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【はじめに】
歴代誌上21章にはダビデ王による人口調査令とその結果が記されます。不思議なことに、これはダビデの生涯における最大の罪の一つです。この罪に対する処罰として、7万人ものイスラエル人が倒されました。ここには神の怒りの大きさが反映しています。それにしても、なぜ人口調査が罪なのでしょうか。何が問題となっているのでしょうか。
【T.家臣の忠言を退け、王命を強制するダビデ】
将軍ヨアブは、ダビデ王の命令が神に対する罪と察知し、ダビデにその実行を思い止まらせようとしました(3節)。しかし、ダビデはその言葉も厳しく(4節)、王の権威をもってそれを退けました。大喝一声「重ねて申するな。予の命じゃ!」とでも言ったのでしょうか。なぜ人口調査が罪なのかは明らかではありません。調査自体が罪である訳ではないでしょう。神はかつてそれをモーセに命じられたこともあります(民数記1:2以下)。人口調査は徴税・徴兵などの基になります。国勢・国力(軍事力、経済力)の把握・確認は、王の当然の任務であります。ダビデ王朝は徐々にその基礎が築かれつつあるとは言え、なお、確立していません。王位がダビデの息子たちに継承されていってこそ、ダビデ王朝の確立・安泰と言い得ます。それゆえ、人口調査はダビデにとって当然のことでした。
ダビデが家来の言葉に聞き従った例を見ますと、サムエル記下19章1節以下に記される記事で、ダビデはヨアブの諫(いさ)めの言葉に聴き従いました。
息子アブサロムの謀反に際し、家来たちの大きな働きによる自軍の勝利にもかかわらず、ダビデはそれを喜ばず、敗北した敵軍の大将、我が子アブサロムの死を悼んで号泣し、取り乱します。彼は私情に振り回されて、王として今なすべきことを自覚していません。このままでは、民心はダビデを離れ、彼を中心とする王国が乱れることは必定。ヨアブはこれを由々しきことと見て、王に諫言しました。ダビデも自分の言動が不適切であることを知っていたがゆえに、ヨアブの言葉に従いました。
また、ダビデはかつて自分の家来ウリヤの妻に邪恋を抱き、姦淫に及びます。そして、その発覚を恐れて隠蔽工作をしますが、それが失敗すると、計略をもってその家来ウリヤを戦死させます。このおぞましい罪のため、ダビデは預言者ナタンを通して厳しく叱責され、神の処罰を受けることになります(サムエル記下12章)。このとき、ダビデは自分の愚かさを認め、罪を告白しました。戦勝に際しての号泣も、姦淫・戦死も、王としてあるまじき言動であることをダビデはよく分かっていたので、ヨアブやナタンから非難されても抗弁できず、それに応じる以外にはなかったのです。
しかし、人口調査はそうではありません。人口調査は王としての当然の権能行使であるという認識から、ダビデはその命令を強行し、ヨアブも抵抗できませんでした。しかしながら―結果的に知り得たのですが―それはヨアブの洞察のとおり、神への罪でした。
この度の人口調査で本当に問題になっているのは、イスラエルの民の真の王は誰かという、イスラエルにとって最も本質的な事柄でしょう。それは言うまでもなく、主なる神です。けれども、ダビデはこのことをどれほど自覚していたでしょうか。
人口調査令の記事はサムエル記下24章にも記されるが、この歴代誌では、それがサタンの誘惑の結果であると明記されています(1節)。これは、人口調査令が―この脈絡では―神に対する重大な罪であることを最大級に強調するものです。ダビデ自身の意識においては、自分が出した人口調査命令がサタンの誘惑の展開であるなどとは、全く思いも寄りません。しかし、物語の読者には初めから、これが神への敵対行為、すなわち罪であることが明らかにされているのです。
サタンとは、堕落した天使の頭です。したがって、サタンはその存在自体が神への敵対・反逆という性質を持っています。それゆえ、神に従うべき人間を誘惑、攻撃して、神に不従順にさせ、そうして神の最初の計画を失敗させようと目論(もくろ)むのです。代表的な事例を挙げますと、例えば、アダムとエバが禁断の木の実を食べたこと、ユダがキリストを裏切り、ペトロが否んだこと―これらは正にあってはならない大罪です。それぞれ、当事者たちの責任は免れませんが、しかし、それらの罪がサタンによって引き起こされたと記して(創世記3:4、5、ルカ3、31)、その由々しさを最大級に示しています。
さて、ダビデの人口調査がサタンの誘惑によるとは、言い換えますと、無意識のうちにイスラエルの真の、究極的の王であると、ダビデに錯覚させたということです!この後、王位はダビデの子孫により世々継承されていきますが、しかし、その全過程で真の王は主なる神だけです!イスラエルの歴代諸王は、真の王なる神の地上的器に過ぎません。主はその王的支配を彼らの政治を通して遂行なさいますが、しかし、決してその王権を彼らに委譲されるのではありません。ダビデもこのことにおいて例外ではないのです。ダビデはそのことを徹底して知らなければなりませんでした。
サタンの誘惑の中心は、人間が神に背くこと、言い換えると、真の神ではなく、この自分が王であると思い込ませることによって、神に不従順にならせることです。それは当然、神への罪です。
【U.怒りを発しつつも、恵みを確保される神】
人口調査の罪の結果、神の裁きによってイスラエルの中で7万人が倒れ、ダビデの犠牲となりました(7節)。人口や国力に満足、安心したであろうダビデに対して、神は多大の被害・損失を与えられました。ダビデの出鼻を挫かれたのです。このとき、ダビデは自分の行なったことが本当に神への不信仰、神に対する罪であったことを痛感します(8節)。しかし、主なる神はダビデの罪に対して大いに怒る中で、なお、彼が神に対して信仰的判断・決断をなし得るように、恵み深く導かれます。ダビデは主の怒りを被る中で、預言者ガドを通じて主との対話に導かれ、自己の罪を悟り、悔い改めることができました。
神は先見者ガドを通じて、ダビデに対する刑罰として、3種類の中から一つを彼自身に選ばせられました。大罪を犯したダビデに対して、神は決して一方的に、すなわち選択の余地なき仕方で罰を与えられませんでした―そうすることも当然、おできになったはずなのに!神はなおもダビデに判断・選択の余地を確保して、彼がその限られた条件・状況下にあって、最大限の信仰を発揮できるようにされたのです。これはまさしく神の憐れみ以外の何ものでもありません。それで、ダビデも神の憐れみを最も感じ取れるものを選択したのであります。
3年間の飢饉、3ヶ月間の敵の蹂躙、3日間の疫病はいずれも、神の刑罰です。ダビデは人の手にかかるよりも神の御手に陥るほうが良いと言って、3日間の疫病を選びました(13節)。これは、疫病が神の手で、飢饉と蹂躙が人の手ということではないでしょう。どれを選んでも、神の怒りであり、極めて厳しいものです―3日間の疫病ですら「主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされる」(12節)と言われるほどであります。3日間の疫病を選んだのは、疫病そのものが他の二つよりも好ましいからではなく、おそらく、神の裁きが最短期間だったからでしょう。
神の刑罰を選択する際のダビデの言葉は、神の怒りに直面しているその只中で、なお、大胆に神に近づき、神に寄り縋(すが)ろうとする信仰の姿勢を示します。すなわち、神は怒りにあってもなお、ご自身の民に対して慈しみ深くあられるという信仰です。これは、先に神を忘れ、人間的力に依り頼んだ人口調査の行為とは正反対です。
【V.神の怒りに直面して罪を悔い改めるダビデ】
ダビデは罪に対する神の裁きの宣告を受けても、正にその只中で、神の憐れみを信じ、それに寄り頼んで、罪の真実な悔い改めへと導かれます。罪の深い自覚と真実な悔い改めは、神の刑罰が自分(と自分の家)にだけ下り、民には臨まないように懇願して、民のために執り成していることに証しされます。これもまた、王としての権威を家臣に強制した人口調査の行為とは対照的に、国民を代表し、国民に代わって、罪とその悲惨の責任を引き受けようとする、まことに神の民イスラエルの王にふさわしい自覚と言動であります。
さらに、ダビデの悔い改めの真実性・真剣さは、ガドを通じて与えられた主の(御使いの)命令に従い、エブス人、オルナンの麦打ち場を高額で買い求めたことに示されます(24、25節)。もちろん、ダビデは金を支払って―自分の側で犠牲を払って―神の赦しと憐れみを買い取ろうとしたのではありません。ダビデとイスラエルへの赦しは、あくまでも主なる神ご自身の主権的、先行的な憐れみによるのであって(15節)、決してダビデの償いの大きさなどによるのではありません。しかし、神による罪の完全な赦しは決して、安っぽい恵み(チープ・グレイス)ではありません。神の赦しの恵みは、それを受け取るのにふさわしい人格的関わり―感謝と献身―を求めるのです。オルナンはダビデに対して、王の要求するものをすべて献上すると申し出ましたが、しかし、ダビデはそれに甘んじることなく、その時の状況の中で最善を尽くして、主の求めたもうたものを入手したのです。これもまた、人口調査令のように、王権を濫用したのとは対照的に、謙遜で自己犠牲的な姿勢です。
【W.神の赦しを信じて、祭壇を築くダビデ】
人口調査を軸とした神とダビデの関わりの物語(21:1‐22:1)は、歴代誌におけるダビデの生涯と事績の記述の最後を成しており、この後は、神殿建立関連の記事が集中的に記されます(22‐29章)。そして、神殿建立準備の完了をもって本書上巻は閉じられ、ソロモン以下、歴代諸王の事績を記す下巻へと続いていきます。
今学んでいる箇所では、人口調査の大罪の赦しと、犠牲奉献のための場所の獲得、祭壇造営、および実際の犠牲奉献とが結び付けられています(18節以下)。実は、ダビデが購入した場所は、後にエルサレム神殿建立の場所となりました(22:1)。エルサレム神殿こそは、主なる神のイスラエルにおける確かなご臨在と、彼らの真の贖(あがな)いとを意味し確証するものです。
かつて、主なる神はモーセを通してイスラエルに、将来必ずご自身の名を置くべき所を選ばれるがゆえに、そこで神を礼拝するように命じられましたが(申命記12:5、11、14、18、26)、今、その約束の実現に向けて、具体的な大きな一歩が踏み出されようとしています。その場所はまた、後にソロモンが、罪を犯したイスラエルが悔い改めて神に祈り、神に赦されるべき所となりますようにと祈る、そのような場所であります(歴代誌下6:20他)。
神はダビデの罪を処罰すると共に、それを全く赦し、その赦しの手段として祭壇造営と犠牲奉献を求め、かつそれを可能にされました。ダビデは自ら赦されましたが、そのとき彼は神の民を代表して立っています。そして、彼は自らの罪の責任を引き受け、イスラエルが神の罰から守られるように執り成しました。こうした一連のダビデの言動とダビデを巡る出来事は、遠い将来「ダビデの子」(サムエル記下7:12)として来たりたもう真の救い主、イエス・キリストを、私たち、新約聖書時代の読者に予期させて余りあります。
キリストこそ、自分の命を犠牲にして、私たちの身代わりに神の刑罰を受けてくださり、私たちの真の救いを実現してくださったのです(ルカ23:34)。神は、サタンに誘惑され、神に背いたすべての人間を、キリストによって救ってくださるのであります。私たちはあらゆる状況において、神の大きな憐れみの御手に寄り頼むことができるのです。そして、このキリストを我々に与えられたのは、実に神ご自身なのであります。
【X.ダビデ王の犯した罪からの教訓・応用】
例えば、教会における牧師と長老たちの対立や、教会内での役員と会員の対立は珍しくないことです。聖書に反しているとか、私情が絡んでいるということが誰にも明らかな場合は、他の人々の諫言に聴き従う以外にありません。しかし、事柄がすぐに聖書的であるか否かが明らかでないとき、むしろ、それ自体は正当なことであると思われるとき、特に自分の職務に忠実であろうとして、また教会のために良いことであると信じ切って、意見を主張し、政策を提案しているときは、他人の言葉は耳に入りません。とりわけ、自他共に(問題となっている事柄の)“プロ”と認める人は、他人の“素人”意見を受け入れることができない場合が多いのです。しかし、結果的に主の御旨に適(かな)わず、教会にとって弊害となるということは珍しくありません。
最善を尽くしている(と思っている)ときでも―そのようなときにこそ!―、本当に主を畏(おそ)れ賢(かしこ)み、主に寄り頼もうとしているのか、あるいは、単に自分の職務上の権能を行使しようとしているのか、自分の心を深く探ることが必要です。そのような謙遜と忍耐が不可欠です。自分の領域とその権利においても、神がその領域と権利の本当の所有者・行使者であることを忘れてはなりません。主はこの自分の働きを通してご自身の働きをなさいますが、しかし、その権利を私に委譲された訳ではありません。人の言葉が耳に入らないときは―人口調査を強制したダビデのように―間違いなく、自分が王に―神に―なっているのです。
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神への愛・人への愛―キリストの十字架に見るその極致― 市川康則神戸改革派神学校教授 2004年7月11日
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ルカ福音書23章 32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44:既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
45:太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46:イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られた。 47:百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」 と言って、神を賛美した。
48:見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
49:イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
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神への愛・人への愛―キリストの十字架に見るその極致― 市川康則神戸改革派神学校教授 2004年7月11日
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【はじめに―キリストの忍耐】
キリストの十字架物語は、復活物語と一つになって、新約聖書、否、全聖書の中心的な出来事とその教えを成しています(Tコリント15:3‐4)。今朝はルカ福音書23:32‐49に記されるキリストの十字架の苦難の特徴に注目して、極限状態の中でのキリストの忍耐とそこに示される愛―真実、最高の愛―を見たいと願っています。
人が忍耐することのできる条件、状況は二つです。一つは、そうすることが自分にとって利益があるとき、そうすることが得策であるときです。このときは、とにかく我慢します。しかし、もう益がないと思えば、さっさとあきらめたり、忍耐を捨てます。
もう一つは、相手を真に愛するときです。相手を喜ばせよう、喜ばれたいという思いから、どんな困難をも厭わない、忍耐が苦痛でなくなります。竹取物語で、かぐや姫の無理難題を引き受けようとした5人の貴公子の苦労は、その見本でしょう。このような愛ゆえの忍耐の極致が殉教です。殉教とは、人に対する愛であれ、思想に対する愛であれ、そのために命を犠牲にすることです。
【T.人への愛―その極致としての十字架の死】
ルカ福音書の受難記事の特徴の一つは、キリストが十字架上で敵対する者たちのために神に執り成し(34節)、さらに、ご自身により頼む者に救いを約束された(43節)ことです。これこそ、隣人愛の最高の実例です。「良きサマリア人」のたとえ(ルカ10:30‐35)はルカ福音書だけの記事ですが、強盗に襲われて瀕死状態にあった者を、ユダヤ人である祭司やレビ人では見捨てて行ったのに対して、ユダヤ人が嫌っていたサマリア人はその怪我人に至れり尽せりの介護をしました。実は、これはあり得ないことのたとえなのです。隣人愛とは神の律法の要求ですが、罪人である我々には誰もできないことです。しかし、イエス・キリストだけは自己犠牲の極致として、十字架の身代わりの死によって、罪人への愛を示されました。イエスご自身こそこの善きサマリア人なのです。
キリストは、十字架という、罪人に対する神の刑罰を身代わりに受けている只中で、その罪人に代わって神に赦しを求められました(34節)。まことに、神と罪人との真の仲保者にふさわしい行為です。ここには神への愛と人への愛とが重なっています。聖書の思想世界では神への愛と人への愛は相即的(一つにとけ合って区別できないこと)です。神を愛することには、人を愛することが含まれているのです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(一ヨハネ4:20)。
イエス・キリストは、神を愛されたがゆえに、人をも愛されました。神への愛と人への愛が対立するときは―ちょうど、今の物語のように、神への愛と信仰が、人の要求や世の規範と対立するときは―、当然、神への愛と信仰が優先します。しかし、だから、人を憎むことは仕方がないというのではありません。そのような中でも、人を愛するのです。今、主イエスはまさにそうしておられます。十字架の苦しみを甘受することは、罪人の救いのために神から与えられた自分の使命ですから、神を愛するのなら、この使命に最後まで忠実に生きなければなりません。ですから、神への愛を貫くためには、罪人の要求―十字架から降りてみろ―を受け入れることはできません。しかし、キリストは最後まで罪人のために祈り、また罪を悔い改めた一人の強盗に対しては天国の命を約束、宣言されました(43節)。
十字架上のキリストの、敵対者に対する愛の行為は、まことに独特で、異常でさえあります。これは他の類似のケースと比較すればよく分かります。旧約聖書続編―正しくは旧約聖書外典―に第2マカバイ記という書があり、その中にマカベア七人兄弟の殉教物語というのがあります(7章)。アンティオコス4世(紀元前2世紀前半、セレウコス朝シリアの王)がユダヤ人を大迫害し、偶像礼拝や豚肉を食すること強制したとき、彼らは断固としてそれを拒否し、その結果、拷問死することになりました。彼らは神への信仰に堅く立ち、勇敢に王に対応しましたが、しかし、そのとき彼らは王のために執り成しをしたかというと、全くその反対でした。4番目の者は「あなたはよみがえって再び命を得ることはない」(7:14)、5番目の者は「やがてあなたは神の偉大さを思い知るだろう。神はあなたとあなたの子孫を苦しみに遭わせるからだ」(17節)、6番目の者は「あなたは神を敵にしたのだ。ただでは済まないぞ」(19節)、7番目の者は「不信心で、人類のうち最も汚れた者よ、あなたは天の子らの上に手を振り上げ、むなしい望みを掲げてしたいほうだいのことをしているが、思い上がりも程々にしたらどうか・・・あなたは神に裁かれ、その高慢さに似合った罰を受けるがよい」(34、36節)―これが敵対する王への彼らの言葉でした。
もう一つ、ご紹介しましょう。佐倉惣五郎伝説というのがあります。佐倉惣五郎とは、本名、木内惣五郎と言って、17世紀前半(江戸時代初期)、下総(しもうさ)の国、公津台方(こうづだいかた)村の名主で、村人の人望厚き高徳の士でした。惣五郎は、当時の佐倉藩主、堀田正信の圧政に耐え兼ねた村人たちを代表し、他の名主たちと江戸佐倉蕃屋敷に直訴しましたが、埒があかず、遂に単独で将軍(四代家綱)直訴におよびました。当時、直訴はご法度でしたので、夫婦とも磔(はりつけ)の刑に処せられ、子供4人も死罪となりました。そのとき彼は刑木上で敵対者たち、役人たちを罵倒、呪詛しました。その後、堀田正信は失脚し、流刑となって自殺します。堀田家には災難が相次ぎ、惣五郎の祟りだとの噂が立ちました。後年、惣五郎の墓を建て、菩提(ぼだい)を弔(とむら)うと、その祟りはおさまったと言われています―これは伝説で、話しには尾ひれが付くものですから、史実としては信じるに足りません。
以上のようなことについて、パウロはこう言います。「実にキリストは・・・不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ロマ5:6‐8)。
この世の常識では、正しい者のためにすら、身代わりになる者は―そんな奇特な人は―いないものだ。しかし、百歩譲って、善人のためなら、身代わりになる者がひょっとしているかも知れない。文字通りの善人でなくても、家族とか愛する者とか、とにかく自分にとって大切な人のために身代わりになることはあり得る。けれども、いずれにせよ、罪人のために―そうする価値の全くない者のために―身代わりになる者なんているはずがない―これが世の常識です。しかし、イエス・キリストは十字架上で敵対者のために神に執り成しをされました。キリストにのみ固有な最上の愛、無上の愛です!
【U.神への愛―その極致としての十字架の死】
ルカ福音書はキリストの最後の言葉として「父よ、わたしの霊を[あなたの]御手にゆだねます」(46節)と記しています。この言葉は詩編31編6節の引用で、その成就(じょうじゅ)と言えます。詩編の作者自身は、敵の陰険な罠や激しい攻撃の只中で、なお神に信頼し、自分の身の成り行きを神に委ねようとしています。31編5節には「隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしのとりで」とあり、また7節には「わたしは空しい偶像に頼る者を憎み、主に、信頼しています」とあるとおりです。
詩編31編6節の言葉は後に、ユダヤ教ラビ―律法の教師―の伝統において、敬虔なユダヤ人の就寝時の祈りの言葉となったと言われています。
眠りは外見上、死の状態と似ています。「眠るように死んだ」とか「永眠する」などと言うのも、このためです。眠りは翌朝の目覚めにつながるものであり、またそれを前提としています。そうであればこそ、安心して眠れるというものです。もし、もう明日は目覚めないかもしれないとか、寝ている間に寝首をかかれるかも知れないなどと考えたら、おちおち寝ていられません。
主イエスは今、十字架上で―心身の苦悩の極限状況で―人生の最後のときを迎えておられます。そのようなときに、就寝時の祈りの言葉となった、イスラエルの詩人の歌を、辞世の句とされました。これは父なる神様に対するイエス・キリストの絶大な信頼、究極的な愛の証しです。それはさらに、キリストが自分に対する神ご自身の愛と恵みを真に確信しておられたことの証しでもあります。心身の極限状態においても―否、そのようなときだからこそ!―神に信頼し、神を愛することができたのは、神が私を愛しておられると、確信しておられたからです。
主イエス・キリストは、神様を愛していると共に、神様に愛されているがゆえに、神様に身を委ねることができ、この苦しみを耐え忍ぶ―単に耐え忍ぶのではなく、自分を苦しめている罪人を愛する!―ことがおできになったのです。キリストの最後の言葉(ルカ23:46)は、キリストの地上人生全体の締めくくりの言葉であり、地上生涯における、父なる神に対するキリストの関係を見事に言い表した言葉です。神に愛され、神を愛したキリストの生涯―それは神の律法をまっとうする人生であり、それゆえに、ご自身を信じる者を神の前に正しいとする人生でした。まことに、罪人の真の救い主であったのです。
【V.可能な限りの救いの機会の提供】
ルカ福音書の十字架物語の今一つの特徴は、二人の強盗のうち、一人がイエスを信じたという点です。この二人は主イエスに対するまったく異なる態度。一人は群衆・指導者・兵士と一緒にイエスを嘲笑し非難しました。もう一人は自分の罪の由々しさを自覚し、死刑のふさわしさ・当然さを率直に認めています。その上で、イエスに対して信仰を告白しました―イエスが神の国に入り行かれることを知り、自分を覚えてくださることを念願しました。
十字架刑は犯罪人にとって生涯の終わりで、逃れられないものです。しかし、そこでイエスと出会ったということは、その一人の犯罪人が救いの最後のチャンスを得たということです。主イエスは生涯の最後にいたるまで救い主としての任務―宣教―を果たされます。死はすべての人に訪れ、誰もこれからのがれることはできません。しかし、罪人に対して人生の最晩年においてもなお悔い改めと救いの機会が提供されています。「主は・・・一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(第二ペトロ3:9)と言われるとおりです。
ルカ福音書では、キリスト降誕物語に老人が登場し、神の祝福(救い・命)を受けます(ザカリアとエリサベト夫婦、神殿で奉仕するシメオン老人、老女預言者アンナ)。彼らは人生の晩年にイエスを見て、神を賛美しました。今、二人の強盗は、キリストに相(あい)対する、また、キリストの福音を聞くすべての人々の態度のモデルとなっています―キリストを退けるか、キリストを受け入れるか。 すべての人間が神の前に罪人で、神の主権的刑罰としての永遠の死に値し直面し、今にも刑が執行されます。
この二人の強盗の相(あい)反するイエスへの態度決定は、福音書記者の―否、神御自身の―招きであり主張です―罪を悔い改めて、キリストを信じなさい!
キリストを信じ、受け入れるなら、我々は罪赦され、神の愛に生かされることができ、それゆえ、キリストがそうであったように、我々も神を愛し、人を愛する生活に変えていただくことができます。どのように死ぬか、どのように一生を終えるか―それは、今どのように生きるか、自分の罪と弱さを無視して、自分の知恵と力で生きていくのか、神の愛を受け、神と人を愛して、神と人に愛されるように生きていくのかにかかっているのです。
【W.神に愛され、神を愛し、互いに愛しあう群れ―教会共同体】
教会は決して聖人君子の集まりではありません。人々がキリストに愛され、キリストを愛して、互いに愛し合うことによって生かされている群れ―それが教会です。そして、その愛は、互いに忍耐し、困難を背負い合い、忍び合って生きることを含みます。兄弟姉妹を愛し、兄弟姉妹からの愛を信じるところに、互いに重荷を背負い、耐え忍ぶことができます。そして、神がキリストにあって我々の苦しみ、悩みを担ってくださり、その中で耐え忍ばせてくださることを信じるときに、まさににそうすることができるのです。
殉教とは、神への愛、キリストへの愛が他への愛よりも優先するときに、結果として起こることです。初めから意図して勇敢に行なう行為ではありません。神の愛を確信し、神を愛して、神に自分自身の成り行きを、またすべてのことを委ねるときに、他者に対しても―その他者がどんな人であっても!―忍耐し、その人のために祈ることができます。しかし、神の愛を信じないとき、したがって、神を愛さないとき、人のために祈ることは、ましてやその人のために忍耐することはできません。
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