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癒されて知った神の愛

神戸改革派神学校専任教授牧野信成牧師

2009.7.5

 

聖書:ルカによる福音書17章11-19節

重い皮膚病を患っている十人の癒し11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12:ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14:イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

 17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

 19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

【重い皮膚病】

今朝の御言葉は、ルカ福音書だけに記されています10人のらい病人についての話です。「重い皮膚病」というふうに病名が替わっておりますけれども、重要なことはそれが聖書で指定された重病であったことです。死に至る恐れのある、伝染性の病であり、その深刻さの故に、感染した者は社会から隔離された生活を強いられました。そんな深刻な病に冒された10名の患者を、主イエスは一時に癒された、と福音書は伝えます。憐れみ深い神を示す、大きな救いの御業です。

 

【汚れた者】

その神の憐れみを知るために、まず、皮膚病を患う10人に目を留めましょう。旧約聖書のレビ記1345節以下には次のような掟があります。

 

  「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

 

【風下に隔離された】

昔、ユダヤでは「重い皮膚病」は人を社会の片隅へと追いやってしまう恐るべき災いでした。その人は身体的な苦痛ばかりでなく、宗教的にも汚れたものとされて、隔離された場所での孤独な生活を余儀なくされました。病が治るかどうかは、神のみぞ知るです。病院はありませんし、家族も看病することができません。こうした見捨てられた人々の村は、通常町の風下に位置していました。

 

【主よ、憐れんでください】

そういう見捨てられた場所にこそ主イエスは進んでいかれました。希望の無い暗闇に光が訪れたのです。10人の患者がイエスを迎えに出ます。彼らはイエスに近づくことができません。病のためにそれが許されていません。だから遠くに立ち止まったまま、大声で、イエスの名を呼びました。

 

  「イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください。」13節)

 

一度限りではないでしょう。また、一人だけではないでしょう。10人がそれぞれ、大きな声で、イエスの名を呼び、憐れみを乞うたのではないかと思います。

 

その様子が思い浮かぶでしょうか? この人々の声や姿を今、私たちは想像することができるのではないでしょうか。今日の御言葉では、それがとても大切なことのように思えます。主イエスに近づくことができないで、大声で助けを求めている、その人々の姿です。

 

「憐れんでください」との一言は、一般的な表現ですから、必ずしも特別な意味を含んでいるのではないかも知れません。しかし、これは後にキリストに憐れみを乞う時の、教会の祈りの言葉になりました。「主よ、憐れんでください―キリエ、エレイソン」という祈りの言葉です。そしてこれは、詩編に頻繁に用いられる神への嘆願の詞でもあります。代表的なものとして詩編123編をお読みします。

 

1   目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。

2御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ

はしためが女主人の手に目を注ぐように

わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。

3わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。

わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。

4平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに

わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。

 

 

【遥か彼方にいるイエスに向かって】

目を上げて、わたしは救いの在り処を求めて、天を仰ぐのですが、ここで思わされるのは高い天の遥か彼方におられる神の遠さです。しかし、わたしは信仰の目でそこにいます主を認め、僕が主人の一つ一つの仕草に注意深くあるように、天から注がれる救いに待ち焦がれます。遠くにいるイエスに向かって、「わたしたちを憐れんでください」と叫んだ10人も、この詩編と同じ心で、神であるお方に呼ばわったに違いありません。それは、海の真ん中に放り出されて漂流中に、ようやく遠くに通りかかった船を見出した時のようで、彼らは力の限り、イエスに向かって叫びました。

 

【イエスの癒しの言葉と10人の反応】

その声に対するイエスのお答えは迅速です。面倒な手続きは一切ありません。主イエスはただ、彼らをご覧になりました。そして、祭司たちのもとへ行って自分自身を見せなさい、と命じました。一人ひとりに手を置いて癒した、というのではありませんでした。「祭司たちのもとへ行け」というのは、清められた証明をしてもらいなさい、ということです。そうして社会復帰できることを意味しています。結果だけを命じられて、彼らの応答にまかせられました。また、驚くべきは、その言葉を聞いた10人の反応です。彼らはイエスの言葉をそのまま信じました。イエスの言葉に従った時点で、彼らの病は癒されたのです。

 

【神の救いの応答:イエス・キリスト】

キリストは、人間の困窮から訴えられた「憐れんでください」との声に、神が答えてくださった答えです。キリストは罪の深みに苦しむ人々のもとを訪れて、ただ、憐れみによって救いを与えてくださいます。10人の患者たちは何を要求されたのでもありません。ただ、しかるべきかたに救いを求めて、その言葉に従って、病を癒していただきました。

 

【真の癒しとは】

私たちがキリストによって受ける救いはこのようなものです。私たちがこの10人の男たちの叫びに自分の声を重ねるとき、癒されるのは私たちです。神は私たちの心の最も深いところにある、罪の苦しみ、痛みや孤独をよくご存知で、私たちの心の叫びを聞いておられます。後半で明らかにされますように、10人の中にはサマリヤ人もいました。救いは無条件に誰にでも与えられます。イエスを信じて願うならば、その信仰によって誰もが救われます。

 

【サマリア人の感謝】

癒しの奇跡にはまだ続きがあります。10人の患者が癒されたのですが、その内の一人だけがイエスのもとへ帰ってきました。主イエスにひれ伏して、感謝するためでした。病の癒しはそれ自体で大きな恵みです。神の憐れみは豊かで、願った10人に等しく癒しの恵みが与えられました。けれども、そこから感謝が生まれたのは、たったの1例でした。そして、主イエスは、この1例をもって、「あなたの信仰があなたを救った」と言われて、救いを宣言なさいます。重病からの救いは、確かに奇跡的な出来事です。しかし、キリストを通して人に与えられる救いは、身体の具合や社会生活の健全さというような現世利益を越えています。

 

【神の憐みに対する人間の応答】

神は10人を分け隔てなく憐れんでくださいました。しかし、その神の憐れみに対する人間の応答は実に冷淡です。重病が癒された9人の男たちは、そのまま社会復帰を果たして、念願の家庭に帰ることができたのでしょう。自分の村に帰って、新しい人生を始めることができたはずです。それは、確かに神の憐れみによります。けれども、ここに、一人だけ、自分の村に帰ったのではなく、自分を癒してくださった主イエスのもとに帰った人がありました。彼はサマリヤ人です。ユダヤ人から見れば異邦人に等しい民です。彼は自分の病が癒されたことを知りました。そこで彼が知ったのは、主イエスの言葉の力でした。神の憐れみの確かさでした。彼は大声で神を賛美しながら、主イエスのもとに帰ってきました。

 

【神に立ち返る】

ルカ福音書で用いられている「戻ってくる」という言葉にも、「立ち返る」という意味が含まれます。サマリヤ人の彼が癒されて帰ってきたというのは、「悔い改め」に等しいことです。彼は病という肉体の棘が癒されたばかりではありません。重い皮膚病に象徴されていた汚れ・罪が癒されて、神のもとに立ち返ったのです。

 

癒された9人は神の憐れみを受けましたが、イエスのもとには帰りませんでした。神の恵みは消費されてしまったのです。彼らは自分が元いた居場所に戻っていきました。しかし、そこには神はおられません。

 

【新しく帰る世界】

神はイエスの元に戻ってきたサマリヤ人と共におられます。彼が何人であるかどうかは問題ではありません。今、彼には神の素晴らしさが分かります。イエスが救い主であることが分かります。彼には新しく帰る居場所が与えられています。ここに、キリストのお与えになる救いがあります。それは、信じた者への永遠の救いであるイエス・キリストご自身です。

 

 キリストを礼拝する彼に向かって、主イエスは次のように宣言されます。

 

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)

 

主イエスを信じて救われた者たちは、このようにして、イエスのもとから改めてこの世に派遣されます。サマリヤ人もまた、彼の家に帰ることでしょう。しかし、それは単に元居た場所に戻るのではなく、キリストに救われた神の子の一人として、出てきた場所へと派遣されていくのです。

 

【罪の許し、魂の癒し】

簡潔に記された今朝の御言葉は、そのまま私たちの信仰の歩みを映しています。つまり、私たちは自分の罪の困窮から神の憐れみを乞うて、神に呼ばわります。主イエスの名を呼びます。信じた初めの時、遠くから、イエスの名を呼んで、救いを願ったような経験が求道生活の初めにあります。神はそこで憐れむべき私たちを顧みてくださって、私たちに魂の癒しを与えてくれます。罪の許すとの言葉がキリストによって示されて、私たちはそれを信じたのです。

 

【救われたことを世に見せなさい】

信じた私たちは、キリストによる救いを証するために世に出て行きます。私たちは清くされたと人々に証明するのです。神の業が私の上に働いて、私はこのようになりましたと人々に見せるのです。14節には「身体を見せなさい」と訳されていますが、「身体」という言葉は元にはありません。自分自身を見せなさいというのです。自分自身を見せて証するということは、がんばって癒された振りをするのではなくて、本当に救われたと信じるなら、ありのままの自分を見てもらえばよいのです。それが証であって、人々はそれを見れば分かるものです。

 

 私たちの救いの初めには、大声で神を賛美しながらイエスの元に立ち戻るという経験があります。今日の御言葉でいえば、キリスト者は「神を賛美するために戻ってきた者」(18節)です。私たちを救うことになる私たちの信仰は、実にこの賛美の中にこそあります。

 

【キリストの恵みに満ち溢れて】

日常の小さな経験の中にも神の恵みは溢れています。私たちは自分が神に哀れんでいただくべき存在であることを忘れるとその恵みに気がつきません。イエス・キリストに呼ばわる祈りを心にいつも保ちたいと思います。祈りの中でキリストの恵みに気づかされます。主は私たちのために命を投げ打って、十字架にかかってくださいました。その愛は私たちから離れません。一日一日の、瞬間瞬間の中に、キリストの恵みが溢れています。そこに気がつけば、感謝が自然と心に溢れます。

 

 今日も私たちは、神を賛美するためにここに戻ってきました。神は私たちを憐れんでくださり、キリストを通して私たちの罪を許してくださいました。ここでキリストの派遣の言葉を受けて、今日から始まる一週間、日毎の感謝をもって、キリストの証をしてまいりたいと願います。

 

  「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)

 

今日、私たちに向けられました主の言葉です。

 

【祈り】

父なる御神、あなたの憐れみは広く、すべての人々に届いて、あなたのお造りになった世界に差し出されています。しかし、罪の故にあなたの恵みに気づかず、あなたに感謝をすることのできない世界です。私たちは、主イエスを通して、あなたの愛を知らされ、罪を許していただきました。あなたの救いに感謝する生活を通して、私たちがあなたの真実を証しすることができますように。日々、あなたの恵みに気がつかせてくださって、私たちが絶えず主イエスの救いを喜び、御名をたたえることができますように、どうか、私たちをあなたのもとに留まらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

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