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【T.王としてのダビデの願い―神殿建立】
歴代誌上29章1‐20節は、ダビデ王による神殿建立の準備と、その直後のダビデの祈りを記しています。これは、神に対するダビデの熱心さと献身振りがよく現われた言動です。しかし、このダビデの言動は単に熱心な献身振り、あるいは民への良き模範ということだけではなく、実に、神の前における王たる者の謙遜で従順な行為です。ここに記されるダビデの神殿建設に向けた大いなる寄進には背景があります。それは、全会衆とソロモンとに対するダビデの説明の言葉に明らかですが(28:1‐10)、その元の出来事は17章1‐15節に記されています。ダビデは元々、神殿を建てること自体を発願しました(17:1以下)。これは王であるダビデにとって重要であり、また当然でした。
古代国家は押し並べて祭政一致国家でした。特に異教国では王が神格化されることが多く、また宗教家が政治に関与することも普通でした。たとえ実際には政治権力者と宗教従事者が異なっていても、しばしば、そのいずれかがもう一方の領域にも関与し、あるいはは支配していました。イスラエルではもちろん、王は直接に宗教祭儀に従事しませんでしたが、しかし、政治であれ、宗教であれ、他の何であれ、すべては主なる神の統一的支配の下に置かれていました。
イスラエルの民はダビデ王の時代に初めて、国内統一および外国との和平が成りました。既に移動遊牧社会から農耕を主とした定住社会を形成し、政治体制もその時代に適合して、隣接列強諸国のそれと相俟って、王朝国家となりました。この国には確かに真の神がいますということを、時代状況にふさわしい方で表現することが必要でした。もちろん、生けるまことの神は天地の創造者であり、万物を超越しておられますから、幕屋であろうが、神殿であろうが、神の臨在と働きには何の変わりもありません。幕屋から神殿に変わったところで、神の救いの効果に違いが生じる訳ではありません。しかし、諸国民の只中にいるイスラエルにとっては、神殿と幕屋とでは、その政治的、社会的、心理的影響は大きく異なります。
神殿は、イスラエルにおける主なる神の臨在と救いの、旧約時代における最も典型的な象徴でした。したがって、神の救いの歴史的進展という観点からも、統一王国の成立にとって、神の臨在と救いの象徴形態が幕屋から神殿に変わることはふさわしいことでした。それゆえ、ダビデは王としての権限と責任から、神殿建立を目指した訳です。
【U.神の「否」の答え―ダビデの応答と結果】
しかし、ダビデの願いに反して、神はそれを許されませんでした。ダビデの神殿建設の願いと神の不許可はサムエル記にも記されますが(サムエル記下7:1以下)、この歴代誌の箇所では「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない」(4節、強調表現)という主の意志が明確に記されています。これは、歴代誌がダビデ王朝とユダ王国の正統性を弁明する「正史」であることを考えると不思議です。
ところが、ダビデは神の「否」を聞いたとき、即座にそれを受け入れ、それに従いました。彼の祈り(歴代誌上17:16‐27)はそのことを明らかに物語ります。彼はそのとき、神の器としての自分の「分」をわきまえたのです。神は歴史の中でイスラエルと共に長く歩んでくださり、イスラエルの救いのために働いてくださいます。しかし、ダビデは―他の誰でも―神の救いの歴史の中の、またそのための僅かな一コマに過ぎません。
実に、主なる神だけがイスラエルのまことの王であり、ダビデはその方の地上の器に他なりません。この真摯な態度が神殿建築準備の後の祈りによく表われています(29:15)。神の器にも限界があります。それを見極め、受け入れるのが、本当の神の人です。
かのモーセも神の大いなる器、神の救いの歴史において一つの時代を画した人です。しかし、イスラエルの民をエジプトからシナイ山にまで導き、神の契約授与の仲保者となったモーセでさえ、約束の地には入れませんでした―彼の意に反して! ピスガの頂で遥か眼前にそれを眺望するに終わったのです(申命記34:1‐4)。神の人と言われたモーセもまた、神の永遠の臨在と支配に比べた人間の命の短さを告白しました。これを知ることが知恵の初めです(詩編90:1、2、4‐6、9‐10、12)。
神の前での真のへりくだりと従順とは、神のみ業の器としての自分の召し、その特権と責任の限界を受け入れることです。ダビデは神の「否」を受けて、神のみ業の進展における自分の位置と使命を正しく知り、それを引き受けたのです。それが、神殿建築自体ではなく、ここに記されるように、そのための資材の準備・寄進と、家臣への率先垂範なのです。神殿建設は、神が我が子ソロモンに与えられた特権と責任である―ダビデはこれを率直に受け入れたのです。
ダビデに対して「否」を発せられた神は、しかし、その後で、ダビデの子たちの中から彼の後継ぎを起こし、その後継ぎの王国を確立してくださることを、そして、その後継ぎたる者が神のために家を建てるということを明言し、約束されました(歴代誌上17:10以下)。イスラエル統一王国の祖となる光栄に浴したほどのダビデですが、そのダビデがここで学ばなければならなかったことは、彼が神のために家を建てるのではなく、反対に、神ご自身が救いの歴史の中でダビデとその王国を永遠に確立してくださるということでした。
しかし、それなら、ダビデは何もしなくてもよく、ただ神様任せでよいのかというと、決してそうではありません。神の救いの歴史の中で彼が果たすべき分、すなわち、神がご自身のみ業の遂行において彼を用いられる部分もちゃんとあります。
それが、神殿建立のための準備、資材の奉献でした。ここに記されるダビデの膨大な量の捧げ物は、まさにダビデの献身の証です。しかも、ダビデも家来も、多くを捧げたことについて大いに喜びました(9節)。しかし、彼らが自分たちの捧げものを大いに喜び得たのは、ダビデが神の「否」に対して率直に、謙遜に服従したことの実りでした。
29章は歴代誌では、ダビデの生涯と事跡を記す最後の箇所ですが、ここに見るのは、神に対するダビデの感謝と喜びと希望の祈り(10‐20節)です。イスラエル正統王朝の祖、ダビデの生涯は、主への謙遜と献身、そこから来る感謝と喜びと希望で閉じられました。まことに幸いな神の人でした。神の「否」を信仰によって受け止め、自分自身の立場・使命を的確に知り、それにふさわしく生きた人でした。
【V.ダビデの子、イエス・キリスト―神の約束とダビデの願いの成就】
神がダビデの子孫から真の後継ぎを起こし、その者が神のために家を建てるという神の約束は、時至ってイエス・キリストによって実現しました。「この神殿を壊しなさい。そしたら、三日でそれを立て直す(起こす)」(ヨハネ2:19)と言われたダビデの子、イエス・キリストによって、神の約束は成就したのです。実に、イエス・キリストこそ、神がその民と共におられること―インマヌエル!―を歴史的に現実化、具体化された方です(マタイ1:23)。神はその民に、キリストにおいてご自身を最高度に、真実に、人格的な仕方で啓示し、提供されました(ヘブライ1:2、3)。キリストはその地上生涯において、罪人のすべての罪を担い、それに対する神の刑罰を受けてくださり、罪の赦しの基を据えられました。そして、死者の中から復活し、信じる者にその復活の命を与えて、神の前に、神と共に真に生きることができるようにしてくださいました。キリストは神と罪人の仲保者となって、人が神に立ち返り、神が人と共におられる現実を造り出してくださいました。キリストはまさに、神殿が象徴し約束していたものを成就されたのです。
しかし、ダビデがそうであったように、キリストもまた、神の救いの歴史の中で一定の限界・制約を担われたのです。キリストは確かにすべての罪人のために一回的に真の贖いを果たされましたが、しかし、その贖いが歴史の中で現実に実を結ぶのは、すなわち、個々の罪人が実際に、確実に贖われるのは、御霊の神がキリストの弟子たちの宣教を用いて働かれることによってでした。キリストのみ業なしには、救いはあり得ませんが、しかし、弟子たちの宣教を通した聖霊の働きなしには、キリストのみ業は実を結びません。キリストは地上在世中に弟子たちに、彼らがご自身よりもっと大きな業をすることを予告、約束されました(ヨハネ14:12)。こうして、キリストは父なる神が委ねられた務めを過不足なく知り、実行されたのです。すなわち、神の救いの歴史の中でのご自身の位置・役割を的確に認識し、引き受けられたのです。
私たちはキリストのみ業ゆえに救われ、生かされています。そして、キリストの弟子、神の器たらんとしています。私たちに必要なことは、キリストが教会において、また教会のために働かれる中で、自分がどのような位置にあるのか、自分に今何ができるのか、何が求められているのかを絶えず問い、主に祈り、主から示され、それを受け入れるということです。献身とは、独り善がりの決心と熱心さのことではりません。神の御旨を受け入れ、それに自分を適合させること、すなわち、自分に対する神の召しの内容・範囲・程度・限界を誠実に受け止め、それを実行することに他なりません。私たちは自分の“目の黒いうちに”何もかもすることはできません。いつ何を、今何をなすべきか・なし得るかを知り、そして実行できるように、主の助けと導きを求めましょう。
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神と津波
ウイリアム・モーア宣教師 2005年1月9日 |
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詩編34編 2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。 5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。 6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。 8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。 9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。 11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
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【巨大津波】
一人残らず、私達はこの間の恐ろしい津波の事でぞっとさせられたと思います。このところ毎日、テレビを通してその生々しい現場が見られ、私達の想像を超えた津波の破壊的力に驚くばかりです。現場から遠く離れていても、被害統計を聞くと、津波がもたらした災害の範囲が分かってきます。死者は15万人以上、家族のメンバーを無くした者と怪我人は数十万人、住む家を失った人は5百万人、職場を無くした人は数百万人、そして飢えている人は2百万人程です。国連によりますと、今回の自然災害の被害の程度は60年ぶりだそうです。津波の為の精神的と肉体的の苦しみはきっと私達の想像を超えるものです。
【神は何故】
その災害がもたらしたひどい悪に対して、多くの人はこのような質問を聞いています。もしこの世と宇宙を創造された神が愛する全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして津波のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるなら、善い神は御自分の被造物をそのような非常な災いから守るべきではないでしょうか。
ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるんですが、津波までは足りてないのです。神は実際に全ての悪をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手におえません。」
その反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい私達までは忘れているのです。」あるいは、「神は私達を見るのですが、哀れみをあんまり感じてません。」
【聖書の答え】
このように私達は自分で考えられる範囲の中で色々な解釈をしています。いったい神は何故このような事が起こるままに放置されたのでしょうか。
しかし、私たちは聖書全体を通して人間に対する神の善と哀れみがよく分かります。例えば、今日の朗読、詩編第34編は神の善良にたする賛美です。9節を見ますとこの御言葉があります。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いな事か、御元に身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠ける事がない。若獅子(じし)は獲物(えもの)がなくて飢えても、主に求める人には良い物の欠ける事がない。」
そして、また119編には、「あなたは善なる方、全てを善とする方。あなたの掟を教えて下さい」があります。(68節)
更に、イエス・キリストはこのように言われました。「神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。」
【神の愛】
実は、主イエスの十字架の贖い死を通して私達への神の愛がはっきりと分かって来ます。ローマの信徒への手紙に記された通りに、「私達がまだ罪人であった時、キリストが私達の為に死んで下さった事により、神は私達に対する愛を示されました。」(5:8) ですから、聖書の証によりますと、私達の為の神の愛と哀れみは無欠であり、失敗が全くありません。
【神の力】
神の力も同様です。主は天地万物を無からお造りになられる力を持ったお方です。この世だけではなく、宇宙の中、数え切れない程の星と惑星も御自分の言葉で創造されました。イザヤ書では、「お前達は私を誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢(いきお)いから逃れうるものはない。」(40章25〜26) 神がこのように万物を造る創造的能力があれば、御自分の力は決して限られていません。更に、私たち御自身の被造物は決して神に忘れられていません。イエス・キリスト御自身はこのように言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちる事はない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、沢山の雀よりも遥かにまさっている。」(マタイ10:29〜31) 間違いなく、神は全ての事を御存じです。主イエスが言われた通り、神は本人よりもその人の事を良く知っておられます。
【見よ、それは極めて良かった】
それでは、力ある、愛と憐れみである神はいったいどうして御自分の被造物を津波のような大変な自然災害から守らないのでしょうか。出来る事なら、愛である神は憐れんで、人を救うはずではありませんか。この質問に答えるには天地創造の時に戻らなければなりません。創世記に記されていますが、神が天地万物を創造されてから、お造りになった全ての物を御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と宣言されました。ここでの「極めて良かった」と言う元々のヘブライ語の意味は「完全と完璧」になります。つまり、その当時は病気や死や自然災害などの悪が全然なかったのです。人間は完全な幸福の状態でエデンの園に住み、神との直接な交わりを楽しみました。
【人間の堕落、自然界の呪い】
しかし、その恵まれた状態は長く続きませんでした。悪魔に誘惑され、人間は神から下さった自由を悪く使ってしまいました。主の大事な命令に逆らって罪を犯しました。その結果は神との関係が壊され、悪がこの世に入ってしまったのです。そして、その悪はただ人間と神、また人間と人間の間を悪化させただけではなく、自然界にも悪い影響をもたらした訳です。アダムとエバが罪を犯してから、主はアダムにこのように言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるな、と命じた木から食べた。お前の故に、土は呪われる物となった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土はイバラとアザミを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。チリにすぎないお前はチリに返る。」(創世記3:17〜19) 私達の先祖の罪の故に土は呪われる物になりました。つまり、以前には害のない自然界に地震や台風や津波などの恐ろしい現象が起こるようになりました。創造の時、そう言う現象は神の御旨ではありませんでしたが、人間が主の道を拒否したので、全ての造られた物がその悪の影響でアンバランスになって、今回の津波のような災害が起こります。
【イエス・キリストによる回復の道】
人間の罪の結果で悪がこの世に入り、その悪が私達だけではなく、自然界までに感染してしまったのです。皆さん、もしそれまでだったら、人類は本当に希望のない、救いのない、惨じめな状態ばっかりですね。しかし、私たち人間の罪とその悲劇的な結果は決してストーリの結論ではありません。憐れみ深い愛である力の神は私達の状態を見て、悪の結果を逆転させるようにすぐに努め始めました。全人類を祝福する為にイスラエルの民族に御自分の哀れみと掟を現し、預言者を通して御旨が伝えられました。そして、時が満ちると、神は御自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、罪の全くないイエスは私たちと共に歩んで御自分の生涯を通し神の完全な愛を啓示されました。更に、その愛の最高の現れとして十字架で私達の罪を贖って下さいました。罪の許しを受けた私たちは神との良い関係が回復され、御神の子供になって、永遠に死後にも神と共に生きられます。ですから、信仰によってこの救いを受け入れる者は罪の結果の逆転を今、経験出来ます。そして、将来イエス・キリストが神の全ての栄光をもって再び来られると、私たちは悪と罪の完全な征服を見ます。その時、神の被造物は完璧に修復され、自然界も回復され、祝福だけがあります。
ヨハネの黙示録にその神によって回復された世の様子が述べられています。
「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。その時、私は玉座(ぎょくざ)から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をこどごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録21章1〜4、)
【神は悪を善に】
大きな希望を持って私たちはその素晴らしい日を待ち望む事が出来ます。間違いなく、神はいつか全ての悪をこの世から取り除いて下さいます。しかし、その日を待っている私たちですが、今私達は一つの大事な事を忘れてはいけません。それは神は今、悪から善をもたらしていると言う事です。例えば、人間が悪を行ってイエス・キリストを十字架で殺しましたが、私達の為に神はその悪を持って一番良い結果を生じて下さいました。
同じように神は今回の津波の悪から善をもたらしています。ニュースを見るとその犠牲者はお互いに慰め合い、助け合っています。貧しい人であっても、両親を無くした子供の世話をしている者がいます。以前には自分の知恵と力に頼って来た人が神に信じ頼るようになりました。そして、世の全ての人々は津波の犠牲者の救済の為に協力して、一つになりました。苦しんでいる者を憐れんで献金している人が大勢です。わたしの家族でも先週娘セーラは関西国際学校学生会と言う団体から三宮に行って募金をしました。また、色んな国は犠牲者の救済の為、軍を被災地に送っています。敵を殺すの代わりに軍隊は人の命を救う為に努めています。本当に神は悪を善に変えておられます。
家内の妹の主人は海兵隊の将校で沖縄に勤めています。去る金曜日にニヶ月間スリランカに津波の犠牲者の救済の為に派遣されました。武器の代わりに、薬と食べ物を持って行きました。日本の自衛隊も救済活動に積極的に参加しています。これはただ一つの例ですが、軍の力がこのように使われると、確かに、神は津波の悪を善に変えておられます。
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