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「永遠のいのちを得るには」

田中茂樹先生

2009.5.10

 

聖書:マタイ 191626◆金持ちの青年

 16:さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17:イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

 18:男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 20:そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 21:イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22:青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 23:イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。

 26:イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

【救世軍の社会鍋】

もう今から30年以上前の話で、私が学生だった時の話です。年が明けてから暫くしたある日、下級生のクリスチャンから相談を受けました。その学生が言うには、年末に、年末助け合い募金を募っている救世軍の社会鍋に出会ったというのです。そこで、この学生、貧しい財布の中から僅かながら献金をしたというのですが、その時、心の内に、「それだけで良いのか、全てを捧げなくても良いのか」という声が響いたと言うのですね。勿論、出来れば多くを捧げたい、だけど、全てを捧げたら、自分の生活が出来なくなってしまう。自分の中で言い争う2つの声があるのだけれど、それでも「持ち物を全て処分してでも、全てを捧げなくても良いのか」と言う声が響いて、いつまでも響いて、自分では、どのようにすれば良いのか解らないのです、という相談でした。

 

クリスチャンとして極めて真面目な学生でしたから、貧しい人に対して、隣人に対して、愛の手を差し出すべきだという思いと同時に、恐らくは、本日お読みしました「富める青年」の話が、――実は、相談に来た彼女は、富めると言うよりも、むしろ貧しい学生だったのですけれども――、彼女を悩ませているのだろうと思ったのです。

 

【貧しくならなければならないのか】

この「富める青年」の話を、私たちは、どのように読めば良いのでしょうか。私たちもまた、持ち物を全て売り払い、貧しい人々に施さなければならないのでしょうか。神の国、天の国に入るためには、私たちは貧しくならなければならないのでしょうか。

私たちの信仰の原点を見つめる意味で、本日はここから共に考えてみたいと思うのです。

 

もう一度、今度は、少し考えながら、聖書のこの箇所を共に見て参りましょう。

16節です。「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った」。「一人の男が」と言うのですから、この男は主イエス・キリストがご存じなかった男なのでしょう。見知らぬ男が、主イエスに近づいて来て言ったというのです。私は、大学1年の時に、学内で信仰を持つ方々と聖書を読むことにより、主イエス・キリストに近づきました。誰でも、いつの日か、その人生の途上で、フト立ち止まり、真剣に主イエス・キリストの下に行かざるを得ない、そうした時というものがあるのではないでしょうか。

 

この男も、そうした時だったのかと思います。彼は、その人生の途上で、真剣な眼差しで、主イエス・キリストの下に来たのです。

 

この男は、聖書を読む限り、お金もあり、社会的地位もあり、恵まれ満たされた生活をしていたようでした。しかしそれでも、主イエスの所に尋ねて来て、「永遠のいのち」の事について問うというのですから、彼は、自分の人生の歩みの中で、何か満たされぬ思いを抱き続け、そして、いのちの滅びについて、悩むところがあったのでしょう。ですから、この男は、決して好奇心や物好きで、単に知的関心で、主イエスの所に来たわけではないのです。

 

【善行は永遠のいのちの条件か】

この男は、主イエスに、永遠のいのちを求めて、「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。すると主は、「掟を守りなさい。殊に人を愛する掟を守りなさい」と言われました。これに対して、彼は、「掟は皆守っています」と答えました。

 

彼は、経済的にも社会的にも恵まれ満たされた生活をしていましたが、信仰的にも、その生活を真面目に、完全に行っていると思っていたのです。

 

彼は、自分では全く気付いていませんでしたが、しかし、それは、主イエスの眼から見てみると、そこには大きな問題があったのです。

 

【富める青年の問題点】

それは、掟、特に人を愛する掟を守る時の、彼の心の姿勢です。この富める青年は、相手の人を愛し、その愛の業として掟を実行していたという訳ではなかったのです。彼の目的は、掟を守ることにあったのです。ただ彼が、掟を全うするということのために、すなわち、彼が人から立派な人だと思われ、尊敬され、神様からも善い人間だと思われ、認めて貰うために、そうしていただけだったのです。ならば、それは、愛の業でも何でもありません。全ては、結局自分のためなのであり、しかもそれで愛の掟を守っているように見せるのですから、それは、愛と言うよりも、偽善となってしまいます。

 

これは、主なる神を愛する場合も同じです。彼は、主なる神を愛する時も、神を愛するという思いからではなく、掟を守る事により評価されることに、言い換えれば、己のために掟を守っていたに過ぎなかったのです。ここに、律法主義の問題点があるのです。

 

ですが、彼はそのことに全く気付いていませんでした。そこで、彼は、更に主イエスに「まだ何か欠けているでしょうか」と尋ねます。そこで、主イエスは「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから私に従いなさい」と答えられたのです。

 

【人は自分の力で永遠のいのちを得ることはできない】

主イエスの御言葉は、私たちには、厳しすぎるようにも思えます。彼は、真面目に生きてきて、そして今、更に、永遠のいのちを求め、救いを求めて、主イエスのところにまで、来ているのです。その思いを受け止めて、永遠のいのちの約束の言葉を掛けてあげても良かったのではないか、私たちは、そのようにも思うのです。

では、主イエス・キリストは、何故に、ここまで厳しく言われたのでしょうか。

 

それは、主イエス・キリストが、この富める青年のように「永遠のいのちを得るためには、どのような善いことをすれば良いのか」と考えていること自体を問題としているからなのです。主は、青年がこのように考える限りは、その善いことを完全に行わなければならないと考えているからなのです。何故ならば、それは神の御前に、自分で善を積んで、自分の力で永遠のいのちを買い取ろうとする態度だからなのです。

神の御前に完全だと思われる業を、自らの力で成すことは、誰にも出来ません。ですから、この青年は悲しみながら立ち去るしかなかったのです。

 

【それでは、誰が救われるのだろうか】

では、一体、どうすれば良いのでしょうか。

本日、お読み致しました聖書箇所の最後の部分を読んでいきますと、24節で主イエスは、弟子たちに向かって、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。この言葉に、弟子たちは非常に驚き、「それでは、誰が救われるのだろうか」と言いあったとあります。確かに、らくだが針の穴を通ることは出来ません。したがって、金持ちが神の国に入ることは出来ない、と事実上、言っているに等しいのですから、弟子たちが驚くのも無理ない話に思えます。

 

ではここで、主イエスは、弟子たちに何を言おうとされているのでしょうか。続いて、主イエスは言われました。「それは人間に出来ることではないが、神は、何でも出来る」。

そうなのです。永遠のいのちを得ることは、人間には出来ないのです。永遠のいのちを得る方法は、人間の側にはなく、ただ、神様だけがお出来になるのです。どんなに優れた人、また優れて宗教的な人が、一生を掛けて努力したり、修行したりしても、人の力では永遠のいのちは、得られないのです。

 

【罪人を招く主イエス】

永遠のいのちというのは、ただ、神さまだけから与えられるものなのです。ルカによる福音書531節というところで、主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」、こう仰ったとあります。聖書は、人間は、病に罹っている者であり、罪人である。そのため、自分の力では永遠のいのちを得ることは出来ない。しかしだからこそ、そのために、主イエスが神の御子でありながら、地上に来られたのだと言うのです。

 

【神の愛に信頼し神にのみ従う信仰】

この富める青年は、永遠のいのちを得るためにはどのような善いことをしたら良いのかと、思い悩みました。これに対して、そうではなく、むしろ思い悩むのを止めて、私には善いことを徹底して行うことは出来ない、このことを深く認識し、それを主に告白し、しかしそれでも、神様が私たちを受け入れて下さり、生きていくいのちを、更には永遠のいのちを与えて下さると信じ、主に従って生きていく、これがキリスト教信仰なのです。

 

神さまは、私たち人間を愛していて下さいます。私たちに、永遠のいのちを与えたいと願っていて下さるのです。そして、私たちがどんなにそれを受けるに相応しくない人間であろうとも、神さまはあらゆる困難を退けて、私たちに永遠のいのちを与えて下さる、というのです。キリスト教を優れた倫理・道徳と考える人がいますが、主イエスのお考えは、全く異なるのです。青年が、自分は掟を完全に守っているから、永遠のいのちを得られるのではないかと思っていた時、主イエスは、あなたは全く考え違いをしている、あなたは掟を守るという形で、自分の力で永遠のいのちを買い取ろうとしている、そうであるならば、あなたはまだ完全ではない、まだ欠けているところがあると言われたのです。

 

【永遠のいのちの道は】

キリスト教の信仰は、自分が欠けた者であって、完全ではないということを痛感することから始まるのです。この青年が、主イエスの御言葉を聞いて、自分が行ってきた愛の行いの動機が実は自分のためであったこと、自分の愛は実は欠けだらけだったということに気付き、主イエスに従って行ったなら、この富める青年も神さまが与えて下さる永遠のいのちを知ることが出来たでしょう、そして更に、永遠のいのちを受けることが出来たのだと思います。私たちが、自分の無力、自分の自己中心であることに気付き、自己による追求を止めて、神さまに拠り頼むところに、永遠のいのちが与えられる方法があるのです。

 

【神の無限の愛】

ヨハネによる福音書 316節というところには、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」と書かれてあります。

 

神の御子、主イエスを信じて、主イエスに求める人は、一人も滅びないで、永遠のいのちを得ることが出来る、それは、神さまが、それ程までにこの世を愛されたからだと言うのです。キリスト教の神様は、私たちが神様を知り神様を愛する前から、神様の方から私たちを愛し、神様の方から私たちに手を差しのべていらっしゃる、というのです。

 

私たちは、自分で考えた理想の生活を、自分の力で実現・完成させようとするのです。そして、失敗し、失望/挫折するのです。しかし、私たちが、自分の考え方を止めて、神さまのお考えを聞けば、私たちが、今まで想像したこともない愛が、神さまから注がれていることが判るのです。私たち、キリスト教の信仰を持っている者たちは、この神の愛を信じているのです。

 

では、神さまは、どのようにして、その神さまの愛を私たちに降り注いで下さり、永遠のいのちを与えて下さるのでしょうか。

神さまは何でも出来る御方です。確かに、その全能の御力で、ただ、私たちに愛を降り注いで下さり、永遠のいのちを与えることがお出来になります。しかし、神さまは、その全能の御力を振り回し、ただ気前よく永遠のいのちを与えられたのではありません。

 

【救い主イエス・キリストの御業】

先ほど、ヨハネによる福音書を読みましたように、神さまは、私たちに、愛を降り注いで下さり、永遠のいのちを与えるために、神さまは、その御独り子、主イエス・キリストを、この世にお送りにならなければならなかったのです。この世に送り、肉の体を取らせたばかりではありません。最終的に、神さまは、私たちの罪を処理し、罪から救うために、その愛する独り子を、十字架に付けて殺させなければならなかったのです。

 

また、主イエス・キリスト御自身の方を見てみましても、この26節を見てみますと、主イエスが、「神は何でも出来る」と仰った時、「主イエスは、弟子たちを見つめて言われた」と書いてあります。

 

【主イエスの愛の眼差し】

主イエスは、この時点ですでに、御自分が全ての人の罪を救うために、近く十字架に架からなければならないことを知っておられました。そして、それが主イエスにとりましても、どれほどの苦しみであったかは、主のゲッセマネの祈りを見ると判ります。血のような汗を流しながら、苦しんで祈られたのです。主イエスが、弟子たちを見つめて「神は何でも出来る」と仰った時、そうした苦しみをも覚悟された上で、仰ったのです。そこで主は、この富める青年が落胆し、また弟子たちが驚き慌てていても、人間の心配や失望を越えて、この富める青年も、弟子たちも、そして私たちをも救うのだと、心に強く決められて、その結果、彼等をジッと見つめて言われたのです。

 

そして、その結果、私たちは、本来全く相応しい者ではなかったのに、永遠のいのちに与る者となり、主イエスと共に歩ませて頂く身となったのです。

 

主イエス・キリストは、この富める青年に「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから私に従いなさい」と仰いました。今、見てきましたように、私たちは、何一つ持ち物を売り払うことは致しません。ですが、自らの愛の乏しさ、己の罪の深さを深く知っている者です。そのことを、主に告白しながら、主と共に歩む者、そして、主イエス・キリストが求められたように、主に従っていく者となろうではありませんか。(おわり)

田中茂樹(たなか しげき)神学生プロフィール
東部中会・綱島教会長老。学生時代(国立千葉大学)に信仰を与えられ、日本ホーリネス教団中山教会で受洗。のちに長老派/改革派信仰を与えられ、結婚を機に、日本キリスト改革派教会に転会。20年間、就職先の北沼津伝道所で役員をした。その後、横浜に戻り、綱島教会に所属、2年後に、同教会長老就任。
学生時代、献身について祈ったが、召命感の確信が与えられず、千葉大学大学院(半導体物性研究)修業後、1976年、富士通株式会社に就職、コンピュータの業務用ソフトウェアの開発企画を担当。同部長を約10年務めたころ、改めて、召しを覚えて、50歳半ば、自己都合退職。2006年4月に神学校入学。本6月卒業予定。奥様は、独身時代、KGK(キリスト者学生会)で勤務。子供は、3人与えられ、長男は結婚して、現在、宝塚教会会員。下の長女、次女は、奥様と共に、横浜在。綱島教会会員。

 

 

 

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