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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

主はわたしの嘆きを聞き

ウイリアム・モーア

2008.4.6

 

詩編6篇1−11

1:【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】

  2:主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。3:主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ  4:わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。5:主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。  6:死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。7:わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 8:苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。  9:悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き10:主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。11:敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

 

【重い病に苦しむダビデ】

今日、与えられた詩編第六編は重い病に苦しんでいる者の嘆きと信仰を力強く表現します。その病気の名前は分かりませんが、イスラエルの王ダビデはこの御言葉を通して遠慮なく自分の心を主なる神に打ち明けました。「主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」とダビデは必死に神に祈りました。肉体的な苦しみは結構酷かったのだと思います。「わたしの骨は恐れ」と言う表現はその痛みを現します。又、その苦しみの故にダビデは寝る事がなかなか出来ませんでした。

7節を見ますと、こう書いてあります。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」

 

実は、ダビデは自分の命が危ないと信じ、神の救いがなければ近いうちにきっと死ぬだろうと思いました。

 

【ダビデの恐れ】

5節と6節を見ますとダビデの恐れが十分に伝わって来ます。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしくわたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」と記されています。

 

重い病気とその苦しみを経験した者ならばきっとダビデが言っている気持が十分理解出来ると思います。ダビデは自分の命が危ない事で恐怖を覚え、心からその気持ちを神に告白しています。

 

ダビデは肉体的苦しみだけではなく、それに伴って精神的と霊的苦しみもあったのです。何故なら、彼はその病が神からの罰だと思い込んでいたからです。「主よ、怒ってわたしを責めないでください、憤って懲らしめないでください」と主に祈りました。

 

【ダビデの罪】

恐らくダビデ王は自分の罪を意識しました。彼は国の敵と戦って英雄になりましたが、決して罪の無い人ではなかったのです。ダビデは国王として自分の権力を悪用した事がありました。又、父親として彼は自分の子供達をちゃんと監督しなかった為、大きな悲劇を起こしてしまいました。ですから、ダビデはその病気が自分に対する神の怒りの表れではないかと思いました。つまり、神はその苦しみを持ってダビデの罪を厳しく罰すると言う恐れがあったのです。

 

そう言う恐れは私達人間には珍しくはありません。人間は昔々から不幸と苦しみに遭うと、それは神の罰、あるいは神々の罰と受け取りました。悪い事をしたら、必ずいつか、不幸を通してその報いを受けなければならないと言う考えなのです。ダビデもそう言う恐れで恐怖を感じました。

 

【ダビデの敵対者】

神の裁きを受けると言う恐れだけではなく、ダビデのライバルと敵はその病を用いて彼を悩ましました。9節を見ますとその人々は「悪を行なう者」と呼ばれています。「悪を行うもの、皆わたしを離れよ」とダビデは彼等に言いました。つまりその敵はダビデの苦しみを見て大喜びました。「そうなったのも当然の運命だ。神こそは彼を苦しめている」とお互いに言ったでしょう。ダビデの成功と権力を羨んでいたので、彼等にとって王の病は何よりも嬉しい事でした。恐らく彼等はダビデに代わって政権を握りたかったので、王の死を楽しみに待っていました。又、多分国民の中でダビデについて色んな噂を立てて、皆は彼がもう死んだかのように扱いました。とにかく、ダビデはその事を聞くととても惨めになりました。

 

重い病気で肉体的と霊的に苦しんでいるダビデは、又、敵から自分の不幸を食い物にされました。私達はその同じ立場だったらどうしますか。絶望して、苦しみながら、嘆きのあまり頭がおかしくなって、自分の死を待つしか何一つ希望がないようですか。全てを諦めるか、あるいは、自分の苦しみと恐れを強く抑え、その気持ちを否認し続けるかなのですか。

 

【ダビデの逃れ道】

しかし、ダビデは苦しみと恐れの中にいても他の道を選びました。彼は愛する神に向かって自分の気持ちを表現しました。そして、その祈りを聖霊の導きによって書き記して、今日私達が学ぶ御言葉詩編第6編になりました。ですから、私達は病気と恐れと苦しみを味わう時、この御言葉は私達の祈りの良い手本になります。

 

【信仰と祈りによって】

実は、ダビデは自分の恐れと苦しみを神に表現すると、不思議に他のものが溢れるように思い出されました。それは信仰でした。信仰がなければ神に祈らなかったのでしょう。特に信仰がなかったら、自分を罰すると思った神に祈りで近づく勇気がなかったと思います。しかし、彼は信仰を持っていたからこそ、「主よ、憐れんでください。主よ、癒して下さい。わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください」と祈る事が出来ました。

 

【詩編23篇】

青年の時からダビデは危機の中でも神の御守りと慰めと力を豊かに経験しました。詩編第23編はその神との経験が豊かに表現されます。この御言葉は多分何回も聞いた事がありますが、新たに聞いて下さい。

 

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えて下さる。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせて下さる。命のある限り恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」

 

【主の憐れみ】

死の陰の谷を行くダビデは信仰を通して二つのことを掴みました。第一に主の憐れみを信じたのです。詩編で「憐れみ」と訳されたヘブライ語の単語は「チャナ」です。その元々の意味は「身を屈(かが)めること」です。つまり、万物の造り主神は御自分の傑作である人間の苦しみを見ると、身を屈めて助けて下さると言うことです。全ての事を見る憐れみ深い神は人間の苦難を無視しないのです。どんな時でも共にいて、苦しみを耐えるように助けて下さいます。ダビデはそのような神を心から信じ頼りましたので絶望しませんでした。新たな力を得て神の救いを待ちました。

 

【主の慈しみ】

ダビデは信仰を通してもう一つの事を掴みました。それは神の慈しみです。「あなたの慈しみにふさわしくわたしを救ってください」と祈りました。慈しみと訳されたヘブライ語の単語は「ヘセド」です。ヘセドは神の一方的愛です。特に、主から受けるに値しない愛です。ダビデは自分の罪をよく知りました。自分の善を持って神の愛を勝ち得る不可能性もよく分かりました。しかし、信仰を通して、罪人であるダビデは神の愛を信じ、神の救いを待ち望みました。

 

【生涯の主人公】

ダビデは人生の主人公を自分自身に置くのではなく、神に置きました。人は皆罪と過ちを犯します。色んな後悔する事もあります。しかし、ダビデのように私達の人生を神中心に起き、真に神を主として受け入れ、神の御前に私を捧げる時、神が働いて下さり救いの道を備えて下さいます。その道こそが希望の道であり、私達の問題を解決する唯一の道であります。

 

 

【主なる神の御性質】

神は律法をモーセに授けた時、御自分をこのように現しました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背(そむ)きと過ちを赦す。」(出エジプト346

 

苦しい時、ダビデはその神の慈しみを掴んで心から信じたのです。試練が来るとそれは神からの罰と思い込む傾向がありますが、私達の神は罰する神よりも憐れみと慈しみ深い神なのです。私達はその神に仕え信じます。

 

【主イエス・キリストを模範として】

主イエス・キリストは十字架に掛けられた間にこのように叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」しかし、息を引き取られる直前に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声でおっしゃいました。試練を受ける時、私達はこの主イエスの信仰を模範とするべきです。自分の恐れと苦しみを父なる神に表現して、その助けを祈ります。そして、慈しみ深い愛である神の約束を信じます。

 

【主イエス・キリストにより】

その神は御自分の身を屈めて、苦しみの中にいる私達を慰め助けてくださいます。実は主イエス・キリストを通して神は御自分の身を屈めるだけではなく、人間になり私達と共に宿りました。私達の悩みと病を経験され、ついに全人類の救いの為、十字架で私達の罪を負って下さいました。イエス・キリストを見ると神の憐れみと慈しみと愛もはっきりと現しています。

 

又、イエスの贖い死のお陰で神は主を信じる私達を、犯した罪の為に罰する事がありません。主は私たちに代わってもう既にその罰を十字架で払って下さったからです。神の一方的憐れみと愛の為、私達はイエスの義を頂きました。ですから、勇気を持って御自分の子供として神の御前に立つ事が出来ます。

 

ダビデは信仰に支えられこのように自分の祈り、詩編第6編を閉じます。「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき、たちまち退いて、恥に落とされる。」

どうか私達一人一人もどんな時でもその同じ信仰が与えられますように祈っています。(おわり)

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