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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

井戸端会議

ウイリアム・モーア

2009.4.26

詩編42篇2−3a2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

ヨハネによる福音書4章◆イエスとサマリアの女

  1:さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2:――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3:ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4:しかし、サマリアを通らねばならなかった。5:それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6:そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

  7:サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8:弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12:あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

 13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17:女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18:あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

 24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

【渇きの記憶】

皆さん、喉が大変渇いた覚えがありますか。夏にお庭や畑で働いて汗をかくと、冷たい麦茶はとても美味しいですね。でもそれは本当の渇きではありません。もし本当に渇いたら、飲む事しか考えられなくなります。喉だけではなく、口も渇いて来て、倒れるかと思う程の渇きの体験がありますか。

 

私はその体験が一度ありました。それは12歳ぐらいの時なんですけれども、父と一緒に山の奥の小屋に上る時でした。夏の一番暑い時期、空に雲一つない焼きつくような日でした。道の先に泉があると思ったので、水筒の水を全部飲んでしまいました。眩しい日の下に山を登りながら、その泉の爽やかな水に憧れました。ようやく泉の所に着いた時、すぐ水のもとに行って、飲もうと走って行きました。しかし、冷たい湧き出る水の代わりに、乾いた石と泥しか残っていませんでした。やはり長い間雨が降らなかった為、泉の水が枯れてしまいました。言うまでもなく、私は大変がっかりした。しかし、水が沢山ある山の頂きまでには、まだまだ時間がかかりましたが、山の上に向けて頑張るしかありませんでした。渇いた口を少しでも楽にさせる為、父が小さい石を拾って口の中に入れて下さって、舐めるように言われたけれども、それはあんまり効果がありませんでした。そして、今度は足が疲れて来て、痙攣を起こして、殆ど歩けなくなりました。

 

皆さん、笑ってしまうかも知れませんが、私は山道の中で死ぬかと想像しました。しかし、父が側で助けて、何とかして山の頂上に着きました。すぐその時、素晴らしい水を一杯飲む事が出来ました。それだけではなく、頭も足にも爽やかな水を掛けました。その瞬間まるで生き返るような気がしました。その40何年程前の事は今も生々しく覚えています。

 

【霊的な渇き】

先程読まして頂いた詩編42編は自分が死のうかと思う程渇いた人の作品でした。しかし、その方の渇きは私のような水の為の渇きではありませんでした。彼の渇きは霊的な渇きでした。と言うのは、その詩編を書いた人物は唯一の全能の神との交わりと慰めを心から憧れました。「神よ、私の魂はあなたを求めよ。神に、命の神に、私の魂は渇く」と心の最も深い所から叫びました。

 

【誰が渇きを癒すか】

実は、この詩編を書いたヘブライ人は戦争の故に国から追放され、外国の辛い生活の中で神様の助けと交わりを求めました。敵の偽りの偶像を拝んでも何も助けになりませんでした。つまり、人間の手で作られた神々は空しくて自分の魂を全然満足出来なかったのです。ですから唯一の生ける神との交わりを渇いているように憧れました。

 

【神を求める魂】

考えて見ますと、それは当たり前の事です。何故なら、人間の創造主である唯一の全能の神は私達を造った時、その憧れを私達の最も深い所に与えて下さいましたからです。そして、真の神との交わりでその憧れが満足されなかったら、私達は心に何か欠ける事を感じます。聖書によりますと、神様は私達をそのようにお造りになりました。

 

【シカルの町で】

主イエスももちろんその真理がよく分かりました。今日の新約聖書の個所を見ますとそれが明白になります。ある日、主イエスは旅の疲れの為にサマリヤ地方のシカルと言う町の井戸の側に休みました。

 

【サマリヤの女と主イエス】

そうすると、一人のサマリヤの女の人が水を汲みに来ました。汲む物を持っていなかったイエス様はこの女の人にお水を頼みました。そしてびっくりした彼女はイエスにこう答えました。「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と言うのは、信仰の違いの為に昔からユダヤ人はサマリヤ人を差別して、出来るだけ彼等との交際を避けました。実は、ユダヤ人から見るとサマリヤ人は真の信仰から離れた異端者でした。それ故、もしサマリヤ人から水や食べ物などを受け取ったら、ユダヤ人が汚れると信じたのです。とにかく、主イエスはユダヤ人として、サマリヤ人、特にサマリヤ人の女の人と話すのは驚くべき出来事でした。すると、イエスはその女の人にこのように答えられました。10節を見て下さい。「もしあなたが神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのが、誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えた事であろう。」

 

【サマリヤの女の誤解】
サマリヤの女の人はイエスを誤解して、またこのように言いました。「主よ、あなたは、汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」主イエスは井戸を見ながら彼女に言われました。「この水を飲む者は誰でも、また渇く。しかし、私が与える水を飲む者は、決して渇かない。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」すると又、彼女はまだイエス様を誤解してこう答えました。「主よ、渇く事がないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」そうです、彼女はイエスが言われた水とは霊的なものである事がまだ悟ってませんでした。

 

【水を得る苦労】

ところで、イエス・キリストの時代の人にとって水が特に貴重なものでした。イエス様の国イスラエルは、水に恵まれている日本とは随分違います。向こうでは、イエスの時代も、現在も雨があまり降らない国です。そして、主イエスの当時、水道がなかったので、水を運ぶのは大変な苦労でした。サマリヤの女の人と同じように皆は村の井戸へ行ってバケツとロープで水を汲みました。井戸が深いので、重い水を汲むとすぐ疲れてきます。さらに、水を家まで運ぶ事も重労働でした。特に家が井戸から遠く離れた場合、毎日水を運ぶのは辛かったのです。

 

【永遠の生きた水とは】

だからこそ、主イエスが「永遠の生きた水」の事を仰ると、サマリヤの女は、それが文字通りの特別な無くならない水だと思って、イエスにその不思議な水を頼みました。毎日井戸に汲みに来なくても良いなら、生活が随分楽になります。少しでも休む時間があれば、どんなに幸いな事だろうと思ったのでしょう。そのように彼女はイエスの霊的な意味が理解出来なくて、それは日常生活を楽にさせる水だと思い込みました。ですから、御自分が誰かを彼女に悟らせるように、イエス様は話題を変えました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と彼女に言いました。「私には夫はいません」と答えると、イエスは彼女にこのように言われました。「夫はいませんとは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れそっているのは夫ではない。あなたはありのままと言った訳だ。」

 

【メシヤはわたしである】

全く初めて会ったそのイエスが自分の個人情報が語られると、彼女は驚きました。イエスがただ人間ではないと悟りましたので、永遠の生きた水の意味が少しは理解出来るようになりました。「私はキリストを呼ばれるメシヤ(すなわち救い主)が来られる事は知っています。その方が来られる時、私達に、一切の事を知らせて下さいます」と彼女が言いました。そして、イエスは彼女にこのように答えられました。「それは、あなたと話をしているこの私である。」そして、彼女だけではなく、多くのサマリヤ人もイエス・キリストを神様からの救い主として信じ、心を満たす永遠の生きた霊的な賜物を受けました。それは井戸の水よりも遥かに素晴らしい物だと皆が悟りました。

 

【霊的渇きを癒す】

イエス・キリストが与える生きた水はいったい何の渇きを満たしますか。簡単に言えば、誰でも神様との善い関係がないと、霊的渇きを経験します。先に言いましたように、神が御自身との交わりの為、また私達を祝福する為に、人間をお造りになりました。そして、私達は愛する全能の神を知らなかったら、従わなかったら、霊的な渇きを感じます。神は私達をそのように造られたからです。

 

【十字架の贖いによって】

しかし、どういうふうにその霊的渇きを満たしますか。私達は自分の意志と力で神との善い関係が得られますか。例えば、善行をつんで主の好意を得られるのでしょうか。いいえ、罪の為に人間が神から遠く離れて、いくらと努力しても神との善い関係を結ぶ事は出来ません。その理由は罪人である私達は完全な神の御前に出る資格が全くありません。神は罪を憎むので私達は裁きしか期待出来ません。しかし、イエス・キリストは御自分の十字架の贖い死を通して、私達の罪の罰を御自分に受けて下さいましたので私達は神との救い関係に入りました。全く罪の無いイエスは御自分の死を持って、私達の罪を贖って下さいました。神の御子イエス・キリスト以外にはその事が出来ません。そして、神は私達の受ける永遠の死の罰の代わりとしてイエスの死を受けて下さいます。このように私達は神様の御前に出る事が許され、神様との直接の交わりが許されます。実は、私達は神様の赦され愛された子供のようになり、永遠までにその素晴らしい関係が続きます。その関係のみが私達の霊的渇きを満たして下さいます。

 

【生きた水とは】

イエス・キリストはサマリヤの女の人に「生きた水を上げる」と約束して下さいました。主を通して造り主である神との善い関係が出来ると、霊的渇きが満たされます。そして、その満足感はいつか無くなる満足ではないのです。主イエスが与えてくださる生きた水は永遠に私達の霊的な渇きを癒して下さいます。

 

 

【神の賜物です】

愛する兄弟姉妹、その賜物をどう得ますか。決して努力では得られません。全く神の賜物ですから、主は自由に授けて下さいます。私達はただ心から罪を悔い改め、そして、イエス・キリストを救い主として信じ、御自分の教えに従う事です。そうしますと、神様の比べられない恵み、永遠の霊的生きた水を戴けます。

 

【ありのままで】

今、誰かがこのように考えているかも知れません。「神の恵み、永遠の生きた水は本当に素晴らしい事だと思いますが、私のような人も頂けるのでしょうか。」

 

サマリヤの女の人の状態を覚えて下さい。ユダヤ人の目から見ると、彼女はその当時の社会では高く評価された人ではありません。彼女は差別された異端者であり、6人程の男と同棲した事がありました。しかし、主イエスは彼女をありのままで受け入れて救って下さいました。福音とはありのままで主イエス・キリストを私の主であると告白する全ての人に惜しみなく与えられるのです。

 

【主イエスによる永遠の命】

愛する兄弟姉妹、皆さんは今の生活に満たされていますか。もしあなたの心に何か渇きを感じたら、神の恵みと交わりが必要であります。イエス様の湧き出る賜物以外には私達を満たすものはありません。主の救いは湧き出る泉のように私達に十分であります。愛する皆さん、どうぞ信仰を通してその賜物を受け取って、飲んで、渇きが永遠に満たされますようにお祈りします。(おわり)

 

 

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