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世代を貫く神の契約的信実

―キリスト教の“因果応報”―

市川康則神戸改革派神学校教授

2006.10.22

(聖書:サムエル記下21章1‐14

 

序―因果応報

 「因果応報」はすぐれて仏教的な言葉ですが、しかし、単純に「原因結果」の意味に取れば、キリスト教信仰にも当てはまります。キリストを信じるなら(原因)、罪を赦され、救われます(結果)。ある哲学者は、キリスト教が日本で受容されない原因の一つは、祖先崇拝を粗末にしてきたからだと言います。私たちは祖先を「崇拝」しませんが、しかし、祖先がいたから私たちが今ここにいるということは事実です。そればかりか、私たちはしばしば、良きにつけ悪しきにつけ、祖先のしたことに影響を受けたり、条件付けられたりします。私たちは前後の時代の人々といっしょに歴史を担っており、その中で自分たちの役割を果たします。よく果たせば、次の代の人たちは助かりますが、しかし、悪く果たすと、迷惑な置き土産をすることになります。

 

こういうことは信仰生活や教会形成にも当てはまります。今朝学びます聖書の箇所も、このことを教えています。しかし、最も重要なことは、単に先祖と私たちの間の、また私たちと子孫の間の因果関係だけを意識するのではなく、すべての時代にわたって恵み深く主権的に支配しておられる神に、私たちの意識を向け、神様にこそ信実、忠実に関わることです。神への誠実・礼節こそ、人々へのふさわしい態度をとることができる土台です。祖先をいたずらに美化したり、あるいは非難することなく、神の御心―聖書の教え―に照らして、良いことは良い、悪いことは悪いと判断、評価できるのです。

 

Ⅰ.飢饉の原因を神に尋ね、イスラエルを救おうとするダビデ

 今、ダビデの王としての直接的、中心的な関心事と課題は、イスラエルを飢饉の窮状から救い、保護することです。3年も続く飢饉は確かに、イスラエル一国の存亡に関わる一大事です。一般に経済的安定と発展は、国家形成や社会生活の不可欠の基礎でが、飢饉はその経済を破綻させるもの、一国を破滅に陥らせ得るものです―テクノロジーの未発達な古代世界においてはなおさらです。

 ダビデは飢饉の原因を神に尋ねました。異教においてはしばしば、凶作は地の神々の呪(のろ)いと見なされましたが、イスラエルでは、アダムの罪に対する神の呪いとして教えられ信じられてきましたので(創世記3:17以下、4:1112)、彼は苦境の中に神の御旨を察知して、与えられるであろう主の回答と指示に信仰的に応答しよう努めたのです。そして、この主なる神への(契約的)忠実性が、以下に登場する人々に対する信実、誠実な関わりの根幹なのです。

 

ダビデが飢饉の真の原因を尋ね求めたところ、神は答えられました―この神の回答が既に、神がダビデを今の苦境から救われることの暗示です。神の回答によれば、長期に亘るこの飢饉は、かつてサウルがイスラエルへの熱心のあまり、保護すべきギブオン人の全滅を図ったことに対する神の怒りでした(1節)。

 

ギブオン人

イスラエルとギブオン人との関わりはヨシュアの時代に遡ります。その昔、ヨシュアの指導の下、イスラエルがカナンの地に進攻し、先住異邦諸民族を滅ぼしたとき、それを知ったギブオン人は難を逃れるために、移住民を装い、ヨシュアを欺いて契約を結ばせました。ヨシュアが彼らの偽装を知らなかったか、あるいは気づいていたのか明らかではありませんが、しかし、とにかく、主に誓って彼らと契約を結びました。それは主に対する誓約であるゆえ、必ず守らなければなりませんでした。こうして、ギブオン人はイスラエルの民に恒久的に庇護されることとなったのです(ヨシュア9:3‐27、特に1519節、1119)。

 

ところが、サウルはかつてそのギブオン人の全滅を図ったのです。彼がギブオン人の全滅を図ったのは「イスラエルとユダの人々への熱情の余り」(2節)であったと言われますが、これは彼一流の偏(かたよ)った、あるいは、思い込みの激しい熱心さです。サウルのこのような行動は、聖書に記される彼の性格や行動様式からある程度うなずけます。例えば、かつてサウルは神に誓って発した愚かな命令のために、イスラエルの兵士がペリシテ人との戦いに勝利したものの、食事も取れず疲労困憊(こんぱい)状態になりした。

 

さらに、ペリシテ人への勝利に大きな勲功を立てた息子ヨナタンを殺さなければならない羽目に陥(おちい)りました。しかし、このときは家来の賢く勇敢な進言によってヨナタンを死なせずに済みました(サムエル記上1424394445)。また、彼は主からアマレク人と彼らの家畜とをすべて討ち滅ぼせとの命令を受けながら、自己流に判断して、民は滅ぼしたが、王と家畜を残し、預言者サムエルからそのことについて問い質(ただ)されると、家畜の最上のものを主に捧げるためにそうしたと抗弁したことがあります(サム記上15:3、9、15)。

 

サウルの罪

サウル自身はユダとイスラエル―神の民―の領土から異邦人を追討しようとする熱心さから、ギブオン人の一掃を図った訳です。しかし、サウルの行為は単に蛮行であるばかりか、契約の証人、また保証人たる神ご自身への不信実、不従順でした。それゆえ、神はこの罪ゆえに、飢饉という仕方でイスラエルにご自身の不興を示されたのです。勿論、神がなぜそれをダビデの時代になさったのかは、分かりません。それは神の主権に属することです。神に捨てられたサウルではなく、神に用いられるダビデをさらに王としてふさわしく整えるため、そして、ご自身の御業を将来になしたもうためのステップとするため、と言う以外にありません。しかし、ダビデがこれに対して―自分自身の責任ではないことについて―どのように対応したかが重要です。

 

Ⅱ.ギブオン人との契約およびヨナタンとの約束を遵守するダビデ

飢饉の原因と責任について神から回答を得たとき、ダビデは早速、ギブオン人を正当に扱い、ふさわしい償いをして、彼らの名誉を回復することを決心しました。そして、そのために彼らの要求を尋ねます。彼らの要求は、自分たちの全滅を図ったサウルの子孫7人の命による償いでした。ギブオン人に対するダビデのこのような誠意ある対応は、神に対する彼の信仰と従順、また謙遜の具現です。

 

ダビデの申し入れに対するギブオン人の要求は決して過度なもの、ダビデにとって不可能なことではなく、関わった者たちに限定されていました(4節)。しかし「問題なのは金銀ではない」という彼らの言葉は2重の意味合いを持っています。それは一つには、ギブオン人の自己抑制した誠実さを示しています。彼らの要求は、卑しい動機―例えば、ダビデの弱みに付け込んで大金を取ろう―からではなく、ただ理不尽に殺された先祖の名誉を回復したいということだけでした。しかし、上の言葉は同時に、ギブオン人に対する真正な償いは金銀(の類)では不可能であり、それはただ、命をもってするしかないということをも意味します。そこで、ダビデは彼らにサウルの子と孫の中から7人を差し出しました。これはギブオン人に対するダビデの信実な関わりを示すが、それは主の前で結ばれた―それも、自分が結んだのではなく、ヨシュアのときに結ばれていた―彼らとの契約ゆえであり、さらに、根本的には主への忠誠のゆえです。

 

サウル王の息子・ヨナタンへの信実

しかしながら、ダビデはこのとき、ギブオン人に対してだけではなく、サウルの息子、ヨナタンへの信実をも尽したのです。かつて、ダビデはサウル王に命を狙われていたとき、ヨナタンの愛を受けて命を守られたことがあり、そのためにダビデは主を差して誓い(ヨナタンがダビデの命を守ったように)ヨナタンとその家を憐れむことを約束しました(サムエル記上201223、特に516節)。ダビデはこれを今も覚えており、それゆえ、ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しみました。ヨナタンは既に死んでいるにもかかわらず、ダビデはこの契約に忠実であり続けたのです。これも主なる神への忠誠のゆえです。

 

Ⅲ.一寡婦の行為に共感し、サウル家に礼節を尽くすダビデ

 ダビデは神への忠誠からギブオン人に、そしてサウルの息子ヨナタンにも誠意を尽したが、それに留まらず、さらに、サウルの側室であったアヤの娘リツパにも信実を尽しました。ダビデがギブオン人への償いとして差し出した者たちの遺体は当然、晒(さら)しものにされました(9節)。しかし、その中に自分の二人の息子がいるリツパは、犠牲者たちの遺体を鳥や獣(けもの)から守るために労苦しました(10節)。これは、彼女に可能な限りでの遺体の丁重な扱いでしが、遺体を晒しものにするのとは対照的な行為です。

 

人間的に考えれば、そのような行為はダビデ王の意志に逆行することになります―ギブオン人の復讐の一環として、遺体が晒しものにされ、鳥獣の犠牲になることは明らかだったからです(6節)。ところが、ダビデはリツパのこの行為を咎(とが)めたりしませんでした。むしろ、正当化したのです。ダビデは言わば、彼女の無言の行為に教えられ―敬意すら表し―、サウル家(前王家)に礼を尽しまた。

 

リツパ自身には、ダビデに何かを訴えようとか、ましてや“一矢報いる”などの意図はありませんでした。リツパはサウルの生前は彼の側室であり、それなりに力や権利があったかも知れませんが、しかし、今は単に一人の未亡人に過ぎず、何の力も権利もありません。彼女はただ純粋に、息子たちやサウル家の者たちの死を悼み、(成ろうことなら埋葬のために)その遺体を鳥獣から守りたかっただけです。

 

しかし、ダビデは思いも寄らなかったリツパのこのような行為に教えられることになりました。それは、犠牲になった者たちの遺体を正当に、丁重に取り扱い、然るべきところに葬ることです。ダビデは彼女の行為を是とし、それに報いました。ダビデも、我が子を殺された―しかも、責任を取れない先人の罪の犠牲とされた―リツパの親としての心情を察したのでしょうか。

 

ダビデは早速、今回の犠牲者の遺体、および、はるか前にペリシテ人に晒しものにされていたサウルとヨナタンの遺骨(サムエル記上31:9‐13)を収集し、サウルの父の家―先祖―の墓に埋葬しました(1214節a)。ダビデはこうすることによって、リツパの麗しい行為に報いた訳です。ここにも、ダビデの王としての謙遜な姿勢を見ることができます。ダビデはヨナタンの子を保護して、彼との契約を守ったばかりか、犠牲者をふくめて、サウル家に礼節を尽しました―言わば、サウル家が“浮かばれる”ようにした訳です。

 

この一人の寡婦の心のこもった行為とそれに対するダビデの信実な対応は、この陰鬱な出来事に少なからぬ和(やわ)らぎを―そして読者に一種の安堵(あんど)感を―与えてくれます。こうして、ダビデは関わるすべての人々―ギブオン人、ヨナタン、リツパ、サウル家の犠牲者―に信実に対応し、責任を果たしました。

 

過去の出来事それ自体については確かに、ダビデには責任がありません。ダビデは過去の出来事を変えようがありません。しかし、神は過去の出来事の責任を、それが果たされるまで、後代の人間に問い、求められる。これを、私たちに身近な―逆の―例によって言いましょう。戦前・戦中の日本国家・日本軍は朝鮮半島、中国大陸、東南アジア諸国に対して多大の犯罪行為を行いました。しかし、戦後60年を越えても未だに、国家として公式に真実な謝罪と誠意ある補償を行なっていません。それゆえ、それらの国々の人々は日本の蛮行をいつまでも忘れることなく、また、決してそれを心から赦すことができないのです。これは経済協力や文化交流の類いで解決されることではありません。アジア諸国との真の友好関係とアジアの平和は、日本の悔い改め―謝罪と償罪―が済むまで実現しないでしょう。

 

Ⅳ.ダビデとイスラエルを祝福される神

ダビデが自分に示された主の御旨に従い、関わるすべての人々に信実を尽し、さらに人々がダビデの命令をすべて果たしたとき、主はイスラエルの祈りに応えられました(14節)。飢饉は豊作に変わり、収穫は王国を安泰にしました。飢饉から始まり祝福に至ったこの過程をすべて導き、支配しておられるのは、実は主なる神です。

 

ダビデは7人の犠牲者を誰に差し出したのでしょうか。直接的にはギブオン人に、しかし、究極的、根本的には主なる神に対してです。なぜなら、土地を呪い、飢饉をもたらされたのは主なる神だからです。ギブオン人が飢饉をもたらしたのではありません―そもそも、彼らにそんなことはできません。

 

神の怒りを解くためにダビデは7人を犠牲にしましたが、彼らは自分の罪のためにではなく、父あるいは祖父サウルの罪のために、神の裁きの犠牲となった訳です。彼らの身代わりの犠牲によって神の怒りが解け、土地は飢饉から豊作へと変えられました。こうしてダビデは王としての務めを果たし、ダビデ王国の基礎が徐々に、確実に固まっていったのである。神との契約は、同時代の神の民によってだけ守られればよいというものではありません。それはすべての神の民によって、前後の時代において―歴史を通じて―実行されるべきものです。神ご自身が、すべての時代に生きるご自身の民に対して、契約的に信実に関わってくださいます。それゆえ、神の民もまた、契約を歴史的に受け継いでいく中で神に対して信実に生きることが求められるのです。このようにして、神の祝福はその民に対して豊かに与えられるのである。

 

Ⅴ.キリストにおいて成就した神と民との真実な関わり

 以上に見てきた、神と様々な立場の人々に対するダビデの信実性は、「ダビデの子」と言われる、救い主イエス・キリストにおいて真実、最高に当てはまります。キリストはご自身にはまったく罪がなかったにもかかわらず、アダムの罪、アダム以来の人類の罪を負い、罪人の身代わり、また代表として、十字架に神の呪いを受けてくださいました。それによって、キリストを信じるすべての者たちの罪が赦されるためです。もし、イエス・キリストがご自身には罪がなかったがゆえに、全人類の罪に対する神の怒りを避けられたなら、神は人類の一人びとりを徹底的に罰せずにはおかれず、我々は誰一人として救われませんでした。しかしキリストは、アダムにより、アダム以来、犯されてきた罪、如何にしても償われ得ない罪を、十字架の死によって完全に、一回的に償われた。

 

ギブオン人の言葉「金銀が問題なのではない」は、私たちの救いの実現にも妥当します。それは一方で、神がこのキリストの償いを完全に、一回的に受け入れてくださり、それ以上を求められなかったことを意味します。罪を犯した文字通りすべての人間を、その一人びとりを徹底的に滅ぼし尽くすのでなければ、気が済まないというのではありませんでした―勿論、神はそうすることもできましたが、なさいませんでした! しかし、そのギブオン人の言葉は他方、神が満足なさる人間の罪の償いは如何なる「金銀」によっても、如何に「金銀」を積んでも不可能であることをも意味します。罪なきキリストの完全な償いだけがそれを可能にします。キリストの身代わりの自己犠牲は、信じる者たちに救い―永遠の命―を恵与するためでした。飢饉は死をもたらすが、豊作は豊かな生活をもたらします。キリストの死と復活は我々に神の霊的豊作と豊かな生命をもたらしたのです。

 

.結び―適用として

私たちこの物語から二人の王―ダビデとサウル―の対照的な行為を自らの教訓とすることができます。先人の行ったことのツケが―それが必ずしも神の怒りとは言えなくても―回ってきたとき、我々はそれを自分の責任ではないとして回避してはなりません。もし、ダビデが飢饉の原因を神に尋ねず、それゆえ、ふさわしく対処しなかったなら―諸方面に信実と礼節を尽さなかったら―、飢饉はなおも続き、イスラエルはさらなる危機に瀕したでしょう。我々はダビデのように、神と関係の中でそれを引き受け、自分の置かれている状況の中で、関わっている人々に対してふさわしく対応しましょう。さらに、自分も次の代の人々に対してツケを回す―サウルの役割を演じる―かも知れないことを自戒しましょう。伝道と教会形成は共同作業(ティームプレイ)ですが、これは同時代の人々だけの共同作業ではなく、時代を通じての、先人たちおよび後人たちとの共同作業でもあることを覚えましょう。もし過去からの負の遺産を受け継いだら、それを主にあって受け取り、示される主の御旨に従ってふさわしく対処しましょう。そこでは、必要な償いや改革が求められるかも知れません。

 

しかし、私たちはさらにこの物語の他の人物たちにも自らを重ね合わせて、教訓とすることができます。我々は先ず、利害関係にある人々や利害の伴う事柄に関わるとき、ギブオン人の精神や姿勢に見倣いたいものです。問題の所在を的確に突き止め、それへの対処によって神の義と恵みが現われることを願い、そのように努めなければなりません。決して自己満足や自利のために人や事柄を利用、濫用してはなりません。我々はさらに、アヤの娘リツパにも見倣わなければなりません。自分の能力や立場や境遇の範囲内で、可能な限り―しかも、一切下心なく―人々への純粋な憐れみの心情から行為すべきです。

 

犠牲になった7人

我々はさらにまた、犠牲になった7人の人々にも自らを重ね合わせることが重要です。彼らがギブオン人に渡されたのは決して、自分たちの罪や過失のためにではありませんでした。既にいなくなっているサウルの罪の償いのためでした。彼らにとっては今回の出来事は正に降ってかかった災難です。しかし、彼らが犠牲になってサウルの罪の償いがなされたがゆえに、ダビデとイスラエルが再び主の祝福を得たのです。彼らは言わば、ダビデ王権とイスラエル王国の確立の器となった人々です。

 

私たち普通、この7人の役割を演じたくありません。しかし、神は私たちに他人の行為の責任を取らせられるかも知れません―それは神の自由です。そのとき、私たちは自らの願いや意志に反しても、それを引き受けましょう。私たちはそうすることによって、神の祝福が後の教会と信徒たちに回復されるための器となるのです。これは7人の演じた役割を演じるに留まらず、実に、イエス・キリストが果たされた役割を、キリストに結び付けられているがゆえに果たすことなのである(ヨハ211819、Ⅱコリ4:1012)。(おわり)

 

 

 

 

 


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