いましょう。」(10:24)

皆さん、私達はどのような教会を信じますか。使徒信条によりますと「我は聖なる公同の教会を信ず。」今日の聖書の朗読を通して聖なる教会と公同の教会の意味を調べてみましょう。
この個所を書いた使徒パウロは初代教会に一番影響を及ぼした宣教師でした。彼は地中海地方を巡回して沢山の教会を開拓しました。実は、パウロが設立した教会は色々なチャレンジや問題がありました。例えば、ガラテヤの教会のあるメンバー達は新しい信者を教会に受け入れる前に、ユダヤ教の割礼を受ける事を要求しました。その事で激しい議論がありました。また、コリントの教会では、ある信者達が聖餐式の葡萄酒を飲み過ぎてしまいました。そして、テサロニケ教会の会員の中でイエスの再臨が間も無く来ると信じ、仕事を止めた人もいました。そのような信者の生活を支えるのは大変な問題になりました。ですから、使徒パウロはその教会に手紙を書いて、問題を取り扱いました。しかし、一つの問題が常に出て来ました。

それは各個教会主義と言う事でした。つまり、各教会の会員は自分の教会の事ばっかりに集中する強い傾向があったのです。他の所にある教会の問題やneedsや勝利などを自分の教会と関係ないと思って、公同の教会のvisionがあんまりないと言う事でした。つまり、教会のvisionが大変狭かったのです。また、各個教会主義と伴って他の教会を批判する傾向もありました。「ほら、あの教会のやり方を御覧なさい。我々の教会にはそんな事が許せない」と言う態度がたまに出て来ました。 ですから、使徒パウロは各教会に手紙を書きました。イエス・キリストの教会は公同の教会であると言う事を彼等に気付けさせました。彼等の各教会一つ一つは大事ですけれども、各教会は大きな公同の教会のただ一部です。イエスの体、すなわち教会は一つであるから、お互いに愛し、また神の働きをする為に協力しなければなりませんと言うメセージを送りました。しかし、そのメセージの伝え方は実際に素晴らしいものだと思います。彼等を叱って、教会は基本的に公同の教会であると直接に言うよりも、パウロはイエス・キリストにおいて全ての信者が受けた言い尽くせない程、素晴らしい恵みを彼等に思い起こさせます。そして、その恵みは各教会それぞれの為だけではなく、全体の公同の教会の為であると教えて下さいます。

今日の個所には使徒パウロは彼等の「心の目を開いて下さるように」と神様に祈ります。心の目が開かれて「神の招きによってどのような希望が与えられているか」と言う事が分かるようにと祈りました。そして、その希望は何ですか。それは愛する神の最終的勝利です。その時、神は新しい天と新しい地をもたらして下さいます。嘆きと苦しみがないし、死も滅ぼされています。神は正義と愛を持って人間を治めて下さいます。そして、その希望は誰のものでしょうか。だたエフェソの教会か西谷聖書集会のものですか。いいえ、それは大きな公同の教会が持っている希望と約束です。

そして、パウロは更に「聖なる者達の受け継ぐものがどれ程豊かなな栄光に輝いているか悟らせて下さるように」と祈りました。私達は何を受け継ぎますか。それはおもに私達の為にイエス・キリストがなさった事です。そして、その贖い死と救いは誰の為でしたか。フィリピの教会と西谷聖書集会だけの為でしょうか。もちろんそれも公同の教会、全世界教会と至る国々にいるキリスト者の為です。

パウロは続けてこのように祈りました。「私達信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるか、悟らせて下さるように。」その力が誰に与えられましたか。ただローマの教会に。ただ西谷聖書集会に。いいえ、その力は公同の教会の為です。
パウロは更に他の恵みを語ります。イエスの復活と天国において主の地位を述べます。その事も、もちろん公同の教会の為の恵みです。そして、23節に今日の朗読のクライマックスになりますが、使徒パウロはこの事を書きました。「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」それは公同の教会です。「私」の各個教会はいくら素晴らしくても決して「全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場」ではありません。全世界の公同の教会のみがその場であります。

「我は公同の教会を信ず」と言うのはどう言う意味ですか。信者は自分の各個教会の会員でありながら、キリストにつながる全世界の公同教会にも属しています。色々な教派があっても、イエス・キリストを信じる者誰でも同じ主のものですから、同じキリストの体の一部ですから、兄弟姉妹です。その故に、兄弟姉妹として認め、互いに愛し尊敬しなければなりません。そして、この素晴らしい祝福と恵みを隣人に伝え、神の働きをする為に、全世界の教会が協力すべきです。我は公同の教会を信ずるからです。

【聖なる教会】
最後に使徒信条によりますと、「我は聖なる教会を信じます。」「聖なる」という意味は何でしょうか。罪のない、完璧なものですか。つまり、「我は完璧な教会を信ず」る訳ですか。そうではありません。キリストの教会は決して完全ではありません。実は、教会は罪人の集まりです。私達は完璧だったら教会と神の救いがいらない事でしょう。人間は罪人であるからこそ神と教会の助けを必要としております。罪を犯す人ばっかりから構成されていますので教会も罪深いです。過ちを起こしたり、教会の頭である主イエスの戒めに完全に従いません。

聖なると言うのは神様の目的を果たすため、また、主の働きをするために聖別されたものです。それは教会の使命です。始めから終わりまで、イエス・キリストのものですから聖なる教会です。ですから、私達は教会としてその使命をいつも覚えなければなりません。

私達は讃美歌191番を歌います。その教会についての讃美歌の中にこの意味深い歌詞があります。
  「四方の国より選ばるれど
   望みも一つ、業も一つ
   一つのみ糧共に受けて
   一つの神を拝み頼む。」
私達は聖なる公同の教会に入れられたことを、神に感謝します。われは聖なる公同の教会を信ず。
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