診療案内
スタッフ紹介
院内案内
医院概要(アクセス)
リンク
お問い合わせ

治療方針
治療内容

西谷聖書集会
西谷集会写真集
使徒信条の学びシリーズ
十戒の学び

神戸医学校
永遠の命とは
イスラエルの回復
聖徳太子とイエス・キリスト
近藤診療所事始
院長の趣味

使徒信条の学びシリーズ
合衆国長老教会宣教師、西谷聖書集会牧師   ウイリアム・モーア
使徒信条シリーズ14 【我は身体のよみがえり、永遠の生命を信ず
コリントの信徒への手紙一15:35ー58
◆復活の体
35:しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
36:愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
37:あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
38:神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39:どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40:また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
41:太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
42:死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
 43:蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
44:つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
45:「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
46:最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
47:最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
48:土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
49:わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
50:兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
51:わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
52:最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
53:この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
54:この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
55:死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56:死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57:わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
58:わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

#14西谷聖書集会11/30/03【我は身体のよみがえり、永遠の生命を信ず】                 

【最後の課題】

今日で私達の使徒信条の学びはようやく完成されます。数ヵ月にわたって使徒信条を通してキリスト信仰の最も大事な事を扱って来ました。始めに天地の造り主、全能の父なる神の事を学びました。そして、使徒信条の最も大きな課題、子なる神イエス・キリストの色々な事をくわしく見てきました。「主イエスは聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来りて生ける者と死ねる者をさばきたまわん。」今度は、私達と共にいて下さる聖霊なる神を学びました。更に教会の事と罪の赦しの事についても学びました。そして、今日、最後に「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と言う課題が与えられました。
使徒信条はこの大勝利のテーマで閉じます。身体のよみがえりと永遠の生命は死の上の征服を示します。死は私達一人一人の最終の敵だけではなく、生きている間、私達を常に脅して来た敵なのです。使徒信条の前半のクライマックスはイエス・キリストの死の上の勝利、そして、後半のクライマックスは私達キリスト者の死の上の勝利になります。

しかし、ここでの使徒信条の言葉はちょっと分かり難い点があると思います。使徒信条は「我は身体のよみがえりを信じる」と言う言葉を通して死の上の勝利を表現しますが、「身体の蘇り」を聞くと私達はちょっと気になる事があります。誰でも知っていますけれども、人間が死ぬと体は種々の元素に分解してしまいます。創世記の御言葉の通りに「ちりにすぎないお前はちりに返る。」(3:19)私達はそのようなものですから、身体のよみがえりはちょっと想像し難いですね。

【身体の蘇りと魂の不滅】
広島で伝道している時の事ですが、あるお祖母さんが相談しに来ました。彼女は身体の蘇りを信じましたけれども、火葬されたら、もし遺骨がばらばらになると、身体の蘇りは難しくなると言う恐れがありました。「無から天地万物をお造りになった全能の神様には不可能な事はない」と私がお祖母さんに説明しましたけれども、それを言っても完全に納得のゆくものではない気がしました。
ですから、死後の状態と言うと「身体の蘇り」よりも「魂の不滅」の方が分かりやすいと思います。しかし、魂の不滅は聖書の言葉ではありません。それはギリシアの哲学者プラトンの思想です。プラトンによりますと、人間の体は蝶々のまゆのようです。そして、魂は蝶々です。死ぬ時、魂は蝶々のようにまゆから解放され、自由に飛び立つ事が出来ます。そうすると、朽ちるまゆ、すなわち体が全くいらなくなり、意味のない物になってしまいます。

特に体が弱って来て、病気で悩んでいる者達には身体の蘇りは受入れ難い事だと思います。私の父方の祖母は97歳まで生きていました。彼女はとても多忙な生活を送りましたが、最後の数年間は、耳が遠くなり、目も駄目になりました。そして、関節炎の為に痛みが多くて寝たきり状態でした。実は、我慢できなくなり、祖母は何よりもその体から解放されたかったのです。そのようなぼろぼろになった体が蘇ったら、絶対にお断りだと思います。
それにもかかわらず、使徒信条は どうして迷わずに「我は身体のよみがえりを信ず」と主張しますか。前に言いましたけれども、身体の蘇りは聖書の教えであるからです。聖書によりますと、人間は肉体に閉じ込められた魂よりも、魂によって活気された体です。つまり、体と魂、両方が高く評価され、私達には両方が大事です。その反面、プラトンの哲学によりますと、体はやがて捨てられる良くない物で、魂は遥かに良く評価されています。

考えて見ますと、私達はこの体によってこそ認定されています。肉体から分離された魂だったら、なかなか認定しにくい事だと思います。そして、体を通してコミュニケーションも出来ます。自分の声と顔の表情、自分の身ぶりなどで色々な事を相手に伝えます。また、体がなければ人との関係を持つのは不可能でしょう。実は、自分の体は自伝のようになります。自分の生き方と感情、また心の状態と信仰も自分の顔に反映されています。

しかし、体の蘇りを信じるという事は、この今、持っている全く同じ体が残る意味ではないと思います。現在持っている体は生まれた赤ちゃんの体と違いますね。そして、体の細胞は常に新しくなりますので、今日の体は明日の体とは全く同じわけでもありません。体の蘇りと言うのは、自分のアイデンテイテイ、自分の記憶と歴史、自分が学んだ事と自分の名前さえも残ると言う意味なのです。そして、蘇らされた私達はその時点で、誰であるかが認められています。神のところに帰った「自分」と言う者は、神のところで消え去るのではなく、私達のユニークな一つしかない私個人が残る訳です。
 
蘇らされた体はどのような体でしょうか。今日の聖書の朗読に使徒パウロはその問題を扱います。35節を見ますと、このお話しが記されています。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」そして、その質問に答える為、使徒パウロは譬話のような話しを語ります。37節からあります。「あなたが蒔くものは、後で出来る体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」つまり、種と種から出て来る植物はアイデンテイテイがあります。まったく同じ物ではないけれども、植物は自分の種から出るので、その種の中に、出て来る植物の可能性が全部あります。種とその出て来る植物は相当しますけれども、植物は遥かにもっと素晴らしい物です。植物は自分の種の可能性を実現するからです。有用になって、また、自分の種よりも美しい物になります。同じように、今の私と蘇らされた私の様子は同様ではありませんけれども、両方は私です。ただ、蘇らされた私はもっと素晴らしくなります。

42節からその二つの体が比べられています。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちる者でも、朽ちない物に復活し、蒔かれる時は卑しい物でも、輝かしい物に復活し、蒔かれる時には弱い物でも、力強い物に復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」そのような体を神様から頂くのは何よりも楽しみに待つべき事ではないかと思います。

身体の蘇りに伴って、もう一つの大事な事を覚えて頂きたいです。それは愛する神のみは私達を復活して下さいます。その反面、「魂の不滅」と言うと、死後の命は自動的な権利のようなものになります。自分の魂が不滅だから、当然に体が死んでも自分が残ると言う意味なのです。でも体の蘇りの意味は違います。神様の力がなければ、死んだらそれは終わりです。死は最終的なものです。しかし、愛である神は私達の為に死の力を滅ぼして、わざわざ私達を復活して下さいます。つまり、神が何もしなかったら、私達は死ぬと、自分の全てがなくなってしまいます。ですから、蘇りの希望は自分の力においての希望ではありません。私達の希望は始めから終わりまで唯一の神におかれている訳です。神のみが人間を復活する力を持っているからです。「我は身体の蘇りを信ず」と告白すると、その神のみにおける信仰を現します。

【我は永遠の生命を信ず】
使徒信条の最後の言葉は「我は永遠の生命を信ず」です。それは「身体の蘇り」と同じように、神様が私達の為に備えて下さる死の上の勝利を説明します。今のこの世の命は色々な面であいまいです。と言うのは、苦しみも楽しみもあります。不満と満足もある。悲しみも喜びも経験します。失敗も成功もあるでしょう。不正義と正義などがあります。年を取ると力がおとろえる事があります。ですから、命に対して、あいまいな気持があると思います。生きたいけれども、同時に今の存在よりも優れたものを切望します。そして、病気と高齢に伴って力と健康をそこなうと、今、この世での命は永遠に続かない事はありがたく思います。しかし、神が下さる永遠の命は全然あいまいではありません。使徒パウロが記した通りに、「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」(ローマ8:18)
直接神様の御前に出られる私達の喜びと楽しみと満足は完全になります。全ての面で満たされて、今、私達が想像出来ない程素晴らしい存在になります。そして、その神様から賜る命は幸いで永遠に続きます。

このように使徒信条は勝利の叫びで閉じます。天地の造り主、全能の父なる神とその独り子、イエス・キリストを信じ、また聖霊と罪の赦しを信じ、そして「身体の蘇り、永遠の命をも信ず」と言います。だから私達は喜びを持って、恐れずに現在と将来に向かう事が出来ます。つまり、この世にどんな事があっても、キリスト者は希望を持って未来に直面する事が出来るのです。愛する全能の神は私達の将来を保証しますので、大きな、大きな希望を持って生きる事が出来ます。それは何よりも、使徒信条の私達の為のメッセージです。

【アドベントーキリスト来臨】
今日からアドベントの季節に入ります。アドベントとは「来る」と言う意味のラテン語から出た言葉で、イエス・キリストの来臨を意味しています。つまり、キリストの降誕を待ち望むクリスマスの前の四週間の期間をさしています。この季節に主の降誕の意味を新たに覚え、クリスマスを正しく祝う為に心の準備をします。過ぎ去った一年間の罪を思い起こし、悔い改め、神の赦しを求め、新しい希望と喜びを持ってクリスマスを迎えられるよう、心をととのえます。アドベントリースには蝋燭は4本あり、日曜日ごとに、一本ずつ灯をともしていき、しだいにクリスマスが近づいて来る事を、蝋燭の灯の数が増えて行くのにつれて強く意義するようにしています。
イエス・キリストの御降誕と私達と共の生活、また十字架の贖い死と復活によって愛する神はこの暗き世に唯一の確かな希望を備えて、私達を照らして下さいます。どうか私達一人一人がイエス・キリストを心から信じ、主の確かな希望と溢れる喜びの中に生きられるように祈っております。「我は身体の蘇り、永久の生命を信ず。アーメン。」(おわり)

COPYRIGHT(C)2003-2005 近藤診療所 ALL RIGHTS RESERVED.