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『悔い改めにふさわしい実を結べ』 

吉田 謙千里摂理教会牧師

2007.6.17

 

 

聖書 マタイによる福音書3章1節~12節

 

 

【そのころ、洗礼者ヨハネが現れて】

今、朗読いたしました記事は、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」という言葉で始まっています。では、ここで言われている「そのころ」とは、いったい、いつ頃のことなのでしょうか。4つの福音書の全てが、今日の洗礼者ヨハネの登場を告げていますけれども、その中でも歴史家とも言われる福音書記者ルカは、洗礼者ヨハネの登場をこのように述べています。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」( ルカによる福音書3章1~4節)。

 

【皇帝ティベリウス】

これが「そのころ」の中身なんですね。それはティベリウスの治世の第15年のことでありました。このティベリウスが皇帝アウグストゥスの後を継いで即位したのが、紀元14年のことでしたから、それから数えて15年ということは、紀元28年頃ということになります。

 

この紀元28年頃というのは、同じく先程のルカの記事によりますと、非常に暗い時代であった、ということが分かります。先程のルカの記事に登場する人物は、みんな悪名高い人物ばかりです。皇帝ティベリウスは、最初は名君としての期待を担って即位したわけですけれども、その治世の終わり頃には、遠慮と羞恥心から解放されて、悪行を重ねたとも言われています。治世の第15年と言いますと、ちょうどこのティベリウスの化けの皮がはがれかけてきた頃なんですね。ローマ世界全体に大きな失望と不安が広がり始めていた頃であります。

 

また都エルサレムは、残忍不正で有名な異邦人ピラトが治めておりました。また、この頃ユダヤの国は四つに分断されておりまして、イエス様の主な活動舞台となったガリラヤは、この時、あのヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスが治めていました。彼は非常に不道徳で有名な人物だったんですね。

 

またユダヤ教の指導者であるべきはずの大祭司も、この頃、随分と不安定な時期にありました。本来、大祭司の職務は終身世襲制だったんですけれども、この頃、それが崩れてしまいまして、まだ死んでもいないのに次から次へと大祭司が代わっていった、と言うのです。紀元前37年からこの頃までの約60年間に28人もの大祭司が、入れ替わり立ち替わりしたと言われていますから、単純計算しますと、だいたい2年に一度、大祭司が交代したということになります。それだけ、ユダヤ教自体も、この頃非常に混乱していた、ということでしょう。

 

要するに、この時代は、民衆の不満がたまりにたまって、多くの人々が、指導者への激しい憤りを募らせていた時代であった、ということです。神の言葉は、こういう暗い時代に、洗礼者ヨハネに臨みました。

 

【洗礼者ヨハネと預言者エリヤ】

では、ここに登場する「洗礼者ヨハネ」とは、いったい何者なのでしょうか。洗礼者ヨハネのことを考える時に大事なのは、4節です。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」

 

旧約聖書に登場するエリヤという預言者がいますけれども、旧約聖書を読みますと、彼も「毛衣を着て、腰には革帯を締めていた」と言われています。預言者エリヤは、当時、贅沢三昧にふけり、罪をかさねていた王様と神の民に対して、自ら毛衣を着た質素な生活態度をもって模範を示し、烈火のごとく悔い改めを迫った人でありました。今日の箇所に登場する洗礼者ヨハネも、そのエリヤと全く同じ姿で現れて、人々に厳しく悔い改めを迫った、と言うのです。人々の目には、この洗礼者ヨハネの姿はどのように映ったでしょうか。

 

旧約聖書のマラキ書には、エリヤの再来がこのように預言されていました。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」マラキ書3章23~24節)。

 

洗礼者ヨハネの身なりと激しいメッセージは、人々に「この人こそ預言者エリヤの再来ではないか」と思わせるのに十分であったと思います。現にマタイは、イエス様が、この洗礼者ヨハネについて「彼は現れるはずのエリヤである」と言明されたことを、この後11章14節のところで明らかにしています。つまりマタイは、「洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書で預言されていたエリアの再来なのだ」と、言いたいわけであります。

 

【主の道を整え】

またマタイは、イザヤの預言を引用しながら、洗礼者ヨハネの使命について、こう語りました。3節。「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。”』」

 

荒れ野に王様が部下を従えてやって来る時に、まず道を作らねばなりません。そのためにまず先行隊がやって来る。山を切り崩し、谷を埋める。そしてまっすぐな道を作るのであります。その上で人々に「間もなく、王様がやって来るから、あなた方は王様を迎える備えをするように」と叫ぶ。ヨハネはそのように叫び、主が来られる備えをする人なのだ、とマタイは言うのです。

「救い主イエス様がやって来られる。だから、あなた方の心をまっすぐにしなさい。イエス様がまっすぐに入って来られるように、あなた方の心を整えるように」この洗礼者ヨハネの叫びは、かつてイザヤが預言した「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という「荒れ野で叫ぶ声」そのものなのだ、こうマタイは言いたいのであります。

 

「悔い改め」のメッセージ】

 それでは、洗礼者ヨハネは、具体的にはどのようなメッセージを語ったのでしょうか。2節を見ますと、それは非常に短い言葉で、このように要約されています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」正確に翻訳しますと、「悔い改めなさい。何故ならば天の国が近づいたから」こうなります。

 

「悔い改め」という言葉は、辞書を引きますと、「今までの自分の行いが間違っていたことに気付き、それを直すことである」と言われています。けれども、聖書で「悔い改め」という場合の中心的な意味は、そういうことではなくて、「人生の向きを変える」ということなんですね。自分の生き方、生活のすべてを含めて、自分自身が神様の方へと向き直ること、これが聖書の言う「悔い改め」であります。

 

【天の国】

では、何故、悔い改めなければならないのでしょうか。洗礼者ヨハネは、「何故ならば、天の国が近づいたからである」と言いました。この「天の国」「天国」という言葉は、日本ではほとんどの宗教が用いています。死んだ人が行って安らぐところ、これがその「天国」の理解であります。しかし聖書では、「天の国」あるいは「神の国」とも言いますけれども、これは「神の支配」を意味します。全てのものを造り、それを統べ治めておられる神様にとって、この世界と全てのものは、全部、神様の支配のもとにあります。けれども、その中に、神様に背を向けている私たちがいる。そこに「神の支配が来る」というのは、何を意味するのでしょうか。それは、まず第一に神様に背を向けている私たちを、なお神様は愛して下さり、「私の方に向き直るように」と語りかけ、そのことを実現して下さる、ということです。またこれは同時に、それでもなお神様に背き続ける者には、残念ながら神の裁きが降る、ということでもあります。

 

洗礼者ヨハネは、「そういう時が近づいているのだから、あなた方は向き直って、神様の恵みのもとに立つように」こう呼びかけたわけであります。5節を見ますと、そのような洗礼者ヨハネの宣言を聞いて、「エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と言われています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」この洗礼者ヨハネの言葉に、多くの人々が反応したのであります。

 

【ファリサイ派やサドカイ派の人々】

7節以下を見ますと、民衆を導いていたファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢洗礼を受けに来た、と言われています。この「ファリサイ派」というのは、民族の名前ではなくて、ユダヤ教の中の一つのグループの名前でした。この「ファリサイ」という言葉は、もともとは「区別されたもの」という意味の言葉です。彼らは、誰が見ても人々とは違った生活をしていたんですね。すぐに区別できたのであります。何故、区別できたのかと言いますと、ユダヤの国は、長い間、大きな国に占領され続けてきましたから、多くの人々が信仰の望みを失って、信仰から脱落していったのです。世の中をうまく立ち回る人たちは、当時の支配国ローマにこびを売って、自分たちの信仰を簡単に捨ててしまいました。そういう人々の中にあって、自分たちだけは昔ながらの信仰を堅く守り、ローマの権力が支配している社会と決して妥協したりはしない。自分たちは信仰を二の次にするような世の人々とは違う。神様の約束を信じ、その教えに忠実に生きていくのだ、彼らは誰よりもまじめにそう考える人たちでありました。そういう意味ではファリサイ派の人たちは、当時の模範的な信仰者たちであって、人々と容易に見分けることができたわけであります。またサドカイ派というのは、主に祭司たちを中心とするグループでありまして、神殿での礼拝や儀式によって神様の前に清い生活を送ることが出来る、そう考えていた人々でありました。

 

要するにファリサイ派にしても、サドカイ派にしても、民衆からは一目置かれていた人たちだったんですね。そういう人たちに対して、洗礼者ヨハネは、非常に厳しい言葉を投げかけた、と言うのです。7節の後半。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子らを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 

【蝮の子らよ】

まずヨハネは「蝮の子らよ」と呼びかけました。「蝮」というのは毒蛇です。「蛇」というのは、旧約聖書の創世記に記されていますように、聖書では悪の象徴であります。つまり、「蝮の子らよ」という呼びかけは、あなたがたの中には間違った点があるというような軽い忠告ではなくて、あなたがたの存在そのものが、もう根本から腐っている、こう言われているわけであります。

 

【斧は既に木の根元に置かれている】

また「火」というのは「神の裁き」の象徴です。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」これは「神の裁きがもうあなた方の間近に迫っている」という厳しい警告でありましょう。「蝮の子らよ。どうしてあなた方は、私の所へ来て洗礼を受ければ神の裁きを免れることが出来ると信じるのか。誰がそんなことを教えたのか。ことはそんなに簡単なことなのか」こうヨハネは問い返しているのです。

 

何故、ヨハネは、彼らに対して、こういう厳しい言葉を語ったのでしょうか。それは、まず第一に、彼らが形式的に洗礼を受けて、民衆のご機嫌取りをしようとしているという魂胆が見え見えだったからです。しかし、ただそれだけではなくて、それよりももっと大きな理由がありました。それは、彼らの信仰を支えていたエリート意識、誇りと自負心を打ち砕く必要があったからであります。

 

[我々の父はアブラハムだ]などと思ってもみるな】

このことを考える上で、一つ鍵になるのが、9節の「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」という言葉です。

 当時のユダヤの民衆の中には、こういう教えが広まっていたと言います。「あなたがたは、この世の中で地獄に落ちるような罪を犯したとしても、心配する必要はない。あなたがたが死んだとする。それぞれの行いにふさわしく、天国に行く者もあれば、地獄に行く者もあるだろう。あなたはたまたま、その犯した罪のゆえに、地獄に行かなければならないとする。しかし地獄の門の前までやって来ると、自分が一人ではないことに気づくだろう。そこにはちゃんとアブラハムがいて、あなたの顔を見て「お前はユダヤ人か、お前は地獄に入る必要はない、あっちへ行け」と、間違いなく天国へと導いてくれる。自分がどんなに悪い人間であっても、アブラハムが「この人は地獄に行く必要はない、天国へ行け」と言ってくれたなら、確実に天国に入れる。このような権力者、親分をあなたがたは先祖にもっているのだから、心配する必要はない。」こういう教えであります。

 

「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」というこの言葉は、こういうユダヤ人のエリート意識を糾弾する言葉です。ファリサイ派の人たちは、一所懸命まじめに生きた人たちだっただけに、余計にこのエリート意識が強かったのだと思います「自分たちは他のいい加減な信仰者たちとは違う。自分たちこそが、本当のアブラハムの子なのだ」と彼らは自負していたわけであります。

 

またサドカイ派の人たちは、祭司や貴族階級の人たちでしたから、血筋的にも「アブラハムの子である」という誇りがあったでしょうし、また自分たちこそ、この国を支えているのだ、という自負心もあったと思います。実はこのような人間的な誇りや自負心、エリート意識こそが、悔い改めの心を駄目にする悪の根源だったんですね。だからこそ洗礼者ヨハネは、宗教的指導者たちに対して、このように厳しく迫ったわけであります。

 

【今日の教会に】

この洗礼者ヨハネの厳しいメッセージは、確かに直接的にはファリサイ派やサドカイ派の人たちに向けられました。けれども、これは決して他人事ではないと私は思います。現にマタイは、この洗礼者ヨハネのメッセージの厳しさを、この福音書を通して、まず教会の人々に伝えようとしました。つまり、私たちに伝えようとしたのです。何故でしょうか。それは、キリストの教会がファリサイ派的なエリート意識に染まりやすいからであります。自分たちは大丈夫。しっかりとやっている。礼拝もきちんと捧げているし、奉仕も伝道もしている。もう大丈夫、安心である。そうやって安心して歩んでいる内に、だんだんと罪の意識が薄れてしまい、悔い改めの心が失われてしまうのであります。

 どんなに大きな罪を犯したとしも、イエス・キリストを信じるならば罪赦される。クリスチャンにとって取り返しのつかない罪はない。罪を犯しても何度でも赦され、立ち上がることが出来る。これは本当に大きな平安です。何もこの平安自体が悪いわけではありません。むしろ、これはクリスチャンにとって本当に大きな恵みでありましょう。

 

【悔い改めにふさわしい実を結べ】

この厳しい言葉は、そういうクリスチャンの平安そのものに向けられているのではない。そうではなくて、8節にはこう言われます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と。つまり、この厳しい言葉は、平安にあぐらをかいて、いっこうに生活を改めようとしない、悔い改めに相応しい実を結んでいない、そういう私たちの甘ったれた生き方に対して、「それでは駄目だ」と警告を発しているのです。

 

ボンヘッファーという有名な神学者は、その著作の中で、私たち人間には、神様が与えて下さった「恵み」を「安っぽい恵み」に変えてしまう傾向があると警告いたしました。こういう警告です。「安価な恵みは、われわれの教会にとって赦すべからざる宿敵である。われわれの戦いは、今日、高価な恵みをめぐって戦われている。安価な恵みとは、見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し、慰め、聖礼典のことである。」「安価な恵みは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告悔抜きの謝罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた・人となりたもうたイエス・キリスト不在の恵みである。」

 

【キリスト者の甘え】

ここで言う「安っぽい恵み」というのは、自分自身の罪や悔い改めの方は棚上げにして、自分にとって都合のいいものだけを「気前のいい神様」を利用して受け取る、そういう「恵み」のことです。このような甘えが、キリストの恵みを台無しにしてしまう。安っぽい恵みにしてしまうのだ、こうボンヘッファーは警告したのです。

 結局、今日の箇所で洗礼者ヨハネが警告していることも、これと同じことなんですね。問題は、救いにあぐらをかいて、悔い改めにふさわしい実を結んでいない、ということであります。

 

では、この「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、いったいどういうことでしょうか。

 

【私たちの全存在の向きが変わる】

「悔い改め」とは、先程も言いましたように、「私たちの全存在の向きが変わってしまう」ということです。自分の心の中のある部分だけが変わるというような、そんな中途半端ものではない。全存在の向きが変わってしまうのであります。当然、そういう悔い改めを経験した人は、その生活自体が以前とは随分と変わってくるのではないかと思います。

 

以前「パッション」という映画が上映されました。イエス・キリストの最後の12時間を見事に描いた映画であります。おそらくご覧になられた方も大勢いらっしゃるのではないかと思います。あの映画を見ますと、神様が貫こうとなさった愛が、いかに壮絶なものであったかがよーく分かります。あの映画を見て、イエス様の十字架の本当の苦しみを知った人は、もう呑気に生きることが出来ない。他でもない、この私を救うために、あんなにも壮絶な苦しみをイエス様は担って下さった。もうボロボロになって、血まみれになって、それでも最後の最後まで私たちへの愛を失うことがなかった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」こう祈られながら、十字架の上で息を引き取られたのであります。千里摂理教会の一人の学生が、当時、このパッションという映画を見て、感動して、「これからは心を入れ替えて、真面目に謙先生の説教を聞きたいです」こういう感想を聞かせてくれました。これは本当に正直な感想だと思うんですね。あれほどまでに凄まじい神様の真実を突きつけられて、なお呑気に生きれるようなクリスチャンはいないと思います。「こんなに大きな愛で愛されているんだから、もう何をやっても大丈夫。やりたい放題、好き勝手に生きよう」神様の愛に感動して、本当に悔い改めた人は、そんな甘ったれた考え方にはならない。不完全ではあるけれども、この神様の愛に少しでもお応えしたいと思う。自分として出来る限りの誠実を尽くしたい、真実に生きたい、そう思う。当然のことでありましょう。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」というのは、そういうことであります。

 

「悔い改めにふさわしい実」という時に、私たちが特に覚えなければならないことは、まず「罪の赦し」が先行しているということです。私たちは、悔い改めにふさわしい実を結ぶから、罪赦され、救われるわけではありません。私たちは、既に悔い改める前から、神様に敵対していた時から、罪赦され、救われたのです。「悔い改めにふさわしい実」というのは、そういう先行する神様の恵みに促されて、私たちの内側から自然と溢れ出てくる感謝の現れでありましょう。「悔い改めの実」を結ばなければ神様に罪を赦してもらえないと言って、いやいや義務感からする行い、これはいくら人から賞賛されるような行いであったとしても、「悔い改めにふさわしい実」とは言えません。そうではなくて、たとえ人の目にはとまらない小さな小さな行いであったとしても、「本当に神様ありがとう」という気持ちから、自然と溢れ出てくるもの、それが「悔い改めにふさわしい実」であります。

 

【ノイローゼからの解放】

子供の頃から親の言うことは何でよく聞く、とっても親孝行で、優しい人がいました。けれども、彼女はある時、ノイローゼになってしまったんですね。何故でしょうか。それは無理をして親孝行をしていたからです。彼女は、子供の頃から極端に親を恐れていました。親に叱られるのが怖いので、細心の注意を払って親を怒らせないように、怒らせないようにと、ビクビクしながら親の言うことを聞いていました。そのためにとうとう限界がきてしまったんですね。20歳の時に彼女は、苦しみのあまりに、大量の睡眠薬を飲んで自殺をはかりました。幸い彼女は助かりました。気がついてみると病院のベッドに寝かされていました。そして、側には両親がいた。彼女の体は急にこわばりました。「あー、叱られる。怒鳴られる。叩かれる。こんなひどいことをしたんだから、もう捨てられてしまうかもしれない」彼女は覚悟を決めました。ところが、彼女のご両親は一言も怒りませんでした。ただ彼女の手をぎゅっと握って涙を流していました。「助かってよかった。本当に良かった」そう言って田舎から出てきた両親が彼女の側で泣いていたのです。彼女にとって、これは信じがたい光景でありました。彼女は今まで両親は怖い人だと思っていたのです。言う通りにしないと愛してもらえないと思っていました。親の嫌うことをしたら絶対にひどい目に合う、許してもらえない、そう思っていました。ところが、本当はそうではなかった。気がついてみると、両親は涙を一杯浮かべて、「助かって良かった。良かった」と言って抱きしめてくれたのであります。本当はそういう優しいご両親だったんですね。彼女は自分が誤解していたことに気づきました。行いとは全く関係なく愛されているということが分かりました。何をしても、何が出来なくても、そんなことには全く関係なく自分は愛されていたんだ、そのことが分かりました。その時に彼女の心の病は完全に癒されたんですね。病気が治った後も、彼女は親孝行を続けました。外側から見れば何にも変わっていないかのように見えたかも知れません。けれども、彼女の心の中は、以前とは全く変わっていたんですね。以前は、自分は親に愛されていないものだと彼女は思い込んでいました。そのために、辛いけれども、嫌だけれども、親に愛されるために無理をして親孝行をしていたのです。しかし今は違います。死のうとした自分を、最大の親不孝をした自分を、あるがままで両親が受け止めてくれた。愛してくれた。何かをするからではなくて、自分の存在そのものを両親は愛してくれていた、そのことを知ったのです。もう以前のように義務感から親孝行するのではなくて、そんな親の愛に何とかして応えたい、親孝行をしたい、そういう思いが内側から湧いてきて、今は本当に喜んで親孝行しているのであります。

 

【神様の愛にお応えする歩み】

私たちは、これよりももっともっと大きな愛で既に神様から愛されているんですね。イエス様の十字架の愛で愛されているのです。私たちの存在そのものが愛されているのであります。しかも、この神様の愛は決して変わることがない。この神様の愛に促されて、喜んで自分に出来る精一杯の感謝をあらわしていく、これこそ「悔い改めにふさしい実」と言えるのではないでしょうか。いくら立派な行いに見えたとしても、以前のこの女性のように、心が伴わなければ「悔い改めににふさわしい実」とは言えません。要するに、「悔い改めにふさわしい実」という時に一番大切なことは、外側に現れる行いではなくて、その行いの背後にあるその人の心なのであります。

 

【通り良き管として】

肝心なのは、中途半端な思いは捨てて、甘ったれた考え方は捨てて、本気で悔い改めるということです。そうすれば、悔い改めに相応しい実は、自然と湧き上がってくる。自分を正しい者とする傲慢さ、自分が歩んでいる方向を何としても変えたくないと思う頑なさ、必死にしがみついて手放そうとしないプライド、つまらないこだわり、それらを全部捨てて、本気で悔い改める、自分の全存在の向きを思い切って神様の方へと向き直すのであります。

 

宗教改革者カルヴァンは、私たちの信仰は、水道管のようなものだ、と言いました。水道管というのは、それ自体は空っぽなんですね。いや、空っぽでなければならない。もしそこに何かが詰まっていたとしたならば、大切な水は私たちのもとにまで流れてきません。信仰もこの水道管と同じである、とカルヴァンは言いました。信仰も空っぽでいいんです。空っぽだと言って嘆く必要はありません。むしろ信仰は、空っぽでなければならない。大切なのは、そこを通って来られるキリストであります。

 

今日の御言葉で言うならば、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、私たちの心の中の水道管を空っぽにするということでありましょう。

 

今の時代は、イエス様が歩まれた時代によく似ています。世の中が悪い、あの国、この国が悪い、政治家が悪い、教育が悪い、いや教会が悪い、あの人、この人が悪い、いくらだってその責任を転嫁することが出来ます。世の中がよじれ、曲がっていれば曲がっているほど、自分たちと世の中との差が、目についてくるのです。伝道に打ち込めば打ち込むほど、人の愚かさが目についてくる。愛の奉仕に生きればいきるほど、愛の奉仕に生きていない人の怠慢を裁きたくなる。世の中のよじれやほころびは、私たちにはよく分かるのであります。けれども自分の中の信仰のよじれに気づいていない。自分は、こんなよじれた世界には染まらない、信仰をもっていないあの人とは違う、自分は信仰をもっている。そうやって、私たちの信仰は、うぬぼれと傲慢と甘えとプライドによって、どんどんどんどん膨れ上がっていくのであります。空っぽになれないんですね。うぬぼれや傲慢や甘えやプライドで一杯になっている信仰は、詰まっている水道管であります。そういう水道管は水が流れてこない。そういう信仰はイエス様を閉め出してしまうのであります。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」あの人、この人ではなくて、まず私たち自身が本気で悔い改めなければならない。これが、この洗礼者ヨハネのメッセージを通して、マタイが私たちに伝えたかったことであります。祈ります。

 

祈り

 父なる神様。あなたはこの暗闇の時代にあって、光を照らして下さいました。絶望的な荒れ野の中に道を備えて下さいました。私たちは、あなたに出会い、喜んでこの道を歩む者へと変えられています。心から感謝いたします。しかしながら、私たちはすぐに有頂天になって、心の水道管をうぬぼれや傲慢や甘えやプライドで一杯にしてしまいます。イエス・キリストを心から締め出してしまうのであります。どうぞ弱い私たちを憐れんで下さい。一人一人がそれぞれの罪を素直に認め、告白し、本気で悔い改めて、御子イエス・キリストを素直に心にお迎えすることが出来ますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈り願います。 アーメン。

 

 

 

 

 


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