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いつまで、主よ

ウイリアム・モーア

2009.1.11.

 

 

詩編13編1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

  2:いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

  3:いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

4:わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように5:敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。

6:あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。

 

【リンカン大統領の悩み】

恐らくリンカン大統領はアメリカの全ての大統領の中、最も偉大な指導者でありました。特に南北戦争の大変な危機の間、リンカン大統領は国の統一を守り、そして戦争後、国の傷を癒す為、敗北した南部に対して寛大な政策を採用しました。

 

リンカン大統領は南北戦争では非常に悩みました。同国民の間に70万人程の戦死者があって、戦傷者の人数も酷かったのです。そして、その戦争の悩みの上にリンカン大統領は更に個人的な悩みもありました。その南北戦争の間に11歳の最愛の息子ウィリー君が腸チフスになりました。ウィリー君が 一ヵ月間病気と戦かっている間、リンカン大統領と奥さんはその病床から殆ど離れませんでした。目撃者の話によりますと、大統領は寝ずに息子の看病をしていて、繰り返し繰り返し、このように嘆いたそうです。「これは一生の一番辛い試練だ。どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろう。」そして遂にウィリー君が息を引き取ると、悲しみに沈んだリンカン大統領は泣きながらこう言いました。「私の可哀想な息子よ。この世ではあんまり善い子だったので、神様がウィリーを天に召されたのね。天国はこの世よりもっと良い所だと信じていても、我々はどれほどこの子を愛したか。死なれたら、辛くてたまりません。」

 

私たち皆は子であり、親であるので、このリンカン大統領の気持ちが十分分かると思います。そして、いつかは誰でもリンカン大統領が経験した試練を受ける事になると思います。それが重い病気や、深刻な家族の問題や、経済的危機や、愛する者の死や、砕かれてしまった夢などのようなものかもしれませんが、いつか私達にも直面する時が来ます。そして、その霊魂の暗闇に私達はリンカン大統領のように「どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろうか」と神に叫びます。

 

【ダビデ王の悩み】

イスラエルの国王ダビデにもその時がありました。実は、彼の劇的な生涯には何回もその失望と嘆きの時がありました。そして、今日与えられた御言葉はその一つの時のダビデ王の気持ちを表現します。ダビデ王はこのように嘆きました。「いつまで、主よ、私を忘れておられるのか。いつまで、御顔を私から隠しておられるのか。いつまで、私の魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵は私に向かって誇るのか。」

 

【ダビデ王の生涯の暗闇】

この深い嘆きをもたらした事件や問題については私達にははっきり分かりません。聖書にはその背景が教えられていませんが、ダビデ王は自分の人生にはいくつかの霊魂の暗闇の時がありました。

 

【王サウロの迫害】

つの可能性は国王になる前にダビデは当時のイスラエルの王サウロによって迫害されました。サウロ王は国民の中のダビデの人気を恐れて、どうしてもダビデを消したかったのです。ですから、サウロ王の軍が常にダビデとその家来を追跡して、捕えようとしました。何回もダビデの命は危なくされたのです。いつも追われる大変な生活が長期間続くと、精神的にも肉体的にも非常に疲れて来て、「いつまで、主よ」と嘆く事は十分想像出来ます。

 

【息子アブサロムの謀反】

あるいは、自分の息子アブサロムが謀反を起こして父のダビデ王に代わって王権を獲うとした時、ダビデはこの詩編第13編を書いた可能性もあります。アブサロムは大きな罪を犯したにもかかわらず父ダビデは息子アブサロムにに危害を当えないようにと自分の軍に命令しましたが、アブサロムは結局ダビデの家来によって殺されました。息子の為に嘆きに沈んだダビデ王が、「いつまで、私の魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか」と言っても、ちっともおかしくはありません。

 

【重い病気】

また、詩編第13編の背景の他の理由と言えばダビデ王は重い病気に襲われた事です。4節を見ますとそういう状態も考えられます。こう記されています。「私の神、主よ、顧みて私に答え、私の目に光を与えて下さい、死の眠りにつく事のないように。」

 

とにかく、ダベデ王は大変酷い目にあって、自分の嘆き、自分の気持ちをとうとうと神に述べました。ダビデ王の嘆きを詳しく見たいと思います。先ず彼は「いつまで、主よ、私を忘れておられるのか」と叫びました。苦しみの中にいる彼は自分が神によって忘れられていると恐れました。苦難があまり酷くて、あまり長く続いたので、主はダビデの存在をもう心に懸けていないかと心配しました。なぜなら、もし愛する全能の神がダビデの事を覚えていたら、きっと彼を助けて、苦難を和(やわ)らげて下さると彼が仮定していたからです。そして、次は同じように、「いつまで、御顔を私から隠しておられるのか」とダビデは主に尋ねました。つまり、神はダビデの苦しみを無視していると彼は思ったのです。「いつまで私を忘れ、いつまで私の苦しみを無視しているのですか」と神に嘆きました。「苦難はあんまり長いので私はもう耐えられない」と思い煩いました。

 

【神に対する苦情は許されるか】

みなさん、ダビデ王の気持ちが分かりますか。いくら祈っても主にはあなたの声に耳を傾けていないような経験がありますか。神が遠く離れていて、あなたの事について関心を持っていないような気持ちが分かりますか。この2節は結局神に対する苦情になります。「神よ、どうして私を助けて下さらないのですか。長く苦しんだのに、私の叫び声を無視して、あなたは私の為に何もしません。いつまで、主よ。」

 

愛する兄弟姉妹、神に対してそのような苦情を言っても良いのでしょうか。小さくて罪深い私たち人間は主にそのような激しい苦情の言葉を言うと大変失礼ではありませんか。愛する神は完璧で誤りがありません。ですから、私たち人間は主の遣り方と振る舞い、主の判断を批判するはずがありません。つまり、ダビデ王が神に言った事は罪ではないでしょうかと問い掛けます。

 

しかし、決してそうではありません。ダビデ王は正直に自分の気持ちと疑問を主に表明しました。霊魂の暗闇の中、彼は神について理解出来ない事があって、それを言葉に表しました。また、苦難の為に弱くなったダビデはその言葉を通して神の助けを祈りました。彼は黙ってはいられませんでした。「いつまで、主よ、私を忘れておられるのか。いつまで、御顔を私から隠しておられるのか」と心から主に問い掛けました。

 

【主に全ての思いを】

ここでダビデ王は神の遣り方に対して自分の正直な質問を表明しますが、決して主に背を向けませんでした。また、彼は神を呪って信仰を捨てた訳ではありません。却って、ダビデは信仰者としてその言葉を叫びました。もし彼が信仰を捨てていたら、神に語る言葉は何もなかった事です。酷い目に会って、信仰と神との関係を捨てるどころか、神に向けて自分の正直な質問を口にしました。つまり、信じながらダビデは主の遣り方について自分の質問をしました。

 

苦難の時、霊魂の暗闇の時も、私達はダビデ王のように、神の遣り方を理解出来ず、疑問を持っていても、続けて神を信じ、神に大いに頼るべきです。不信者ではなく、信仰者として神に問い掛ける訳であります。そうすると、失望から逃れる道が与えられ、ついに喜びと希望が新たに経験出来ます。

 

【自分の気持ちを偽らずに】

3節にダビデ王は更に自分の気持ちを表現します。「いつまで、私の魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵は私に向かって誇るのか」と嘆きました。彼は自分の気持ちを否定しませんでした。自分にある思い煩いと深い悲しみを正直に認めました。そして、敵がダビデの惨めな状態を見て誇った事は自分にとって大変悔しい事だと正直に認めました。彼は気持ちを否定し抑えるのではなく、全てを神に吐き出しました。信仰者としてダビデは一人でその大変な重荷を負う必要性がありませんでした。主に自分の気持ちを全て表す事によって、重荷を下ろしました。

 

私達も自分の気持ちを神に分かち合うべきです。主はもう既に私達の気持ちが分かりますが、表明する事は大事であります。愛する親のように主は私達の唇から私達の心配と悲しみ、私達の恐も聞きたいのです。そして、その事を主に語る事によって私たちは楽になります。

 

【祈り】

不思議に信仰者のダビデ王は自分の疑問と気持ちを正直に主に打ち明けてから、祈る事が出来ました。彼は自分と神との関係を新たに確認し、楽になり、信仰を持って主に祈りました。4節の所を見て下さい。「私の神、主よ、顧みて私に答え、私の目に光を与えて下さい、死の眠りに就く事のないように敵が勝ったと思うことのないように、私を苦しめる者が動揺する私を見て喜ぶ事のないように」との祈願をダビデは込めました。信仰を持ってダビデは自分の最も重要な願いを主に祈る事が出来ました。主は彼の事を忘れませんでした。神は御顔を彼から隠していませんでした。その事は祈りを通して悟られました。

 

【主はわたしに報いて下さった】

私達も霊魂の暗闇の時、失望の時、悲しみに沈む時が誰にでもあります。そういう時はダビデのように神に祈る事が出来ます。そして、祈りを通して神の慰めと希望、神の素晴らしい御臨在を豊かに経験出来ます。

 

主に祈ってから新しい平安と希望がダビデ王から湧き出て来て、主にこう言われました。6節を見て下さい。「あなたの慈しみに依り頼みます。私の心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います。『主はわたしに報いて下さった』と。」

 

酷い目に会って苦しんでも、ダビデは主に頼り、神の救いを心から信じ、主の恵みの故に賛美を歌う事が出来るようになりました。

 

愛する兄弟姉妹、どうか苦難の時、私達もダビデを模範として、自分の気持ちを正直に愛する神に表明しましょう。そして、どんな事があても信仰をしっかり掴んで、神のみから、私達の慰めと希望、私達の救いと勝利を得る事が出来ますように。さらに、ダビデのように、神の慈しみに依り頼み、御救いに喜び踊り、主に向かってこう歌います。『主はわたしに報いて下さった』と。(おわり)

    

 

 

          

 

 

 

 

   

 

 

 

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