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わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました

ウイリアム・モーア

2006.1.22.

 

テモテへの手紙二4章6-

 

【告知】

この間、私はある人と共に死について話し合いました。私は牧師だから他の人よりも、恐らくそういう機会が多く与えられています。その時、相手の人は数カ月前に亡くなった家族の一員の事を語りました。実は、その方は亡くなる一年前に、自分が病気で死にかかっている事が分っていたそうです。それから話が、人は先立って自分の死を告知される方が良いかどうかと言うことになりました。自分の死が先立って分っていたら色々と準備が出来るので良い事もあると言いました。逆に、分らないと残りの時間を黒い雲のような状態で過ごさなくてもすむから良い面もあると話しました。皆さんはどうでしょうか。

 

【死刑囚パウロ】

今日、与えられた御言葉を書いた人物は、自分には限られた日しか残ってない事が分っていました。実は、彼、使徒パウロは信仰の故にローマ帝国の囚人になり、死刑宣告を受けてしまいました。暗い死刑囚監房(かんぼう)に閉じこめられたパウロはどんな気持ちで自分の日を待っていたのでしょうか。来るべき死刑実行を恐れて惨じめな気持ちでしたか。あるいは、不正な判決の為に敵に対する恨みをいだきましたか。少なくとも彼は気持ちが落ち込んでいたはずだと思います。長い間、福音宣教の為に励んで、宣教師として数え切れない程の犠牲を払って来ました。迫害と様々な困難の故に決して楽な生活ではありませんでした。そして、その報いは何だったか。ついに死刑という悲惨な運命になりました。使徒パウロが絶望したとしても、ちっともおかしくありませんね。   しかし、彼は絶望しませんでした。敵と自分の運命をののしりませんでした。却って、その代わりに手紙を書きました。希望と勝利と信仰に満ちた素晴らしい手紙を書いて、自分が開拓した教会と協力者に送りました。自分の遺言と思って、受け継いだ信仰を守るようにと信者を励み続けました。

 

使徒パウロは今日の個所をテモテに書いて送りました。割合若いテモテはパウロと共に伝道に励んで、パウロの弟子のようになりました。手紙にパウロはテモテを「愛する子」と呼びましたので、間違いなく彼等は親子のような親しい関係を持っていました。そして、死に直面したパウロはテモテに自分の信仰と死に対する確信を伝えたかったのです。与えられた信仰のお陰でパウロは勝利者として死に向かい、恐れませんでした。

 

私達も使徒パウロの言葉から学ぶ事があります。特にイエス・キリストを信じ頼る者として私達には、パウロの証は大事であると思います。

 

【聖なる生けるいけにえ】

6節を見ますと、パウロはこのように書きました。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」パウロによると信仰生活全体はいけにえのようなものです。ローマの信徒への手紙にこのように伸べました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ロマ12:1)ここでの「いけにえ」と言うのは、「犠牲となる被害者」の意味ではありません。 主イエス・キリストの憐れみによってパウロは滅びから救われ、福音宣教の奉仕で神の使者になって自分の生涯は大きな目的と生き甲斐と満足がありました。愛する神の豊な祝福と支えを毎日のように頂きました。

 

ですから、パウロは喜んで主に使えて「喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」自分の生涯を献げました。それは何よりも彼の喜びと生涯の意味になりました。

 

ローマ帝国当局は処刑を通して使徒パウロの命を取る力があると思いました。しかし、パウロは自分の来るべき死について別の理解がありました。自分の命が奪われるのではなく、パウロは自分の命を神に献げるつもりでした。彼は喜んで自分の生涯を主に献げて、そして必要なら、喜んで自分の命も献げるつもりでした。

 

ところで、もしパウロは裁判の時、キリスト教信仰を捨てて、ここまでの伝道活動を拒否したら、多分解放されたと思います。一つの言葉で自由の身になったはずです。しかし、彼は自分の命よりも主イエス・キリストを愛しましたので信仰を守りました。

 

使徒パウロだけではなく、私達の生涯も神様に献げられたいけにえのようです。主イエスの十字架の贖いを通して私達は救われ、神の子供になりました。ですから、自分の為よりも、私達は神の為に生きるはずです。そこには私達の生涯の意味と喜びがあります。

 

【世を去る時】

「世を去る時が近づきました」とパウロは言いました。つまり、世を去って天国に出発する時がまもなく来ると言いました。パウロにとって、死は自分の存在のお終いでもないし、恐ろしい所の門でもありませんでした。却って、死ぬと主の憐れみと力によって、天国で愛する神の御前に出て、命の素晴らしい再出発との確信がありました。ローマの信徒への手紙にこのように伸べました。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ14:8)更にフィリピの信徒への手紙に書きました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、主ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分りません。」(フィリピ1:21)

 

使徒パウロはもちろん早く死にたいと言う気持ちではありませんでした。人の救いと天の国の発展の為にまだ働く機会があれば、この世での生涯を続けたかったのです。更に、この世での愛する兄弟姉妹がいましたので、その者から離れることは辛かったのです。しかし、死ぬ事が必要であったら、確かな希望を持って喜んで自分の本当の故郷、すなわち神の御許に帰る事を承知しました。その永遠の解放と喜びを待ち望んでいました。自分の愛する救い主イエス・キリストにやっと直接に会えると言う期待を持って世を去りました。ここでのパウロの証は参考になると思います。きっと私達は彼の信仰から学ぶ事があります。

 

パウロはその寒い死刑囚監房に座り、自分の生涯を振返って見ると後悔がありませんでした。実は、満足感があったのです。なぜなら、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」からです。

 

【わたしは、戦いを立派に戦い抜き】

面白い事に、この三つの表現はスポーツ用語を借ります。恐らく使徒パウロは若い時、選手だったと思います。先ず、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き」と言いました。これはレスリングのイメージです。この世での生涯はいつもやさしい事ばかりではありません。ある時、私達の日々の生活は戦いのようです。使徒パウロの場合は特にそうだったのです。信仰の故に色んな反対がありました。ユダヤ人とギリシャ人の異教徒からの迫害だけではなく、キリスト教会の中からも反対を受けました。また、パウロは宣教の為に常に巡回して旅の難も幾度となく経験しました。更に、苦しい病気があって、なかなか治らなかったのです。経済的心配もあったのです。伝道しながら天幕作りで食べていきましたパウロにはゆとりはなかったのです。しかし、パウロはイエス・キリストの福音の為に諦めず、最後まで立派に戦いました。主イエスから与えられた責任を果たす為に様々な戦いがあったんですが、勇気を出して最善を尽くしたと言いました。

 

【決められた道を走りとおしました】

次は、自分が「決められた道を走りとおしました」とパウロは言いました。信仰生活はマラソンのようなものです。途中で止ったり、あるいは、決められたコースから外れたり、最後の決勝点まで走らないと失格になります。時が良くても、悪くても、パウロはいつも一生懸命に神と隣人に仕えて来ました。自分の目は常に決勝点を見ましたので、迷わずにこの世でのレースに勝つ事が出来ました。

 

【信仰を守り抜きました】

そして、最後に使徒パウロは自分が「信仰を守り抜きました」と書きました。競技の前に、選手達はルールを守ると約束しました。もちろんルールをやぶると、競技の意味がなくなります。パウロはずっと真の信仰を守って来ました。御言葉を正しく教えて、託せられた真理をちゃんと次の世代に伝えました。その大事な使命を果たしたので、彼は満たされました。

 

【神の力と助けによって】

しかし、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」と言う使徒パウロの言葉はちょっと自慢話しのように聞こえませんか。決してそうではありません。全ては神の力と助けによって出来たと彼は信じました。「わたしを強くして下さった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」(テモテへの手紙一1:12)と書きました。もしも与えられた使命を果たす事が出来ましたら、それは始めから終わりまで神のお陰であると確信しました。自分はただの小さな器であって、神の仕事をする為に主は力と知恵で満たして下さいました。全く神のお陰で「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」と言える事が出来ました。

 

【義の栄冠をうける】

そして、8節を見ますと、パウロは天国に到着すると神から「義の栄冠をうける」期待がありました。それは自分の努力や長所や達成で勝ち得たものではありません。それは全く主イエス・キリストの義のお陰です。主イエスの犠牲によってパウロは神によって義とされ、神の子として永遠の命を授けられます。そして、その勝利の義の栄冠は自分のものだけではないことをパウロはよく知りました。「わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」と言いました。つまり、主イエス・キリストを心から信じる者は誰でも使徒パウロと共に神の賜物、永遠の命を頂きます。

 

愛する兄弟姉妹、この大きな希望を忘れないで下さい。この世での働きが終わると神の言い尽くせない程の恵みが私達の為に待っています。ですから、神の力と愛と慰めに頼って使徒パウロのように、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を最後まで守りましょう。(おわり)

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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