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祝福への道

ウイリアム・モーア

2007.9.2.

 

聖書:詩編1篇

 

 

【詩編について】

早速ですが、聖書のクイズで今日の説教を始めたいと思います。良いですか。聖書の66巻の中でどこに一番短い章がありますか。また、一番長い章がある所は?それから600年程にわたって書かれた書は何ですか。もう少しクルーをあげますと聖書を手にとって、ほぼ真ん中を開くと何と言う書になりますか。この書は聖書の中で一番長い書でもあります。もう答えがお分かりになるでしょう。詩編は2節を持つ第117編は聖書の一番短い章で、176節で形成された詩編第119編は一番長い章です。詩編は600年にわたって書かれました一番長い書で丁度、聖書の真ん中にあります。クイズの全ての正しい答えは「詩編」であります。

 

【詩編と教会】

恐らく旧約聖書の全ての書の中で、詩編の影響はキリスト教会に一番強かったと思います。詩編は特にキリスト教の礼拝に大変重要な役割を演じて参りました。詩編は文字通りに詩の本です。そして、礼拝に古代ユダヤ人はその詩を神に歌いました。現在も私達が歌う多くの讃美歌は詩編に基づいています。詩編は詩を通してユダヤ人の歴史とその歴史の中の神の御業を語ります。神の民をエジプトの奴隷から解放したモーセから、イスラエルと言う国の発展をもたらしたダビデ王とその息子ソロモン王まで、詩編には神の民の歩みが記録されています。しかし、詩編は詩ですから、その歴史の中の出来事をただ理知的に語るのではなく、信仰と感情と賛美を通してその神の御業を述べてあります。詩編は神の民の勝利と喜びの時を賛美で表現しています。

 

【主を賛美する】

例えば、詩編第92編5~6にこの賛美が記されています。「主よ、あなたは御業を喜び祝わせて下さいます。私は御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。」

 

【苦難のとき】

そして、敗北と悲劇に対するイスラエル反応も詩編第88編に記されています。「主よ、私を救って下さる神よ、昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります。私の祈りが御元に届きますように。私の声に耳を傾けて下さい。私の魂は苦難を味わい尽くし、命はよみにのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ、力を打ちなったとされ、汚れた者と見なされ、死人のうちにはなたれて、墓に横たわる者となりました。」

 

【罪の告白と悔い改め】

詩編は神の民の罪の告白と悔い改めの経験も表します。編第32編1−2にこう書いてあります。「いかに幸いな事でしょう、背きを赦され、罪を覆(おお)って頂いた者は。いかに幸いな事でしょう、主に咎を数えられず、心にあざむきのない人は。」

 

【詩編第1篇:感謝】

そして、詩編を通して神の民は主の教えに対しての感謝を表しました。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれる事がない。その人のする事は全て、繁栄を齎す」と詩編第1編に書いてあります。

 

【人生の全てのときに】

主の御霊によって導かれ、私達の信仰の大先輩は詩編に喜びと賛美と感謝を神に表し、嘆きも怒りも表現しました。罪の告白と悔い改めの心も述べたのです。信仰の全ての経験と感情を豊かに表しますので、詩編は私達の賛美、私達の祈り、私達の嘆きさえにもなります。特に、あんまり嬉しい時、神に感謝の気持ちを十分に表現出来ない場合、詩編の御言葉は私達の気持ちとなり豊かに表します。同じように、悲しい時、失望の時、空しい時、祈る事が難しい時、詩編はまた私達の言葉さえも出て来ない辛さを深く理解し、私達に代わってその気持ちを言葉にして下さいます。

 

ですから、詩編は何千年にわたって信者によって愛され、大きな祝福と支えになりました。その神の御言葉は信仰者の全ての経験を豊かに反映しますので、どんな状態でも、どんな気持ちでも、詩編の中で自分を見出す事が出来ます。

 

詩編の恵みをよりもっと分かるように、又、信仰をもっと豊かに経験出来るように、しばらくの間、月一回、詩編を一緒に学びたいと思います。どうかこの学びを通して、私達の信仰の経験がもっと豊かになり、生き生きとしたものになりますように祈っております。

 

【空しい幸福への道】

さて、詩編の学びを第一編から始めたいと思います。その最初の言葉は、「いかに幸いなことか」であります。つまり、詩編第1編は祝福への道、あるいは、幸福への道を教える訳です。誰でも祝福と幸福を求めていると思います。そして、それに向かって一所懸命に命を懸けて励んでいます。しかし、地下水が全く無い所でいくら深く井戸を掘っても水が出て来るでしょうか。いくら励んでも全財産を出しても、井戸水は決して出て来ません。それと同じようにある人は間違えたところ、と間違えたもので幸福を捜し求めています。そのような幸せの道は一時的であり、遂に空しさと悲しみに到達させます。それでは今日の御言葉は目的と満足と喜びに満ちている道をどう私達に教えているのでしょうか。そして、その幸福はどんな幸福のものでしょうか。

 

【真の幸福への道:避けるべきこと】

真の祝福への道を学びましょう。それは1節から3節まで記されています。まず、本当の幸福を求める者はいくつかの事を避けなければなりませんと書いてあります。「いかに幸いな事か、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と記されています。

 

つまり、神を軽んじる、あるいは神を無視する人のアドバイスと教えに従ってはいけないと言うのです。そうすると、幸福の源、主との関係が遠くなってしまいます。神に逆らう者の価値観は神を愛する人の価値観と合わないので、祝福への道どころか、空しさと滅びの道へと案内します。私達は忠告が必要な時、祝福への道を歩いている神を信じ従う者へ行った方が良いです。そうすると、自分もその道を歩くようになります。

 

次は、私達は、「罪ある者の道にとどまってはいけません」と教えられています。ある面で全ての人間は「罪ある者」です。私達一人一人は神に完璧に従わず、毎日罪を犯します。しかし、ここでの「罪ある者」は、知りながらでも神が教えて下さった正しい道に逆らって、主が存在していないように生きている人です。幸福への道を歩もうとしたら、そのような人の行動と考え方を真似しては行けません。そうすると私達も悲しみの道へ連れられてしまいます。

 

逆に、神を畏れ、忠実に従っている者の行動を真似する方が良いです。そうすると、私達は共に神の祝福にあずかります。

 

【傲慢な者と共に座らない】

更に、幸福を得ようとする者は、「傲慢な者と共に座ってはいけません」と教えられています。ここでの「傲慢な者」は特に神を愚弄する人の事です。そのような人は横柄に自分が全能の神より偉いと思って、極めて愚かです。その傲慢な者の影響を受けて、同じ態度をとると、もちろん幸福への道から迷ってしまいます。そのような人は私達を滅びと悲しみに導くので、避けた方が賢いです。

 

この詩編の1節はしてはいけない事を教えて下さいます。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らない」事は「幸い」と記されています。しかしながら、その事を避ける事だけで、神の祝福を受ける訳ではありません。2節と3節は祝福された者の積極的行動とその結果を掲示して下さいます。その人は、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」です。つまり、幸福の道を歩む者は神の教えを喜んで受け入れ、それを唯一の命の言葉と信じるから、常に毎日の生活にその教えを実行しようとします。そして、神の教えをどこで見付けられるのでしょうか。言うまでもないが、神の教えは聖書に記されています。

 

【聖書:神の愛の手紙】

小さい時、私の子供は時々お爺さんとお祖母さんから手紙を頂きました。彼等は自分あてに来るその手紙を受け取り開けて読むのをいつも喜んでいました。何故なら、お爺さんとお祖母さんが彼等を愛していると分かっていたからです。誰でも愛する人から連絡が来ると喜ぶ事は当然であります。聖書は何よりも愛する天の父なる神からのお手紙です。私達人間の祝福の為、神がその手紙を授けて下さいました。聖書に於ける神の教えは私達の幸福の為、祝福への道だと信じたら、喜んで聖書を学んで、その教えを受け入れ実行できます。今日の詩編によりますと、主の教えを愛する人は幸いです。

 

【流れのほとりに植えられた木】

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」は何に例えられるのでしょうか。3節を読みましょう。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれる事がない。その人のする事は全て、繁栄をもたらす」と記されています。これは本当に豊かな表現ですね。イスラエルと言う国は雨が殆ど降らない砂漠のような国です。その故に緑が少なくて、日本の状態とかなり違います。もし緑があれば、必ず川や泉のような水の源も近くにあるとすぐ分かります。とても暑い国なので、水の源がなければ木は遂に枯れてしまいます。しかし、十分な水があれば木が盛んで、実を結びます。根が水をたっぷり吸収して、その木が大きくなり、毎年ナツメやイチジクのようなフルーツが出ます。

 

人間も神の御言葉に養われ、そして、その御言葉を忠実に実行すると、川のほとりの木のように盛んになります。と言うのは、イエス・キリストの贖い死を通して唯一の神の赦された子供になると、自分の人生が誠の価値と意味と喜びを得て、確かな希望も頂きます。

 

【祝福された人生】

それだけではなく、主は信者の味方になり、私達を祝福して助けて下さいます。そして、力付けられた私達は神から頂いた目的も果たす事が出来ます。つまり、丈夫な木のように実を結べます。実は様々ありますが、その全ては神の栄光を現し、御自分の愛を反映します。神から頂いた目的を果たすと祝福され人間らしい人生を送って、幸いになります。

 

【神を無視する人生の行く末は】

その反面、愛する神を無視し、人間が作った道を歩む人はどうなるのでしょうか。4節を見て下さい。「彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」のようになります。つまり、全く空しくなります。昔のイスラエルでは収穫された穀物を脱穀してから、それを投げ上げて、籾殻は風に吹き去られました。神から離れた生き方は同じようになってしまいます。無意味、無用、空しいと記されています。そして、その道は何所に終わるのでしょうか。5節と6節を見て下さい。「神に逆らう者は裁きに耐えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る」とはっきりと記されています。やはり、この世でどちらの道を歩むかは大事な事です。

 

愛する兄弟姉妹、この世の中には沢山の道がありますね。つまり、色々な生き方と教えがあって、その中から正しい道を見抜くのは難しいようです。私達は年を重ねて来ても神の祝福を経験しても、まだまだ沢山の人々はお金や、地位や、持ち物や、快楽や、わがままな行為などで幸せを得ようとします。確かに言える事はそのような幸せの道は一時的であり、遂に空しさと悲しみに到達します。

 

イエス・キリストは迷わずにこう宣言されました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行く事が出来ない。」(ヨハネによる福音書14章6)

 

【唯一の命と祝福の道】

実は、この世には二つの道しかありません。神の御子が提供する道は永遠の豊かな命と祝福の道です。全ての他の道は空しいです。どうか私達一人一人は神が備えて下さる唯一の命と祝福の道を歩みましょう。

 

詩編第一篇の御言葉をもう一度聞いて下さい。
「いかに幸いな事か、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれる事がない。その人のする事は全て、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に向き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに耐えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」アーメン。


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