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宗教改革記念礼拝

「聖なる祭司として」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

2007.10.28

聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2110

◆生きた石、聖なる国民

  1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4:この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5:あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6:聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7:従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8:また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

  9:しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10:あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

 

【宗教改革】

毎年1031日は宗教改革記念日ですので、今朝はそれを覚えて説教をさせていただきます。

御承知のように、ヨーロッパの宗教改革は実際には中世の終りから色々な人たちが始めていま

した。イギリスではウィクリフ、ボヘミヤではフス、フィレンツェではサヴォナローラなど、当時の教会の腐敗に多くの人が心を痛めていたのです。ただ、全体的運動には至りませんでした。

 

それを変えたのがルターでした。15171031日、ヴィッテンベルク城の教会の扉にルターは95か条の公開質問状を張り付けました。これは特に過激な方法ではなく、当時よく使われたものです。ルターは自分の疑問について公に討論をしたかっただけで、大ごとになるとは全く考えていませんでした。彼の思想も神学もまだ十分整理されていませんでした。

 

しかし、印刷技術の発達やその他の理由で、事態は思わぬ大きな展開を見せ、その中で彼の考えも整理され、展開し、成熟していきました。更にルターだけでなく、ブーツァー、ツヴィングリ、カルヴァン、ノックスなど、当時のヨーロッパの色々な人たちにこの運動は広がり、大きな困難の中にも定着していきました。改革派教会は、この宗教改革に源流を持つ教会です。

 

【宗教改革の三原則】

御承知のように、宗教改革の三原則と呼ばれるものがあります。第一は形式原理、つまり聖書のみという原則です。ローマ・カトリック教会は聖書を経典としていましたが、実際には昔からの伝承やローマ教皇の勅令、教会会議の決定など、いわゆる聖伝と呼ばれるものを聖書と同等に権威あるものとし、そのため、実質的には聖書の権威と教えは低められ歪められていました。宗教改革は神の御言葉、聖書のみが信仰と生活の唯一の規準だという初代教会の正しい原理を取り戻したのです。

 

二つ目は実質原理です。人が神の前に罪赦され義とされるのは、ただ神の一方的な恵みによるのであり、言い換えれば、人が救われるのは決して行いによるのではなく、ただ神の御子イエス・キリストを救い主として心から信じ受け入れ依り頼む信仰によるということです。これは「恩恵のみ」とか「信仰のみ」の原理とも言われます。

 

三つ目は万人祭司論です。今朝はこれを再確認したいと思います。

 

【万人祭司】

万人祭司とはどういう教えでしょうか。神の御子イエスを自分の唯一、永遠の救い主と信じる者は、その信仰の故に誰でも直接神に近づき、神に仕える祭司だという教理です。これを宗教改革者たちは当時のカトリック教会に対して唱えました。無論、これは聖書の教えです。Ⅰペトロ29節はクリスチャンに「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司」と言い、5節でも「聖なる祭司」と言います。黙示録16節も「私たちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」と言います。クリスチャンは皆神の前に祭司とされているのです。

 

では、何故宗教改革者たちは万人祭司論を強く唱えたのでしょうか。それは当時の教会が、教会こそキリストの恵みを全て所有し、それを教会は聖職者によるミサなどの礼典(秘蹟)を通して信徒に与えることができる、としたからです。

しかも、その教会が聖書の教えと違っていました。聖書によれば、教会はキリストの霊的な体であり、信徒一人一人はその部分です。Ⅰコリント1227節は「あなた方はキリストの体であり、また一人一人はその部分」と言います。エフェソ219節によると、教会は「神の家族」です。教会は全信徒が構成し、また信徒の交わりが教会なのです。

 

【当時のローマ・カトリック教会】

しかし、当時のローマ・カトリック教会はそう考えませんでした。教会とは司祭や司教などの聖職者の組織であり、これを「教える教会」と呼んで特別視しました。そしてこの意味での教会が神と人の間を執り成す、いわば祭司の役割をするとし、またこの教会を通してでなければ、人(信徒)は神に近づけず、救われることも神と交わることも神に仕えることもできないとしました。こういう誤った意味での教会を、神と一般信徒との間に介在させ、聖書解釈も教会の独占物でした。

宗教改革者たちが万人祭司論を強く唱えたのは、このような当時の教会観に対してであり、信徒に対する聖職者たちの間違った優位性に対してでした。聖書が教える通り、全ての信徒が神に直接仕える、いわば祭司なのです。

余談ですが、30年位前、ある教派の中が色々もめた時、教会における教職者の存在を万人祭司論によって否定し、自分は一信徒になると述べた牧師がいたと聞きました。これは万人祭司論の誤用です。牧師が一信徒であるのは当然であり、その上で、エフェソ412節が言うように、主は教会を御自分の体として建て上げるために、教会に教職者、聖職者を立てられたのです。

 

【万人祭司論とわたしたち】

さて、万人祭司論は具体的にどういうことを私たちに意味するのでしょうか。

 

第一は対神的側面です。信徒一人一人は今や主イエスを通して全知全能の唯一の生ける真の神に直接近づき、また聖書を解釈し理解し、さらに神に祈り、神と親しく交わり、神を喜び、神に仕えることができます。神と私たちの間の真の仲介者、執り成し手は、教会でもなければ牧師・神父でもありません。それはⅠテモテ2:5の言う通り、私たちの罪のために十字架で命を献げ、甦って永遠の救い主となられたお方、また罪こそは犯されませんでしたが、私たちのあらゆる弱さを分って下さる神の御子イエス・キリストだけです。この主イエスにより、私たちは今や祭司として自分一人で生ける神の前に全く恐れなく立ち、大胆に神に近づくことができるのです。

 

私たちは、自分が心から慕う人のそばにいることができ、しかも何かその人の役に立つことができるなら、とても嬉しいですね。実は私たちはそれ以上の幸せをいただいているのです。本来、私たちは神の御前に出て、神に仕えることなどできない汚れた罪人ですが、今やキリストの故に勿体なくも祭司として全く恐れなく神に近づき、仕えることができるのです。キリストがその血潮をもって贖って下さったこの私たちの体と魂をもってです。私たちは自分の全存在を神への芳しい献げ物とし、しかもキリストの故に神に喜んで受け入れられるのです。何という光栄であり特権でしょうか。

 

対神的な点で、もう一つあります。それは今や私たち一人一人が神と自分との個人的な関係をしっかり覚える自律した信仰者として主体的に、キリストの霊的な体である教会形成に参与し、夫々の賜物を活かして皆で「教会として共同的に」神に仕えることができることです。これも何と素晴らしいでしょう。

 

第二に、対人的な面があります。これは特に人に仕えることです。そもそも祭司の務めは、旧約聖書によれば、神と人との間の執り成し手であり、民を神に執り成す務めをしました。その意味で民の世話をし、例えば、罪を犯した者に神の律法の命じることをさせて罪の赦しを教え、魂に平安と慰めを与え、元の生活へ帰してやりました。こうして祭司は人にも仕えました。愛と同情をもって人に仕えることを通して神に仕え、神に仕えるという究極の目的をもって人に仕えました。ですから、万人祭司論を宗教改革者たちが強く唱えた時、彼らは信徒が皆夫々人に仕えるという、その重要な奉仕を教え推進したのでした。

 

【教会内の信徒にたいして】

この対人的なことに二つの側面があります。一つは教会内のことです。信徒は互いに愛し励まし合い、具体的に祈り、助け合って、いわゆる相互牧会をするのです。牧会とは、羊飼が羊を世話することになぞらえて、教会の中で信徒の魂のケアが御言葉によってなされ、信徒が信仰と生活において道を誤る時には連れ戻し、信徒が試練の中で傷つき弱っている時には霊的力と慰めと癒しを与え、主の道を堅く歩み、救いの完成に至れるように助けることです。

 

宗教改革者たちの書いた文書の中に相互牧会に関するものが多いのは、興味深いと思います。万人祭司の教理は、神にのみ心を向けて人には関心が薄いとか、神と人からただ受けるだけでもなく、神の栄光を究極の目的として、互いの信仰とその完成のために手を差し延べ、祈り、忠告し、励まし、牧会し合う、積極的で自律的な信徒を生み出すことを目指しているのです。Ⅰペトロ122節は言います。「あなた方は真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」万人祭司論は、私たちが互いに神への執り成し手とされているという大きな光栄と特権を主から授かっていたことに、改めて気づかせてくれます。

 

【教会外の人にたいして】

対人的なもう一つの点は、私たちクリスチャンは、まだキリストによる救いを知らない教会外の人たちのための祭司、ある意味での執り成し手、仲介者だということです。Ⅰペトロ29節をもう一度ご覧下さい。「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。」

 

万人祭司論は、私たちに教会外の人への伝道や証し、種々の奉仕を促し励ますものでもあります。実際、私たちは、神を知らない世の多くの人のために神に絶えず執り成しの奉仕をする祭司としても召されています。私たちを他にして、一体誰が罪と不信仰に満ちたこの世を神に執り成し、キリストの救いを提供することができるでしょうか。

 

ただ、このために私たちは自らを清くする必要のあることを思います。Ⅰペトロ21112節は言います。愛する人たち、あなた方に勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなた方を悪人呼ばわりしてはいても、あなた方の立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。」

 

5節にも「聖なる祭司となって」とあります。旧約時代、アロンの子孫である祭司たちは、とても美しい祭服を身に付け、清い生活を求められました。彼らを見て、皆が神の麗しさと清さを覚え、信仰を促されるためでした。今日のクリスチャンも同じでしょう。執り成しの祈りは勿論のこと、具体的に人に仕え、しかも清潔で温かい人間性と生活により、私たちは9「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を…広く伝え」させていただくのです。

 

万人祭司論はこうして見ると、私たちの生活の質を問い、キリストの十字架と神の愛に生かされている私たちが、どれだけ神と人に喜んで仕える新しい生を生きる者であるかを深く問う教理と言えます。聖路加国際病院理事長の日野原重明氏は、19703月、よど号ハイジャック事件に遭い、北朝鮮へ連れていかれるという体験をされました。幸いにも助かりました。まさに死からの生還でした。クリスチャンである日野原氏は、その事件に触れてこう書いておられます。「私の人生は、そこで方向を変えたと言えましょう。私の人生は、私だけのために私が作るのではなしに、私のためではないことのために、もっと私を使わなければならないという気持ちが自然に湧き上がってきたのです。」パスカルは祈りました。「主よ、今から、あなたの御用のために、あなたと共に、またあなたにおいて、役立てる以外には、私が健康や長寿をいたずらに願うことがありませんように。あなたお一人が、私にとって何が最善であるかをご存じです。ですから、あなたがご覧になって、最も良いと思われることをなさって下さい。御心のままに私に与え、また取り去って下さい。私の意志をあなたの意志に従わせて下さい。」いずれも神に救われた命を、神と人に献げて深く生きる人の言葉だと思います。

 

いいえ、何より私たちの救い主、大祭司イエス・キリストを覚えたいと思います。主は神なのに、私たちと全く同じ人間性を取って、この罪と不信仰に満ちた世に来られました。そして何と低い様で主は生きられたでしょう。ついに主はご自分を私たちのための犠牲として十字架に献げて下さいました。そして復活され天におられる今、弱く頼りない私たちのために片時も眠ることもまどろむこともなく執り成し続けて下さっているのです。どんなに主は私たちにお仕え下さっていることでしょう。そしてその主が、今度は私たちをもご自身の尊い祭司としてのお働きの一端に召して下さっているのです。

 

万人祭司という重要なクリスチャン原理を聖書によって取り戻し、命をかけて唱えた宗教改革者たちも皆、神と人に仕え、何と深く質の高い生を生きたことでしょうか。その彼らを待っていたものは無論、揺るぎない栄光の天の御国でした。

 

宗教改革記念日を覚え、私たちは主イエス・キリストにより、どのような光栄へと救われ、どのような者に召されていたかを、改めて深く覚え、主の愛に応えたいと思います。(おわり)

 

 


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