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西谷聖書集会
日本キリスト改革派伊丹教会伝道所
【新しい教会へのメッセージ】            グラハム・スミス  2004年3月7日                                     
【話しかけてくださる神様】(聖書の大切さ)
西谷集会に招かれていることを心から感謝を申し上げます。ひさしぶりという感じがしています。ここで、このように、毎週、礼拝のために集まることはすばらしい事です。今日、この交わりの喜びに預かることを感謝しています。今日の聖書箇所を見る前に、一つの問いをかけたいのです。どうして、礼拝の中心は聖書の話しですか。不思議と思いませんか。今日学ぶ箇所は2000年ほど前のギリシャの町の話しです。歴史の研究会なら納得できますが、どうしてクリスチャンたちは古い本からメッセージを聴くでしょうか。答えには二つのことが言えます。まず、その聖書は神様、すべてをお造りになった、すべてを支配しておられる、いのちを与える、生きる道を示す神様からのメッセージだからです。そして、もう一つの答えは、すべての聖書箇所には現代にあてはまるところがあるからです。特に、今日の箇所はテサロニケの教会への手紙ですが、ちょっと調べると、その教会とここに集まっている西谷集会の事情が良く似ているということが分かります。あとで説明しますが、共通点が多いです。このことを考えると、この手紙は古くて、別な地域の話しにも関わらず、今日の私たちに神様からのメッセージとして、受け取る事が出来ます。必要とされているのは、このメッセージを聴こうとする姿勢です。もう一度、神様が語って下さるメッセージを聴くことができるように祈りましょう。

【テサロニケの教会】
当時のテサロニケの町について別な本から調べられますが、この箇所からテサロニケの教会についてどんなことが分かりますか。聖書箇所を見ながら、調べましょう。

1. テサロニケの教会は父である神と主イエス・キリストと結ばれている人たちです。
1節にはこの教会は「父である神と主イエス・キリストと結ばれている」と書いてあります。この言葉には教会の本質が現されています。父なる神と主イエス・キリストと結ばれている民です。建物ではありません。生きているものです。結びあうかたちです。その神は曖昧な神ではなくて、父なる神、すなわち、人格的な関係を持つ事ができる神、親ほど私たちと関心がある神です。または、そのような関係はイエス・キリストを主として告白することによって実現します。教会というのは神を父と呼ぶ、イエス・キリストを主と告白して集まっている人たちです。この手紙はテサロニケにある神を父と呼ぶ、イエス・キリストを主と告白する人たちに送れたものです。同じ神を信じている人たちや同じ主を告白をしている人たちもそのメッセージを受ける事ができます。皆さんは神を「父」と呼ぶことができますか。イエス・キリストを主と告白することができますか。出来るなら、神の教会の一人です。この手紙のメッセージはあなたのためです!。

2. テサロニケの教会は変えられた人たちです。
* 方向性(9ー10節)に於いて
テサロニケの教会はどういうものでしたか。特徴はなんでしたでしょうか。皆さんがこの箇所を読んでどんな印象が響きましたか。私は最初に読んだ時、テサロニケのクリスチャンは変えられた人たちだという印象を受けました。特に最後のところ、9ー10節の言葉です。彼等は「偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」。テサロニケの人たちは転換の体験をしました。改宗をしました。180°の方針転換でした。偶像から離れました。全く違う意味の神に立ち帰ました。(ヒッチハイクの例え・・高速道路で目的地に向かう車線の反対側でヒッチハイクしていた・・)

当時の偶像はその地域の神様を現わすものでしたが、象徴的な意味もあります。偶像とは、神の代わりに頼るものです。お金、地位、会社、能力、自分自身などが含まれています。 オーストラリア人はこの箇所を読むと日本で見られている、形がある象などを考えます。しかし自分の心の偶像を考えないのです。ここに集まっている人たちの中では自分の家に仏壇や神棚があるという人もいるかもおしれません。聖書の文化は日本の文化に似ています。様々な神々が存在している文化です。聖書は偶像礼拝の問題をよくとりあげています。どうしてでしょうか。大きいなテーマですが、基本となる問題は本当の神を否定するということです。本当の神様、すなわち、神々の神は栄光を受けるにふさわしい方です。創造者ですから、主権者ですから、救い主ですから、聖なる裁き主ですから、礼拝されることはふさわしいことです。 本当の神様以外のものに栄光を与えるなら、それは本当の神様に失礼なことです。よくないのです。例えを考えましょう。

ここのクリニックは近藤先生のおかげで出来たものですね。先生の働きによって患者さんは医療のサービスをもらっています。患者さんは受けた治療を感謝してお礼を捧げたいなら誰に言うでしょうか。近藤先生に言うですね。先生に感謝を言うことはふさわしいことです。もし、ある患者さんは間違って近藤先生でなくて、他の人に感謝の言葉を言ってしまいました。近藤先生の前で言われたら、失礼なことですね。偶像礼拝(本当の神以外のものに頼ること)は本当の神を否定することです。礼拝はふさわしい方に、まことの生ける神に捧げるべきです。

テサロニケの人たちは偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。私は日本語がまだ不十分ですが、「立ち帰り」という字を見ると「帰り」の部分は気になります。家に戻るという意味が含まれているでしょうか。帰国すると同じ意味で、国に戻る。神に帰るという表現にはもともとの状態に戻るという意味ですね。私たちはもともと神の家のものでした。神といい交わりの関係でした。でも罪によって神と神との交わりから離れてしまいました。もちろん日本でクリスチャンになると宗教の転換になる場合がありますが、ある意味では一つの宗教から、別な宗教に入るということよりも、迷ったところから、原点に戻るということです。

宗教の歴史は長いです。仏教、キリスト教、イスラム教、日本の新宗教、わかりにくいですね。ですから、源にもどりましょう。そすると、どこに行きますか。創造の時までですね。本当の神をしるために、創造までいかなければなりません。聖書はその創造の神を紹介していますから、そこまで立ち帰りましょう。テサロニケ人たちはそこまで帰りました。

*生活の転換(3、8-9節)
テサロニケのクリスチャンの転換は方針だけでなくて、生活の転換もありいました。彼等は神に仕えるようになった。神に立ち帰ることは生活に実現しました。
3節を見て下さい。「。。。」
ここでよく言われているキリスト教の三本柱、信仰、愛と希望がでてきます。神様に対する応答のまとめです。信仰は現在の信頼、希望は将来に対する信頼、愛は信頼の動機と姿勢です。そしてその愛と信仰と希望の応答は実際的な生活を示すものです。それは彼等の働きや労苦や忍耐によって示されました。
テサロニケのクリスチャンたちの信仰生活は目立つものでした。具体的なことが書かれていませんが、良い行いによって彼らが変えられたということは明らかでした。

7ー8節を見て下さい。彼等の変えられた信仰生活はまわりの地域の模範になりました。モデル教会になりました。テサロニケの教会から信仰の証しは広がりました。

【立派な教会になる】
この教会はどのようにしてこの状態になりましたか。テサロニケ人たちはどうして変えられたでしょうか。3つの答えがあります:

1。神様の働き
まず、テサロニケの人たちの転換は神様の働きです。それはすでに見た1節の挨拶からわかります。テサロニケの教会は父なる神と結ばれものです。そして、2節にはパウロは祈りのなかで、彼らの信仰が神から与えられているもので、神に感謝をしています。4節には神の働きは明らかです。「。。。」
人間の姿を考えて下さい。自分の経験を思い起こしてください。自分の意識で、自分の力で神に立ち帰ることができると思いますか。やってみてください。むりです。神ぬきの世界では私が間違っている方向に向かっていることはぜんぜん気がつきません。(ヒッチハイクの話しードラーバーが止まってくれなかったら、そして道を教えてくれなかったら私はまだ高速道路の反対側に立ってまっているかも!)
神の働きは父なる神と言う意味ですが、この箇所では聖霊の働きも大切です。5節では聖霊の御言葉を照らす役割、そして6節では聖霊の喜びと御言葉を受け入れ道を開く役割が書かれています。
このように神様の働きによってテサロニケの人たちが変えられました。

2。パウロの働き
次に、歴史的な視点から考ましょう。テサロニケの教会はパウロという一世紀の宣教師の働きによって生まれたものだとも言えます。その働きは使徒言行禄17:1ー3に記録されています。(・・・)
パウロの基本的な働きはキリストを宣べ伝えることでしたが、一緒に生活をしながら主にならうものとなり、個人的ににも分かち合ったでしょう。
手紙1:5「・・・」すなわち、パウロは献身的に働きました。2章にはこの働きがもっと明らかです。テサロニケの人たちはパウロの働きによって変えられました。

3。福音の働き
最後に福音の働きを見ましょう。もうすでに言いましたが、パウロの働きの中心は福音を語ることでした。まことの神に立ち帰ることは福音のメッセージに聴き従うことによって行います。9ー10節をもう一度見て下さい。神に立ち帰ることを説明しましたが、もう一つの変化が書かれています。それは御子イエスキリストに対する信仰の変化です。彼らは死なれたが、復活され、再び天からこられる、神の裁きから救って下さるイエスキリストを信じるようになりました。10節の言葉は信仰の告白の内容のまとめのようです。教理の基礎が書かれています。意味深いことはイエスの来臨が強調されています。最近の説教ではそのことがあまり聴かないですね。でも迫害を受けているクリスチャンにとって、その真理は慰めであり、希望であり、励ましになります。テサロニケのクリスチャンはパウロから聞いた福音を通して、イエス様に出会いました。最初の弟子達のように体を持つイエス様との出会いではなかったですが、御言葉によって最初の弟子達と同じ経験をしました。悔い改めて、イエス様を信じて、神の国に入ることができました。

【西谷集会】 
テサロニケの教会を見てきました。ここで話しを終わると、面白いか面白くない話にすぎません。この聖書箇所は私たちとどんな関係があるでしょうか。
西谷集会とどんな関係があるでしょうか。

* 一つの共通点を紹介したいと思います。テサロニケの教会と西谷集会は両方とも新しい教会です。パウロはテサロニケの教会を励ますためにこの手紙を送りました。テサロニケの信徒への手紙はおそらくパウロの最初に書かれて送られた手紙だと思われています。開拓したばかりの教会に送られた手紙だと理解していいと思います。距離的に離れたパウロは彼等の信仰の状態が気になって、しかし、訪問できなくて、代わりにテモテを送って、そしてこの手紙を書きました。

* 西谷集会はパウロの宣教活動によってはじまったわけではありませんが、神の働きによってこのように集まっていると信じています。テサロニケに伝えられた福音はここでも語られています。近藤先生をはじめ、何人かのクリスチャンは全生活を通してイエスの証しをしました。先生は近所で医者として長く働きつづけて、そして数年前に住むようになって、そしてやがって、クリニックで定期的な集会を持つようになりました。モーア先生や他の先生方は聖書のメッセージを語って、聖霊の働きによって神に立ち帰る人々が起こされました。私は普段伊丹教会に行っていますが、西谷で行われていることがしばしば報告されます。特に、昨年のクリスマスにバプテスマを受けた森田御夫妻の話しを受けた時本当に喜びました。西谷集会に集まっている一人一人の事情がわかりませんが、御言葉によって養われて、変えられるように祈っています。テサロニケの教会のように地域での証しが祝福されるように祈っています。

聖書箇所から一つ忘れたところがありました、6節のことです。テサロニケの人たちは「ひどい苦しみの中で」御言葉を受けました。西谷でも、苦しみがあったと思います。今でもあると思います。この箇所で、でてくる偶像の話しはこの伝統的な地域で受け入れ辛いと思います。信仰を持つ者は誤解される可能性があります。信者として生きようとしたら、確かに戦うところもあると思います。その時に神様から忍耐が与えられるように、祈り求めて下さい。

テサロニケの教会と西谷集会と似ているところを見い出しましたでしょうか。この御言葉に対する応答を考えて終わりたいのです。

* まず、注意することは、テサロニケはモデル教会のようです。開拓伝道の成功の例と言えるかもしれません。西谷と比較しすぎるとがっかりするかもしれません。参考だけにしてください。西谷集会へのメッセージと個人個人のメッセージがあると思います。

* 3つのレスポンスを紹介したいのです。
1.感謝
福音による恵みを覚えて、西谷集会の歴史を振り替えて感謝を捧げましょう。神さまは確かに働いて下さっています。

2.確認する
今の自分はどこに立ているのか確認して下さい。まだ、神から離れている状態にいるのか、迷っているのか、それとも、神に戻っているか。パウロは福音のエッセンスを思い起こしました:十字架で死なれて、よみがえられて、天から来るイエス様をもう一度向かってください。立ち帰る必要があるなら、祈って下さい。

3.証し人になりなさい
西谷集会はいいスタートをしました。感謝ばかりです。テサロニケの教会もいいスタートでした。でも手紙ののこりを見るとパウロのメッセージはますます。。。ここからイエスの証しが広がるように祈りましょう。


メッセージ【二人の家を建てる者】      ウイリアム・モーア    2004年2月29日                                                                                                                           
【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカ6:46~49
46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカ6:46~49
46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカ6:46~49
46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
 メッセージ【二人の家を建てる者】      ウイリアム・モーア                                          2004年2月29日                                                                                 
【アメリカの教会で】
アメリカで教会の牧会をしていた頃、色んな人に接することがありました。牧会をしていた教会の会員だけではなく、全く知らない人にもよく巡り会いました。つまり、色々な人々は教会を頼りにして訪ねて来ました。日本ではちょっと困った事があったら近くの交番へ行かれるのだそうですね。アメリカでは多くの場合、困った事があったら、遠慮なく一番近い教会を訪ねて来ます。そういうふうにして訪ねて来る多くの人は大抵自分で可愛そうな話を考え出し、現金を恵んでくれるように頼みます。ある人は近くの教会をあちこち訪ねながら、生活をしている人もいます。このような人々は大抵現金だけを求めて来ますが、時には生活に必要な物を求めて来る人もいます。

ある日、教会で説教の準備をしていたら、全く知らない人から電話がありました。「高速道路で車のガソリンが切れてしまったが、お金が全然ないから、ちょっとガソリンを持って来て下さいませんか」と言う事でした。そう言う願いは全く始めてで、ちょっとびっくりしましたけれども、少しでも困っている人の助けになりたい気持でガソリンスタンドへ行って、ガソリンの18リットル缶を一杯にして、高速道路に入りました。そしてガソリンがなくなった車の所に着いた時は、またびっくりしました。その車は私の車よりもずうっと良い物だったのです。車の中を覗いて見ると家族は楽しそうにおやつを食べながら旅行をしているようでした。運転席に座っているお父さんのように見える人はこう言いました。「ああ、ガソリンを持って来てくれてありがとう。入れてくれないか」と平然と言いました。ガソリンを入れて上げてからこう考えました。この家族は多分このように教会に頼みながら旅行をしている人達なんだなと思いました。ガソリンがなくなると、いつも一番近い教会に電話をして、ガソリンを一杯にしてくれるようにと頼んでいるようでした。とにかく、ガソリンを注ぎ終わると、家族皆はにっこりして、さようならと言って、高速道路を走り出しました。

またこんな話もあります。ある夜遅く自宅に電話がありました。「結婚式を今夜でもすぐ挙げて下さいませんか」と突然、知らない女性からの電話でした。「先ず、あなたの相手になる人と一緒に教会に相談しに来て下さい」と私が答えました。「いや、私自身の事じゃなくて、十六歳の妹の事です。彼女は良い男を見つけて、速く結婚したいと言っているんです。」私は、「もし妹さんが結婚する時期になったら、本人が教会に直接来て貰って、私と相談すべきではありませんか」と言いました。その電話はそれっきりで、もう電話はかかって来ませんでした。

【二人の婦人会員】
色んな実に範囲の広い経験がありましたが、今日、私が牧会していたアメリカの教会の二人の婦人の事について少し話したいと思います。

一人はアルコール中毒の主人がいました。彼はお酒と自分の遊びの為にほとんど全ての収入を使ってしまいましたので、家族は大変苦しい生活をしていました。家はみすぼらしい掘っ建て小屋でした。水道がひいてなかったので、家のそばの小川からいつも水を汲んでいました。電気は電力会社から何回も切られた事があったし、電話もなかったのです。その上、長男さんはオートバイの事故で背骨を折って寝たきり状態になってしまいました。その婦人は息子の世話を全部しながら、他の六人の子供と孫までも一生懸命に育てていました。家族を食べさせる為に畑で野菜も作りました。彼女は長い間本当に難しい生活をしていました。今もそういう生活を余儀なくされています。しかし、その婦人は立派な信仰を持って、毎週必ず子供と孫を連れて日曜学校と礼拝を守っています。生活が苦しいにもかかわらず、いつも喜びに溢れ、人助けにも積極的に参加していました。

そして、もう一人の婦人がいました。その婦人も、ほとんど毎週日曜日に二人の子供を連れて礼拝を守りました。ついには御主人までも導いて来ました。彼女は教会の少年会にも参加し奉仕しました。しかし、ある日、御主人は急に脳いっけつを起こして、何週間も意識を失いました。やっと意識を回復すると今度は歩けない状態になりました。そして、話も出来なくなりました。教会の人はその家族を色んな面で助け励ましていたのですが、その婦人は教会からだんだん遠くなって来ました。御主人がリハビリ病院に入り、歩けるようになったのに、家族は全然教会に来ませんでした。その婦人は辛い目に会って、心細くなりました。そして、非常に扱い難い人になりました。悩みの重荷を負う事が出来ませんでしたので、一家は婦人は婦人で、子供もそれぞれ、ついにばらばらになってしまいました。

【試練】
言うまでもないが、この二人の婦人両方は大変な試練を受けました。しかし、試練を通して前者は信仰と人間性が強くなり、もう一人は試練に負けてしまいました。どうしてこのように大きな相違があったのか、私自身よく考えさせられました。試練の程度にはあまり関係がなかったと思います。実は、アルコール中毒者の婦人の試練はもう一人の夫人の試練よりも、もっとずーと長く、もっと酷かったのではないかと思います。そこには試練の程度以外の理由がありました。

この事を考えながら「二人の建築者」と言うイエス・キリストの譬話を思い出しました。もう一度イエスの御言葉を聞いて下さい。(ルカによる福音書6:46〜49上記)
恐らく試練を受けた二人の婦人の土台が違うのではないかと思います。一人の土台は岩の上にしっかりして、もう一人は自分の家、すなわち自分の信仰を、土の上に作りました。

ご存じだと思いますが、建物の全ての重さが土台に支えられていますので家を立てる時には、土台は何よりも大切です。もし土台が悪かったならば、家がいくら素晴らしくても全く値打ちのない家になってしまいます。その家は住んでいる人に非常に危険です。土台が足りなかったら、台風や洪水や地震が起こると家が倒れ、その家にいる人が怪我するでしょう。

小さい頃から建築に興味を持っている私にとって日本の建て方は大変面白いです。工事中の建物を見るのは大好きです。日本は特に地震が多いから、土台は他の国と比べると、しっかり建てています。土を深く掘って、コンクリートと鉄を沢山使って丈夫な土台を作り、地震が起こっても倒れないようにしてあります。

【ベニス】
イタリヤのベニスは長い輝かしい歴史のある美しい町であります。ルネッサンスの多くの有名な建築家はベニスで立派な建物を建てました。数多くの奇麗な建物がまだ残っていますが、残念ながら建物は現在も水と泥に沈んでいます。と言うのは、ベニスは毎年一センチ位沈んでいるので将来には海の下に消えてしまう心配があります。その立派な作品の土台は不十分ですから、建物の巨大な重さを支えられません。

【ニューヨーク・マンハッタン】
一方では高層ビルで有名なアメリカのニューヨーク市のマンハッタン島は何よりも大きな岩であります。もし土台がその基岩につながったら、百階以上の建物が無事に建てられます。百年経ても一ミリも沈みません。

建物と同じように私達人間にも土台が大切です。人生の土台が弱かったら、私達はいつ倒れるかもしれません。しかし、土台がしっかり建てられていたら、最後まで私達は倒される事はありません。

イエス・キリストの弟子達の中でイエスを「主よ、主よ」と呼んでもイエスの教えに従わない弟子がいました。と言うのは、表面的にはその弟子達はちゃんとした弟子と見えました。他の弟子達と同じようにイエス様の元で教えを受け、全く素晴らしい教えと思ったのです。イエスは自分の主だと皆の前に告白したのに、実は、その弟子達はイエス様の教えを自分の生活に活かしていなかったのです。イエスとその教えを良く知っていても、主の言う事を行いませんでした。主イエスの教えに従うよりも先ず自分達の都合の良い生活をしていました。

イエス様の「二人の建築者」と言う譬え話はそのような弟子達の為に語って下さいました。弟子達に御自分の言う事をただ耳で聞くだけではなく、行う事も大切である事を教えて下さいました。何故かと言えば、もしイエスの教えに従わないと、人生の激しい試練に合った時、そういう試練に負けてしまうからです。しかし、自分の人生の土台をイエス様の御言葉を行う事に置くなら、試練がいくら激しくても試練に負ける事はありません。

イエスは自分の弟子達が試練に負けないようにその譬え話を通して注意して下さいました。私達もこの譬え話に注目する必要があります。昔の弟子達と同じように私達もこの譬え話をよく聞かなければなりません。

【聞くことと行うこと】
私達はイエス様の御言葉を聞く機会があります。聖書を読むならイエスの教えを覚えられます。教会で説教を通してイエスが言われた事が少しでも分かって来ると思います。しかし、ただ言葉を耳で聞くだけと、言葉を実際に行う事とは非常な相違があります。聞くのは上手ですけれども、言葉を行うのはそんなに上手ではないと思います。

【人の性格】
この譬え話を通して主イエスは私達に何を教えているのでしょうか。一緒に考えてみましょう。先ず、私達人間皆はこの世の中にはそれぞれ自分の性格を持っています。知っていようといまいと、私達は自分の性格を作っています。人間は死んでから何を持って行く事が出来るでしょうか。財産は全部残して行くでしょう。もし世の中の権力や光栄があれば、それも残さなければなりません。言うまでもなく、自分の体は持って行けません。しかし、私達は亡くなると、自分の性格、自分の人格だけを持って行きます。だからこそ、どのような性格を建てているのかが、大切なのであります。そして、人間の選択は性格を形成するか形成しないかではありません。皆それぞれ性格を形成して来ているのですから。私達の選択はどのような性格を作っているでしょうか。よく建ててある性格と、あるいはしっかりしていない性格を建てているのではないでしょうか。

私達人間にはどのような土台の上で自分の人生を選び建てる事が大事です。この世の中では数多くの道があります。自分中心の生活も出来るし、色んな他の人生の哲学にも従えます。けれども、イエスは私達の選択を狭くしているように一見思えます。実は、二つの選択しかありません。人間はイエスの言葉を行う事の上に建てるのか、他の事の上に自分の人生を建てるのかを選びます。それは私達の大切な選択です。

この譬え話を通してまたもう一つの事が教えられています。すべての人間の土台はいつか試されます。すなわち、私達は必ずこの世で、人生の試練を経験します。前に言及した二人の婦人がその事実をよく表しています。きっと私達の人生の中に病や嘆きや逆境や死などが入り込んできます。これは人間の状態なので、こう言う経験は避けられません。もちろんある人は激しい試練を受けますし、またある人は比較的に軽い試練を経験しますが、これでは人間の差を計れません。試練が来ると、どうゆうふうに試練を扱うのか、これで人間を計れます。

私達の人生にいつかは雨が降って、洪水が出て、激流が私達に押し寄せて来る事でしょう。そしてある人の家は動かず、そのまましっかり立ています。一方、またある家は倒れてしまいます。激流が建物の土台を試すように試練は人間の性格を試します。試練が他の経験よりも、私達の人生の土台、すなわち、私達の信仰を表します。
イエス・キリストの言葉が私達の人生と本当の関係があるかどうかは試練で決められると思われます。先に言及した二人の婦人の場合がよく説明されます。

そうしたらどうゆうふうにしてしっかりした土台の上で自分の人生の家を建てる事が出来ますか。イエス様の言葉を聞くだけではなく、行う事もしなければなりません。と言うのはイエス様の教えに服従する事が必要だからです。他には方法がありません。ヤコブの手紙にこのような御言葉が記されています。「御言葉を行う人になりなさい。自分をあざむいて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)

私達がイエスに本当に従っているなら、どんな激しい試練が来ても倒れず、立つ事が出来ます。この世の中に生きている私達に何と素晴らし慰めと約束でしょう。
しかし、イエス様の御言葉に従う理由はまだあります。試練に負けないと言う理由だけよりも、私達はイエス様を愛していますから、イエスに従いたいはずなのです。イエス様がこのように言われました。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。」(ヨハネ14:15)イエスは私達の為にこの世に来て下さいました。その上、イエス様は十字架で私達の為に死んで下さいました。イエスの死を通して私達の罪は神様に赦され、神の子供になります。イエスは私達の為にこの多大の犠牲を払いましたから、私達の応答は服従だと思います。

いかがでしょうか。あなたの土台はしっかり建っていますか。試練が来るとどうなりますか。私達皆はこのような質問に答えるべきだと思います。私達は今イエスの教えに本当に従っていますか。生活とイエスの言葉が具体的につながっているのでしょうか。イエスの言葉を聞いて実際に行っていますか。

【救いの岩】
イエス様は私達が御自分の御言葉に従うように、助けて下さいます。私達の努力だけでは出来ません。真実にイエスに頼むなら、御自分の教えに従う為に私達に力と知恵と愛と勇気を十分に授けて下さいます。そして、私達はこの讃美歌を心から歌う事が出来ます。

我が身の望みは、ただ主にかかれり、
主イエスの外にはよるべきかたなし。
我が君イエスこそ救いの岩なれ、
救いの岩なれ。(#280)


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