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合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
使徒信条シリーズ13【 我は罪の赦しを信ず
ヨハネによる福音書8:1ー11
 1:イエスはオリーブ山へ行かれた。
2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3:そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6:イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10:イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11:女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
#13西谷聖書集会11/23/03【 我は罪の赦しを信ず】
【姦通で捕らえられた女】
ある女の人は姦通の現場で捕らえられました。律法学者達やファリサイ派の人々、すなわちその時代のユダヤ教の指導者達は、イエス様を計略にかけるように彼女を連れて主の前に立たせ言いました。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」ユダヤ教によりますと、彼女の違反は死刑を受けるに値しました。しかし、当時イスラエルを治めたローマ帝国の法律では、ユダヤ教のリ−ダ達には死刑を宣告する権利が与えられていませんでした。もしイエスは「彼女を処刑しなさい」と言ったら、ローマ帝国に逆らう者になります。逆に、「石で打ち殺してはならない」と言うと、皆の目の前でユダヤ教の律法を無視する者になってしまいます。ですから、イエスの敵は主を捕まえる為に、非常に賢い罠を掛けたと思いました。

しかし、イエスは女の罪の代りに、律法学者達とファリサイ派の人々の罪に注目して、彼等が罠に陥りました。「あなたたちの中で罪を犯した事のない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエスが言われました。そして、聖書によりますと「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」結局、ユダヤ教の指導者達は自分のかけた罠に自らかかってしまいました。
そして、「婦人よ、あの人達はどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と主が聞くと、彼女は「主よ、誰も」と答えました。そうすると主が言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」このイエス・キリストの赦しの言葉を通して、私達の為の神の愛と哀れみの深さがよく分かって来ます。

愛する皆さん、あなたはこの劇的出来事の中で誰に同情しますか。ここには三つの役が考えられます。ユダヤ教の指導者達、そして、姦通の女の人、そしてイエス様です。順番にこの三つの役に入る事によって今日の御言葉を学びたいと思います。

【律法学者達とファリサイ派の人々】
始めに律法学者達とファリサイ派の人々の立場を見てみましょう。彼等は社会の道徳的基準を守ろうとしたのですが、非常に独善的でした。姦通の現場で捕らえられた女の人を公に責めて、恥をかかせました。そして、彼女の改心よりも滅びを好みました。救いよりも罰を願ったのです。律法学者達とファリサイ派の人々は罪人をわざわざ探して犯人を苦しめるのが彼等の楽しみでした。
その上、彼等は女の人を利用して、イエスを計略にかけようとしたのです。実は、その罪は彼等には便利なものでした。イエスを台なしにしてしまう為にそのような女を探して皆の前に出したのです。女が犯したその罪に深く関心を持って、心配をしたのではなかったと思います。ただイエスの人気を恐れる為、彼女を使って主を困らせようとしました。律法学者達とファリサイ派の人々の工夫は失敗しましたけれども、彼等がどんな人であるかが明らかにしました。
 
私達は自分の中をよく見ると、律法学者達とファリサイ派の人々の態度を発見出来ると思います。恐らく、私達も人の罪が公にさらされると、本人の気持を考える前に喜んだ事があるでしょう。特に、その人の成功をうらやんで、或いは、その人との仲が悪い場合そうです。そのような人の失敗を楽しみに待つ事があるのではないかと思います。そして、人が私も犯す同じ罪で訴えられたら、独善的にその人を批判する傾向がある事でしょう。

私達はどうして自分の行動で回りの人々に神様の憐れみと赦しを表すことがそんなに難しいのでしょうか。私達はどうして人を責めて、石を投げる群衆の中にまざっているのでしょうか。それは、恐らく神様からの赦しと憐れみを十分理解し、経験していないからでしょうか。イエス・キリストの贖い死によって、人間を造った唯一の神は私達の全ての罪を赦し、御自分の愛された子供のように受入れて下さいました。罪の故に永遠の滅びに向かっていた私達を救って、永遠の命を賜りました。その大きな大きな赦しと憐れみを頂いた私達は隣人を心から赦すべきではないでしょうか。

イエス様は律法学者達とファリサイ派の人々に「あなたたちの中で罪を犯した事のない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いましたけれども私達にも同じ事をおっしゃると思います。そして、罪深い私達は何も答えられません。

ジョージ・ホイットフィルドと言う18世紀のイギリスの説教者はある日、死刑場に連れられた悪名高い犯罪人を見ました。犯人は道を歩きながら皆は彼を嘲って大声で酷い呪いを叫びました。しかし、ホイットフィルド師はこのように言いました。「神様の恵みがなけらば、我も彼と同じ所へ行く。」

【姦通の女】
今度は私達がその姦通の女の役になって見ましょう。私達皆は過ちを犯して、人の軽蔑と批判を受けた事があるでしょう。人から恥じをかかせられて、石で投げられたような思いがありますか。それとも、あなたは失敗や失われた夢の事で自分を責めた事がありますか。また、自分だけが知る隠れた過ちの故に罪の意識で悩んでいますか。すなわち、自分自身に石を投げていますか。

私達皆はいつも神と人間に対して罪を犯してしまいます。それは人間の堕落した状態です。ですから私達も、主イエスが姦通の女に言った言葉「私もあなたを罪に定めない」を聞く事を切望します。家族の者から、友人から、同僚からその言葉を切に願っています。

更に、私達の造り主である唯一の神からもその言葉、「私もあなたを罪に定めない」と聞きたいのであります。実は、イエス・キリストの十字架を見ると神様からその良いお知らせが聞こえます。十字架を通して愛する天の父なる神は私達の価値と赦しを宣言しました。御自分の独り子イエスを犠牲にする程、私達一人一人を愛して、赦しを届けて下さいました。ローマの信徒への手紙に記されているように「人を義として下さるのは神なのです。誰が私達を罪に定める事が出来ましょう。」(8:33ー34)
私達もあの姦通の女のように「主よ、誰も私を罪に定めません」と答えられます。そして、主は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言って下さいます。

ある男の人が有名な伝道師D.L.ムーデイ先生を訪ねて来て、赦しと永遠の命の事について聞きました。そしたら、ムーデイ先生は聖書のヨハネによる福音書(6:37)を開いて読ませて、次のように言いました。「イエス・キリストは『私のもとに来る人を、私は決して追い出さない』と言われました。この言葉を聞いた彼は言い返しました。「先生、私は大変な酔っぱらいですけど。」ムーデイ先生は「聖書には酔っぱらいは例外であるとは記録されていません。そして、男は言いました。「しかし、私は妻と子を捨てた人間なのですよ。」ムーデイ先生が返事をしました。「あなたは真に悪い罪を犯しましたね。しかし、そのような罪人を除きますと言う言葉も聖書には出て来ません。」そしたら、彼はまた叫びました。「先生、先生は私をあまりにも知らないからそんな事が言えます。私は人の物を盗み、刑務所で数十年間を送った悪い者ですよ。」ムーデイ先生はもう一度力をいれて言いました。「兄弟よ、それさえも例外であると言う言葉はありません。イエス・キリストは『私のもとに来る人を、私は決して追い出さない 』と言われました。」

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と主があの姦通の女と私達にも言って下さいます。これはどう言う意味なのでしょうか。「これから、また罪を犯したら赦しがない」ですか。いいえ、そうではありません。神は続けて赦して下さいます。主イエスの贖い死は全ての罪を贖う力があります。しかし、人間を赦しながら、神は私達の罪によって悲しまれています。なぜなら、その罪はこの世に苦難と悲劇をまたらしているからです。実は、私達は神によって赦されると、悔い改める心を現すべきです。つまり、与えられた赦しの為に、罪をもう犯したくない反応と努力が出て来るはずです。罪を犯して愛する神を悲しませたくない決心です。それは「これからは、もう罪を犯してはならない」と言う意味なのです。

【罪を赦すキリストの大使】
最後に、今日の朗読におけるイエス・キリストの役を見てみましょう。キリスト者はこの世に神の恵みを現す主の大使ですから、私達も日々の生活において赦しを現す特権が与えられました。先ほど捧げた主の祈りで私達は何を願いましたか。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」私達も隣人によって傷付けられた場合「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言う赦しのメセージが与えられました。

使徒信条には「我は罪の赦しを信ず」と言う表現があります。全人類は何よりも赦しが必要であり切望しています。神からの赦しと人間同志からの赦しです。私達、赦しを信じる者は赦しを受けながら、自由に赦しを私達の回りに現すべきです。この使命は神様から頂いたのです。我々は罪の赦しを信じます。



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