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【主イエス・キリストの復活】 今日、復活祭、イースターの際に、私達は主イエス・キリストの蘇りを覚え祝う為にここに集めて来ました。そして、世界中数え切れない程の主にある兄弟姉妹も私達と一緒に復活の喜びを分かち合っています。しかし、主の蘇りを祝うと同時に私達の心は重いです。特に今年はこの世はテロと戦争に巻き込まれ、平和と愛の世界は夢にすぎないような気がします。毎朝、新聞を読むと悪いニュースは良いニュースより遥かに多く、この世はいったいどうなるのか心配で心を取り乱しています。
【ペンタゴンからの大変悲しいメセージ】 十三年前の事ですが、湾岸戦線の最中の時、ルーツ・デイローと言う婦人の元には米国国防総省ペンタゴンから大変悲しいメセージが届きました。自分の独り息子、19歳上等兵、最愛クレートン君がクウェートで地雷を踏んで即死してしまいました。デイロー婦人は後で自分の感情についてこのように述べました。「私の悲しみとショックは言い尽くせない程でした。耐えられない悲嘆に沈んでいました。三日間ずうっと涙を流しました。それから、三日間私の苦しみと怒りを表現しました。周りの家族と友人は私を励まそうとしましたが、あんまりにも深い悲しみで、慰めになるのは何もなかったのです。」
しかし、突然その悲しみの中で思いがけない連絡がデイローさんに入りました。電話が鳴ると、この声が聞こえました。「お母さん、クレートンだ。僕は生きているよ。」始めは、デイローさんはその事が信じられませんでしたが、声は確かによく聞き覚えがあるクレートン君の声でした。それは間違いなく自分の息子で本当に息子は生きていました。その当局からのメセージは大違いでした。そして、自分の気持ちについてデイロー婦人はこのように言いました。「私はあまりの喜びで始めは笑いました。そして、しばらく経つと、ほっとしたのか泣き出しました。それから皆にクレートンが生きている事を伝えたかったのです。死んだと思った息子が無事だったので、私の心は喜びで溢れていました。このような経験は、体験した事のない人には、この気持ちが分かり難いでしょう。」
【主イエスの死と復活】 それは多分そうですが、確かに今日の御言葉の中の人達は全く同じような気持ちを経験したと思います。ある日、弟子達は自分の愛する先生の残酷な十字架の死を目撃しました。主イエスの言葉、「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」と聞きながら主の言い尽くせない苦しみを見ました。そして、遂にイエスは「成し遂げられた」と宣言してから、頭をたれて、「父よ、私の霊を御手に委ねます」とおっしゃって息を引き取られました。また、弟子達は主イエスの遺体が十字架から下ろされ、お墓に葬られました事を全部自分たちの目で見ました。 弟子達の全ての希望と夢もイエスと一緒に葬られてしまいました。主イエスは神の御子であると信じましたけれども、御自分の恥ずかしい死に伴ってその事が分からなくなりました。金曜日と土曜日も彼等はイエスの死を嘆き悲しんでいました。そして、今日の御言葉によりますと、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤともう一人のマリヤが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天からくだって近寄り、石をわきへころがし、その上に座ったのである。」天使は彼等に言いました。「恐れる事はない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人達は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれふした。イエスは言われた。『恐れる事はない。行って、私の兄弟達にガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会う事になる。』」
全能の神の力によってイエス・キリストは「復活なさったのだ。」御自分の弟子達は蘇られたイエスに出会って、主との交わりを何回も持つ事が出来ました。弟子達の深い悲しみは大きな喜びに変えられ、失望のどん底に落ちた彼等には新たな希望が与えられました。
今日、イエス・キリストの復活、すなわち歴史の中の最も大事な出来事を覚え祝います。主イエスは死人のうちより蘇り、今、私達の中に生きておられます。そして、主御自身の蘇りは全ての事を変えます。 コリントの信徒への手紙一15章には使徒パウロはイエス・キリストの復活の意味について色々な重要な事を教えています。20節に特別に大事なお話を述べます。(P321)「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによって全ての人が死ぬ事になったように、キリストによって全ての人が生かされる事になるのです。」
この御言葉によりますと死は全く希望と意味のない悲劇ではありません。何故なら、主の復活のお陰で死は永遠の命の始まりとなります。イエス・キリストの贖いの死と復活によって私達は神の赦された子供になって、天国への道が開かれています。この世での私達の命はもちろん神様から与えられた大きな祝福ですけれども、それは一時的な存在です。間違いなくいつか終わります。その反面、これからの死後の命はいつまでも続く永久なものです。愛である全能の神の御前に出られる完全な命です。この世での弱さや罪や悲しみなどがなく、天国で神が私達の目から涙をことごとくぬぐって下さいます。今は想像出来ない程素晴らしく楽しい存在になります。
言うまでもないが、私達のこの世の命の時間は限られています。一日が経つと寿命の残った時間が少しつづ少なくなります。砂時計のように私達のこの世での命の日々がだんだん消えてしまいます。しかし、これからの死後の命は限られていませんし、永遠まで、いつまでもあります。ですから、永遠と比べるとこの世での物質的な事についての心配はあんまり大した事ではありません。永遠と比べると自分の住む家とか乗る車はそれ程関係がありません。また永遠の世界にあっては、この世の自分の学歴とか地位は忘れられてしまいます。実は、私達のこの世界の歩みにはこれからの世の為の大事な準備であります。イエスはこのように言われました。「心をさわがせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所が沢山ある。もしなければ、あなたがたの為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの為に場所を用意したら、戻って来てあなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいる事になる。私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」(ヨハネ14:1〜6)そうです、イエス・キリストを救い主として心から信じる事によって永遠の命の準備が出来ます。
【一番豊かな人】 大農園の持ち主でカールと言う大金持ちの男の人がいました。彼の一番好きな事は乗馬に出かけ、自分の広大な土地を見る事でした。実は、豊かな土地と財産を見ながら大変満足した気持ちになりました。ある日、彼が馬を乗っていた時、遠くから自分の小作農民一人を見かけました。その男は年よりのハンスと言う信仰深い者です。お昼の時ですからハンスは畑で弁当を食べようとしたところ、食べる前にハンスは目をつぶって感謝の祈りを捧げました。カールはそれを見るとハンスの弁当を覗きました。それはただ荒いパン一枚と古いチーズの小さなかたまり一個でした。カールはあざ笑ってハンスに言いました。「もし私がそのような貧しいお昼の食事を目の前にしたら、きっと感謝の祈りを省略するよ。」ハンスは謙遜に返事をしました。「このお弁当は私には十分です。神様が私にこのパンとチーズを下さいましたから感謝すべきです。」その信仰から来た返事を聞いてカールはびっくりして帰ろうとしましたが、ハンスはまたこのように言いました。「昨晩私は不思議な夢を見ました。とても美しい所を見ました。それから声が聞こえました。『今夜農園の一番豊かな人が亡くなります。今夜農園の一番豊かな人が亡くなります』と言う声を聞こえたのです。」
お金持ちのカールは「それはとんでもないバカな事だ」と言って家の方へ向かいました。しかし、彼は帰る道にハンスの夢を忘れられませんでした。「まさかその夢は私の事ではないでしょう。僕は元気だと思うけど、そう言う事を聞くとちょっと気になる。」そして、彼はその事を考える程、胸に痛みを感じるようになりました。 家に着くお金持ちのカールは早速お医者さんを呼んでハンスの夢と自分の症状を言いました。「心配しなくても良いと思いますが、安心の為に診察をしましょう」と医者は勧めました。そして、診察を行うと悪い所は何もありませんでした。「あなたはとっても健康です。今夜死ぬなんてとんでもありません」と安心させました。そして、お金持ちのカールは「今夜農園の一番豊かな人は亡くなる」と言う年寄りの愚かな夢の事で心配したのが恥ずかしく思って床についてぐっすり眠りました。
次の日、朝起きると家令がカールのドアに来て、このニュースを届けました。「年寄りのハンスは昨晩亡くなりました。」農園の一番豊かな人ハンスは天に召されたのです。
【死よ、お前の勝利はどこにあるのか】 聖書にこの使従パウロの言葉が書いてあります。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。私達の主イエス・キリストによって私達に勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリント一15:55、57)
主イエス・キリストの復活によって、勝利を得た私達はこの混乱の世にいる間にも、大きな希望と勇気があります。また、大事な使命が与えられています。この世がどのようであっても、生きた神主イエス・キリストによって私達は生かされて生きられます。さらに、永遠の豊かな命までも授けて下さいます。恐れるな、主イエス・キリストは蘇られました。本当に蘇ったのです。
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メッセージ【十字架からの愛】 ウイリアム・モーア 2004年4月4日
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【聖書】ルカによる福音書23章32〜43 32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに。
41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
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メッセージ【十字架からの愛】
ウイリアム・モーア 2004年4月4日
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【パッション】 今回私がアメリカに戻った時、アメリカ全国の話題になる映画がありました。それはメール・ギブソン監督の The Passion
of the Christ
すなわち「救い主であるキリストの受難」と言う映画です。何週間の間その映画は一番良く見られた作品で、大ヒットになりました。実は、アメリカの人口の五分の一程がその映画を見に行きました。来る五月には日本でも公開される予定です。内容はイエス・キリストの十字架の死とその前の24時間です。弟子ユダの裏切りと神殿警察によっての逮捕と不正な裁判と鞭で懲らしめる事と最後に十字架の死を詳しく見せる映画です。
私は先月、教会を訪問する為にアメリカのあちこちへ行きましたが、どこへ行っても何よりもその映画の事が話題になりました。「あの映画をもう見ましたか。どう思った」などとよく聞かれました。さらにマスコミもその映画の事をよく取り上げました。「受難の時のイエス・キリストに対する暴力があんまり詳しく見せるから子供には見せない方が良い」や「映画は人々に反ユダヤ主義を起こす恐れがある」などの批判がありました。 しかし、私はその映画を見る事によってイエス・キリストの十字架からの大きな、大きな犠牲的愛を新たに覚え、経験する事が出来ました。その愛はイエス・キリストを信じる人には希望と永遠の救いを届ける力があると確信が強くなったのです。
【復活祭】 来週の主の日はイースター、すなわち復活祭です。その時、イエス・キリストの蘇りを覚え祝います。しかし、その復活の喜びを経験する前に主イエスの受難と死の大切な意味を新たに考え覚える必要があると思います。今日、一緒に十字架からの私達一人一人の為のイエス・キリストの愛の事をもう一度学びたいです。特に、聖書に記された十字架上からおっしゃた主イエスの言葉を新たに聞きたいです。その言葉の内容は全人類の歴史上、最も重要な事ではないかと思います。
今日の聖書の朗読の所を見て下さい。ルカによる福音書23:32からです。P.158です。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされる為に、引かれて行った。さらこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。その時、イエスは言われた。『父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。』」
【十字架】 十字架刑はローマ帝国の一番厳しい罰で、何よりも拷問と死の道具でした。イエス様は私達には想像出来ない程の肉体的苦しみを経験されたと思います。その上に精神的と霊的苦しみも受けたのです。罪一つもないイエス・キリストなのに御自分の身にその罰を受けるなんてどんなに大変な事でしょう。私達はもし自分がイエスの立場だったら、どう言う態度をとりますか。自分の敵に何を言いますか。全く無罪なのに一番残酷な十字架の死にされたら、少なくとも苦しめる人に呪いの言葉をかけるはずです。また、殺害者達に対し復習を誓います。自分の無残な運命を大声で泣き叫ぶのは当たり前ではないでしょうか。
【父よ、彼等をお赦し下さい。】 しかし、イエス・キリストは十字架から何をおっしゃいましたか。それは愛と哀れみと赦しの言葉でした。イエスは全能の神にこのように祈られました。「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」イエス様はご自分を可哀想に思われなかった、かえって自分を十字架につけた人々、自分の殺害者達を憐れんで、彼等の赦しの為に心から祈られました。
一番苦しい時に主イエスは御自分の事を考えませんでした、敵の事を心配して彼等の赦しを神に願ったのです。主イエスのその愛はいったいどんな愛なのでしょうか。実は、その赦しの言葉は2000年前の自分の迫害者の為だけではなく、現在に生きる私達の為にでもありました。あなたと私の為にイエスは「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。何故なら、私達の罪を贖ううように主イエスは十字架で御自分の身に、私達の受けるべき罰を受けたのです。私達は知りながらでも自分の造り主である唯一の神に逆らって、わがままな道に歩んで罪を犯してしまいます。神の事を忘れ、また主に教えられたように隣人を愛するよりも隣人のneedsを無視したのです。その故に私達は神との関係がまずくなって、主の敵になります。しかし、私達のどうしょうもない状態に対してイエス・キリストは私達の為に「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈って下さいました。そして、主イエスの十字架の贖いの死を通して神はその祈りを受け叶えて下さったのです。主イエスの死によって私達は清められ、神との良い関係が回復されました。
【父の約束】 あるお父さんが息子に約束します。お父さんが息子に言うには、「うちの家で他の全ての物は壊しても良いのだが、代々に受け継ぐこの焼き物の器一つは絶対にそれを壊してはいけない。これを壊す日には、あなたのその手を金づちで打ってしまうと約束しました。このように堅く警告して外出して、帰って来るとその息子が壊していけないその器をこなごなに壊してしまいました。これからお父さんはどうしたら良いでしょうか。もしお父さんが全てをなかった事にするとお父さんの権威は終わってしまいます。結局嘘つきになります。また、これから息子がどんな過ちを犯しても懲罰をする事が出来ません。 それでお父さんは息子を呼びました。約束通りに息子の手をテーブルの上に置くようにしました。そして金づちを持って来ました。金づちを高く持ち、その弱々しい息子の手に向けて持てる力全てを出し打ちました。しかし、その金づちが息子の手の上に落ちる直前にお父さんが自分の手を息子の手の上に置きました。どうなりましたか。そのお父さんの手の甲は肉が裂かれ、血が流れ、お父さんが苦しみを受けました。それでは、お父さんはその息子を懲罰しましたか、してないのですか。懲罰しました。ただし、その懲罰を誰が代わりに受けたのですか。お父さんの手が代わりに受けたのです。
【カルバリ(されこうべ)の出来事】 それと同じような事件が、約2000年前に「されこうべ」と呼ばれている所で起きた事件であります。実は、私が行くべき場所でありました。私がぼろをまとわなければならなく、私が鞭に打たれ私が侮辱を受け、私が血を流すべきで、わたしが死ななければならなかったのを彼が代わりに受けました。彼が私の代わりに血をながしました。私の肉が裂かれたのではなく、その方の肉が裂かれ、尊い血が流されました。これこそが神が私達全てを愛する約束の実体であります。
【あなたは今日私と一緒に楽園にいる】 皆さん、イエス・キリストは十字架から更にまた愛の言葉をおっしゃいました。イエスが死刑にされる時、二人の犯罪人も一緒に十字架で処刑されました。一人は右に、一人は左に十字架につけました。今日の朗読の39節から見ますとこの御言葉が記されています。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろう。』(メシアは救い主の事です。)すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた。」
主イエスはあの犯罪人に素晴らしい愛の約束をして下さいました。彼は自分の罪を認めて罰を受けるのは当たり前の事だとよく分かりました。しかし、イエスに出会って大きな希望が与えられました。今まで犯罪人として生きて来た彼はイエスの隣で、イエスが救い主で神の子である事を信じる事が出来て彼の人生がすっかり変わりました。そして「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」と願ったのです。それは彼の信仰告白になりました。主イエスと御自分の国を信じましたので、その願いが出来ました。そしてイエスはその願いを聞いて叶えて下さいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束して下さいました。すなわちイエスは彼に天国の永遠の恵みを誓いました。
神の救いを頂けるようにその犯罪人は何をしましたか。始めに自分の罪を認めました。「自分のやった事の報いを受けている」と言いましたね。そして、次に主イエスの罪のない事を認めました。「この方は何も悪い事をしていない」と相手に教えたのです。また彼はイエスが神の御子であると認めました。そして、最後に心からイエス・キリストの救いを求めました。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」と願ったのです。そうすると、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束して下さいました。
【今日の私達の為に】 「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と主は御自分の苦しみの中からその犯罪人を赦して、天国の永遠の恵みを開いて下さいました。あなたは今、どんな立場、どんな位地にいるか分かりません。しかし、赦しと救いの神は私達がどんな状態であっても、御自分のみ手は私達に届きます。 実は、イエス様は、十字架上からの愛の言葉を、私達の為にもおっしゃいました。私達の為にもイエス・キリストは「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りました。そして私達にも天国の約束をして下さいます。主イエスを信じる人には神の赦しと永遠の救いが事実であり、頼る事が出来ます。 今、この世にも神の存在や助けや慰めなどを経験出来ます。どうか皆さん、一人残らず、イエス・キリストを救い主として信じ、神の全ての恵みを豊かに受けるように祈っています。
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