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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

生きた水の流れ

河内常男伊丹教会長老

2008330

聖書 ヨハネ7:37より38 

◆生きた水の流れ

 37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 

【私の信仰の歩み】

私は、33歳のときに伊丹教会へ復帰しました。復帰したというより、放蕩息子がやっとの思いで、たどり着いたという感じです。神様の哀れみです。

私の洗礼は18歳の高校生のときでした。津山の日本キリスト教団 津山城西教会という小さい教会でした。私には5つ上の姉がおり連れられて日曜学校へ行くようになったのです。

牧師先生からあなたも、洗礼を受けなさいというそのひと言で受洗しました。今思えば先生が良く薦めて下さったと感謝しています。

 

【社会人として】

でも私には信仰の本当の深い意味が判っていませんでした。高校を出て伊丹で就職し、大阪で5年、その後又伊丹のもといた工場へ戻り、15年間は教会から離れていました。

私は、大学の受験に失敗してから、これを良いことにすぐ就職しました。仕事の内容はあまり問題ではなく、津山を出て行くことが、目的のようなものでした。自分にとって津山での10年は良い思いありませんでした。

 

【台湾生活そして敗戦はすべてを台無しに】

父母は津山の出身で、私は台湾で生まれました。父が生まれたときは、難産で、母親は父を産んだとき、死んでしまいました。不遇の中で育った父は、お寺とかたらいまわしにされて、育てられました。師範学校を出ると、すぐに自立するために給料の良い外地で教職の道を選んだのです。

私にとって台湾はとても良いところでした。台湾での生活は戦争というつらい思いはありますが、割合豊かで、何一つ不自由はない暮らしでした。

 

【津山に帰って】

でも、戦争が終わり、津山へ引き上げてからは、とても惨めな生活が始まりました。

小学校を2年生に編入しました。台湾では戦争のために、ほとんど学校へは行けませんでした。台湾生まれということと、貧乏で勉強は出来ないということでいじめられました。

習字の時や、絵の時間にはすずりとか、筆、クレパスとか絵の具も無いという状態でした。ですから、私の心は、世の中で一番怖いのは貧乏だと思いました。そのためにはともかく、大学へ行くよりは、少しでも早く就職してお金を稼ぐことだと思いました。小学生の時のいじめは、つらくてずっと劣等感として引きずってゆきました。何とかして、お金を貯めて、いじめた連中を見返してやりたいという思いでいっぱいでした。

 

【伊丹で2年、大阪で5年】

父母や兄が、必死に働いていることを見ると自分も頑張らなくてはなりません。伊丹へ就職してからもあまり自慢するのもいけませんが、自分でも良く働きました。事情があって伊丹の縫製工場を2年で辞めて、大阪へ行きました。

大阪で5年働きました。大阪では東区で洋服生地を卸売りする店におりました。

 

お店では土曜日の夜6時からすぐに徹夜のマージャンが始まり、夕方に起き食事をし、夜はミナミへ遊びに行くのです。自分はそうゆう生活は嫌でたまりませんでした。働くことには何の問題もなかったのですが、まわりは私を誘うし、断ると生意気だと言われ、夜の御堂筋へ連れ出されて殴られたこともありました。

 

【職場でのつらさ】

憧れて大阪で働くことは出来たけれども、懸命に働いて貯金をしたくてもこのような先輩や同僚の中で付き合いを大切にすれば、自分の目的は達成できません。

自分はこうゆう職場は向いていないと思うようになりました。どうすれば、このような店で皆とうまくやれるか、職場で孤独になるのはつらいし、悩みました。先輩たちと良い関係がないと仕事上の情報も入ってきません。

 

今から思えば、この様な悩みを抱かせてくださったのは神様の恵みでありました。この様な思いは、神様からの問いかけであったように思います。主の招きはいろいろな形を取って私たちに示されます。文字通り、教会から招きのはがきや電話があったり、ポスターを見たりして教会を訪ねることがあります。友人から勧められたりします。聖書を読んで教会へ導かれることもます。

 

私の場合は、職場の人間関係や、仕事上の悩みとか、弱い自分をどのように克服できるだろうか、という中での神様の働きかけだったと思います。

 

【再び伊丹に】

お店の中で先輩の不祥事があり、それを機会に大阪の店を辞めました。以前おりました伊丹の専務が社長になり、戻って欲しいと言われ、元いた工場へ戻りました。この社長は、私の親戚になるかたでした。君は将来この工場の幹部としてがんばってくれと言われ、私は、張り切って戻りました。何とか、その会社の業績を上げてやろうと、職場の改善に努めました。小さい縫製工場で30名くらいの工員さんがおりました。何十年も働いておられる先輩たちがおられました。しかし、私がいろいろ意見を述べても、彼らが、簡単に意見を聴いてくれません。それは当然のことでした。社長の親戚だとかいっても、前に勤めて辞めてまた、戻ってきたような若い者が、幾ら提案しても簡単に聞くはずがありません。私は、営業の担当でしたから、小売店を沢山訪問して得意先を増やして売り上げを増やそうとしました。でも、注文を貰っても、納期が間に合わなかったり、納期を守るために社長に改善策を頼んでも、あまり仕事に熱心でない社長は動いてくれません。結局、社内の空気は、惰性で動くという雰囲気の職場でした。社長は仕事より趣味が大切な人で、あまりやる気の無い人でした。

 

【不満と悩みの日々】

そうゆう工場でしたから、だんだんと私は不平不満でやる気をなくして面白くない日が続きました。些細なことで喧嘩をしたり、争ったりしました。

何でこんなに自分は頑張っているのに皆はついてきてくれないのだろうかとか、自分は社長にこの様に、意見を言ったり、改善をお願いしているのに聞いてもらえないのだろうかと不満でいっぱいになりました。

 

やはり、前の職場で感じたように、人間関係の難しさを味わいました。どうして、自分は周りと衝突してうまくやれないのだろうかと悩みました。何とか、自分の欠点を直そうと努力もしました。しかし、周りから自分の欠点を少しでも指摘されると余計にそれに過剰に反応したり、むきになって強がったりしたものです。

 

【再び教会に】

これも今から思えば、神様のお導きであったとしか思えません。家のすぐ近くに教会があり、通るたびに教会で何かを学ばなければ自分は駄目だと思うようになりました。昔の津山教会で教えていただいたことが思い出されて、何とかこの駄目な自分を変えなくてはと思うようになりました。今思えば、自分の心の中に、渇きというものがあったのでしょう。

 

私は、思い切って教会を訪ね牧師に今までの歩みと体験を話しました。牧師先生は、親切に私の話しを聞いてくださいました。話しているうちに私は自分の罪と、神様の愛を牧師先生を通して示されました。自分というものが分かってきました。一人でいるときには、この様なことが分からなかったのです。不思議なことです。罪がどのようなものか判って、自分の心に示されました。心から神様の前に悔い改めました。伊丹教会の裏に私が、住んでいた社宅がありました。家族が寝静まった頃2階の部屋で、涙ながらに祈りました。

お金を貯めることや、仕事をがんばって偉くなり、人を見返すようになりたいという思いの中からは何一つ、神の前に喜ばれるものはありません。何でも自分が中心で大切にされなければ気がすまないようなことでは、神様のお言葉は届きません。

今までは、聖書を読んでも判らず、全く心に響かない御言葉が、心を打つようになりました。聖書のどこを開いても、輝くように御言葉がちりばめられています。なんで今まで自分は回り道をしていたのだろうか。と自分の愚かな歩みを示されました。

 

【神様はいつも私と共に】

人と争ったり、喧嘩をしたりしたときにも、神は私に呼びかけてくださっていたのです。先輩に殴られたときにも、神様が私に注意をしてくださったのです。伊丹の工場へ戻り、若い連中とお酒を飲んで、喧嘩になり、殴り合いをしました。その次の朝、職場で何と気まずい思いをしたことか。お互いに、ばつの悪いなんとも言えない気持ちでした。そのような時に、主は私の心に、ばつの悪さを通して働きかけてくださっていたのです。わたしは心の渇きがありました。何かを求めていました。

 

渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。主イエスは祭りが最も盛大に行われている終わりの日に人々に呼びかけられています。この声は、今多くの人々に呼びかけられています。私たちがまことのイエス様を知らなくても、わからなくてもイエス様はこうして全ての人に呼びかけられています。残念なことですが、多くの人々はイエス様の声に聞こうとしません。それは、多くの人たちは、この世のことで耳がふさがれて主の御声が聞こえないのです。多くの人々は眼が神様に向いていません。彼らの目は、この世のことばかりです。

 

【苦しみにあったことは、私に良いことです】

神様はそのように、この世のことばかりに夢中になっている私たちに、様々な、ある時は、悲しみ、苦しみ、絶望、悲哀をお与えになられます。詩篇119:71「卑しめられたのはわたしのためによいことでした」とあります。

前の、口語訳の聖書では、「苦しみにあったことは、私に良いことです。これによって私はあなたのおきてを学ぶことが出来ました。」このような試練は、神様がどれほど私たちを愛して下さっているのかを示しておられるように思います。神様が私たちを抱きしめて、ゆすぶって早く立ち直りなさいと、神様の元へと招いてくださるように思えます。確かに、試練にあってそれで気がついて、神様に立ち返ることがあるものです。

 

多くの信仰者も私たちと同じように、生きてゆく中で、様々な試練にあい、悲しみや苦しみにあったに違いありません。

 

でも、主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです(1コリント15:58)。

このような御言葉によって私たちは慰められます。どのようなことも、キリストにあるならば、私たちの過去の失敗も、苦労も、回り道も、悲しみや苦しみも生きるのです。とても私は感謝しています。

 

【主にあって全ては感謝に】

キリストにあるならば、私たちの過去が、どのような罪であっても、恥ずかしいことであれ、失敗であれ、情けないことも、つらいことも全てが許され、良きものとされるのです。どのようなことも私たちの信仰生活の肥やしになるのです、キリストにあるならばです。私は、いつもこのような御言葉の触れるとき深い感動を覚えずにおられません。

 

【暗い過去も】

私は、あの戦争が無かったらこんなに苦しんだり、つらい思いをせずにすんだのにと思ったことがありました。引き上げ船は、アメリカのリバテイ―号という貨物船で亡くなられた方がおられました。水葬といって、遺体を布で包んで、海へ落とすのも見ました。恐ろしいことでした。でも、その戦争が私を、教会へ導いてくださいました。

 

【聖霊の水】

「わたし(主イエス)のところに来て飲みなさい」と言われます。飲むとは聖霊の水のことです。主イエスを信じて聖霊をいただくならば、聖霊は私たちの心の中で豊かに働いてくださり、ますます、主イエスを信じて神のご栄光のために進んで献身の思いを強くされます。これが本当の人の生き方です。まことの人間としての生き方です。

 

【聖霊のお働き:その1】

聖霊は、実に多くの働きをされます。一番大きな働きは、私たちを悔い改めへ導き、父なる神様と正常な関係を作ってくださるということです。不思議なことですが、神様との関係が正常にされると、回りの職場での人間関係も次第に良くされます。私は、何とか努力して自分の、欠点を直そうと努力しました。でも、欠点は表面的には直ったように見えても心の深いところでは、直っていません。矢張り、根本で直してくださるのはイエス様の御霊であると思います。

 

【その2】

2つ目に、人生の目的が、この世のことから、神様へ向かって歩むようにされるということです。今までこの世の自己中心な思いが、神へむけられて、もはや自分のためではなく、自分のために死んで下さったイエス様のために生きるようにされることです。壮大な人生を歩むようにされます。小さいことに捕らわれない、大きな目標に向かって歩むようにされます。

 

【その3】

3つ目には、聖霊をいただいた者は、信仰生活を続けることによって、聖霊の実を結ぶようにされるということです。聖霊の実とは、ガラテヤ5章22「御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

 

【聖霊が働かれるには】

よく言われる悔い改めは、自分の心の中心にある自己中心的な思いを排除して、主イエスが真ん中にいて下さるようにするということです。自分の考えや思いは心の隅に寄せて、中心は主イエスがどんと心を占領してくださるように悔い改めることです。こうすることによって自分の主人は主イエスである、自分はその僕に過ぎないという自覚で歩めば、聖霊が豊かに私たちのうちに働いてくださいます。そんなことをすれば、自分が自分で無くなるという思いが出てくるものですが、決してそうではありません。かえって、聖霊は私たちに与えられている賜物をさらに豊かにしてくださいます。

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられる」(マタイ25;29)とあります。真に聖霊の働きは素晴らしい。

 

聖霊をいただいた人は、持っていた賜物が豊かにされてますます、輝くようにされます。

主イエスを信じて、主イエスの水を、命の水を、これを飲むものは、このようにますます豊かにされます。

 

【ほどほどでなく】

私の母は、教会もいいけれど、ほどほどにしておきなさいよと忠告してくれました。

この様な考えは、多くの方々が思うことです。あまり熱中してはいけない、ほどほどに距離をおいて信じなさいというのです。これに対して、カトリックの神父の百瀬という司祭が「あなたは本当に人間の生きる意味というのを知っていますか。本当に自分の情熱を注いで追い求めたいという価値のある素晴らしいものを見出していますか。」といっておられます。自分の生き甲斐をいろいろ持っておられるでしょう。人のために奉仕をして、喜ばれることは素晴らしいことです。自分のためにもなるし、人様に喜ばれれば、自分もうれしい。働き甲斐にもなります。でも、それは所詮、人間主義の一つです。それが決して悪いことではありませんが、でもそれだけでは、究極的には必ず、破綻します。どんなに人に尽くしても、感謝されないこともあるし、自分の思うような結果が得られないことがある、そこに不満やいらだちが生まれる。人に対して報いを求めるようなことは、必ず破綻するのです。

 

イエス様の御言葉は私たちにとって最も、根源的なことです。人の生きて行く、最も中心的、生きるか死ぬかの問題です。ですから、ほどほどには出来ない。距離をもって歩むなどということは許されないです。

ヨハネ黙示録3章15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい、」

 

イエス様のもとで、水を飲むものは、豊かな人生を歩むようにされます。それは、私たちが考えているような豊かさを超えています。イエス様は私たちの必要なものは全てご存知です。衣食住全ての必要は私たち以上にご存知です。

 

【罪の洗い】

何故、イエス様はこのように、聖霊の水を飲みなさいといわれるのでしょうか。それは、悲しいことですが、私たちの罪の問題です。聖書はすべての人は、罪のゆえに神の栄光を受けられなくなっており、と述べています。罪という問題は、人にとって大問題です。これを克服することは出来ない。人の力で罪を抑え込むとか、乗り越えるとか、犯さないですむとか、罪に打ち勝つとか出来ないのです。ここに人の悲しい現実があります。真の神様から離れた人は、自分の欲望を神として、欲望を求めて歩むものとされました。聖書は「おのが腹を神とし」てとあります。

 

【罪の現実とその解放】

歴史を見ても罪の問題でどれだけ多くの人が悲しみを経験したでしょう。神との正しい関係を失った人は、自分の欲望に生きてその結果は、悲惨なものでした。世界で見れば、幾多の戦争、個人で見れば自殺や人間関係の困難さ、家族では、親子が争い、殺しあう、憎しみ、悲しみどれだけ多くの人々が、胸がつぶれるほどの悲しみを経験したことでしょうか。何千年と歴史を重ねても、この様な悲惨はなくなりません。

 

私が、20歳のころ、大阪に親友がおりましてよく遊びに行きました。夜遅く阪急の梅田で何度か、酔っ払いを見ました。そのほとんどのおじさんは、独り言で愚痴を言っているのです。何の不平か、不満か、恐らく職場の上司の悪口をぶつぶつといってるのでしょう。それを見て、わたしは、ああ情けない自分はこの様な人間にはなりたくない、と思いました。しかし、その自分も、職場での悪口を言ったり、職場で争ったときには、寝るときに、あの野郎、今度は痛い目に合わしてやるぞとか思って寝たことがあるのです。今思えば、酔っ払いのおじさんと自分はどれほど違うのでしょう。

 

聖霊の働きの素晴らしいのは、私たちを罪の中より、解放して、罪に勝つようにされるのです。弱い私たちを罪の誘惑より守り、やがて打ち勝つようにしてくださいます。以前の私は弱さや欠点がとげとげしく心の中で自分を責めていました。自分は駄目な人間だと否定的に生きていました。そのような者が、聖霊によって聖めをいただきました。

「よくよくあなた方に言っておく、だれでも、水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)。

38節「私を信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

【生きた水が流れ出る】

私たち主イエスを信じるものは、同じように生きた水が流れ出るようになるのです。

主イエスのところで聖霊の水を飲むも私たちは、教会へ導かれてやがて新しくされ、私たちの心から、聖霊が豊かに流れ出るようにされます。

 

生きた水を飲むものは、私たちのうちに、強力な発電機を持つようなものです。聖霊をいただいた人は、新たな歩みを始めるようにされます。

古い自分はもう過去のものです。新しい歩みを始めることが出来ます。

 

新たな歩みを始めた人は必ず、感謝に溢れた歩みをするように導かれます。その人は、主イエスの証人としてまわりの人々に証しをするようにされます。

 

って十字架上で死んでくださった主イエス様の命の水を飲むものは、真のいのちに生きるものとされます。

 

【主イエスから来る聖霊】

ヨハネ19章34「しかし、兵士の1人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」と。これは、イエス様の聖霊が流れ出ることを意味しています。

 

聖霊の働きは創世記の初めにも書かれています。聖霊は父なる神とイエス様と共に、世の初めから働かれたと私たちは学んでいます。主イエスが、ここで十字架で死なれ、ご復活し、天に昇られて、新しい新約の時代が始まりました。今までの聖霊の働きはより信徒一人ひとりの上に豊かに与えられる新約の時代になりました。新約に生きる私たちは、特別に聖霊の働きが豊かに与えられていることに感謝したいと思います。それは、主イエスが自ら十字架で死んで下さることによって、勝ち取った尊い宝です。この大切な、いのちの水を今日も戴いて豊かに人生を歩みたいとおもいます。(おわり)

 

 

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