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主の御声に支えられて 

鈴蘭台教会牧師金原義信

2009.6.21

聖書:ヨハネ6章16-21節 ◆湖上を歩くイエス

 16:夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17:そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18:強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19:二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20:イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21:そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

 

【人生の荒海】

私たちは天の御国を目指して信仰生活をしています。そして同じ主によって地上で愛され導かれて歩んでいます。その途上にある今、穏やかな所ばかりでなく、嵐の中を通っていく事もあります。ちょうど、ガリラヤ湖で嵐の中行き悩む舟に乗った弟子達のようにです。

 

【群衆を避けて】

5000人養いの後、イエス様は群衆を避けて山に退かれました。群衆はイエス様を王に担ぎ上げようとしました。その騒ぎに巻き込まれないようにという配慮かもしれません。弟子達は岸に行き、舟に乗りました。このときまだイエス様は弟子たちの所には来ておられませんでした。

 

【主イエスを離れて】

イエス様がまだ自分たちのところに来ておられないように思える、そんな中で出発をしなければならない場面が人生の中にはあるのではないでしょうか。イエス様が一緒にいて下さっていることがいきいきと感じられるときもありましょう。しかしいつもそうではない。長い信仰生活の中で、神様がおられるということがあまりはっきり感じられなくなる。信仰に入ったとき、あるいは信仰に燃えていたときの生き生きとした感覚や喜びが薄れているときです。

 

【人生の試練】

しかもそんなときに試練に遭うのです。神の御心がはっきりまだ示されたと思えない中で、自分の行く道について決断を迫られる。いまなら困難が起こっても対処できる、そんな心備えがない中で困難な問題が起こる。意に反して時間や労力を裂かれる。疲れを覚え、疑いや迷いが生まれてくる。よりによってこんな時に、という時に人生の旅路に嵐が吹いて足元が荒れ始めるということが起こるのです。

 

【ガリラヤの漁師たち】

この場面で弟子達が出会ったことはそのような試練を表しているのです。

 

 弟子達の中にはガリラヤの漁師もいたはずです。ガリラヤ湖の荒れ方、天候との関係、目的地までの進路、時間などの目安、舟の操り方、そうしたことを熟知していたことでしょう。その道の専門家がいたからです。だからこの短い航海を、自分達でコントロール出来る自信があったと思われます。航海を制御しながら目的を果たす見通しがあったはずです。ところがそれが一気に吹き飛んでしまうような嵐に襲われたのです。これも、人生の嵐をよく表していると言えるでしょう。

 

【思わぬ出来事】

自分の力で出来ると思い、見通しを持って始めた歩み、例えば仕事や家庭生活などがありましょう。ところが自分の思いに反してそれらが制御できなくなるような事態です。そんな中で神の御支配よりも、私たちの人生を揺さぶる嵐、試練や困難の方がはるかに大きく見えるということが起こるのです。この問題、あの課題に立ち向かい、何とかしなければ、という思いで一杯になってしまう。そんな中であせり、自分に苛立ち、隣人のせいにしたり不満や怒りを抱いてしまう。弟子達の船で言えば、「あなたのこぎ方が悪い、もっとしっかりこげ」などと言い合うような状況を想像することができます。

 

【主イエスに恐れた】

そんなときにはイエス様が近づいてきても、分からないのです。今日の箇所では19節に「・・・イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」とあります。イエス様が見えなかったのではありません。「見て」恐れたのです。なぜでしょうか。

 

【超自然の主】

イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられるというのは、弟子たちの考えを超えたことだったに違いありません。いつもと違うイエス様を見る思いがしたのかもしれません。彼らはこのとき自分達の考えをこえた嵐に会っています。そんな中でまた自分達の考えをこえたイエス様を見る。彼らの心はどちらも受け付けることが出来なかった。だから恐ろしかったのでしょう。イエス様はこういうお方、というこちらの思いの限界を超えて行動されるイエス様のなさりように、恐れを覚えたのです。人生の荒波がとても大きく見えて、近づいてくるイエス様のお姿は嵐の恐ろしさを増し加えるものにしか見えなかったのです。

 

【人は自分の思いの中で神を見る】

自分のコントロールが及ばないこと、そのようなイエス様を受け付けない。逆に言うと、神は、このようなときはこうしてくれる、こんな願いにはこう応えてくれる。そのように人間の側が決めてしまう考えが心の中にあるのです。だからそれからはみだした神の業、湖の上を歩くイエス様を受け止めることが出来ないのです。自分が願う仕方で助けてくれる、そのような人間の考えに当てはまる範囲でしか、神様を神様として受け入れることが出来ないのです。

 

【主イエスを王に】

これは5000人養いの奇跡を体験した群衆につながっていきます。彼らは不思議なイエス様の力を見て、この方を王様にしようとしました。ローマ帝国の支配に対抗できる王が欲しいという自分達の願いに、イエス様を従わせようとしたのです。これも自分達の願い・考えに当てはまる範囲でだけ救い主を受け入れる心です。

 

どちらも根っこは同じなのです。自分達が考える枠の中でしか神を神として受け入れないのです。それでは本当に困難の中、歩んで行く支えを得ることは出来ません。

 

【主イエスの御声】

そんな中、「わたしだ。恐れることはない。」とイエス様が語りかけて下さるのです。

 

ヨハネ福音書のこの箇所は、他の福音書の並行記事と比較するととても簡潔な書き方になっています。ここでの弟子達の叫びを詳細に書いてありません。むしろすべてがこのイエス様の短いけれども確かな言葉「わたしだ、おそれることはない」という言葉に集中するような書き方をしています。この出来事を通してヨハネ福音書が伝えようとすること、私たちがここから聞き取るべき御言葉は、まさにこのイエス様の御言葉なのです。

 

【エゴー・エイミー】

「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」です。英語の「アイ アム」です。かつて神様がモーセに語りかけ、ご自分の名を名乗られた。それが「わたしはある」という言葉でした(出エジプト記3章)。これにあたるのが「エゴー・エイミー」ということができます。つまりイエス様が、かつてモーセに語りかけ、イスラエルの民を救い出した主なる神と等しいお方として、ご自身を現しているのです。天地を造り、風も波も御旨のままに治める、支配しておられるお方が、こぎ悩んでいる弟子達のそばに近寄り、寄り添ってくださる。そして「わたしである、恐れることはない」と言われるのです。

 

【主イエスを心に迎えるとき】

この主の御声を聞いて、嵐の中で見失っていた神の御支配を新しく見出したとき、事態は新しい展開を見せるのです。弟子たちはイエス様を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく、舟は目指す地に着いたのです。恐れは、神の御支配が見えなくなる時、あるいは見失う時に生まれます。本当に恐れるべきお方を見失うが故に、さまざまなものが、人生を脅かす脅威に見えてくるのです。けれどもそのように神が見えないような状況の只中で私たちは「わたしだ。恐れることはない」という主の御声を聞くのです。

 

【主イエスの御苦難の時】

神がどこにおられるのか、それが最も激しく弟子達に襲いかかったのは、イエス様が十字架におかかりになったときです。十字架にはりつけにされ、痛みに苦しむイエス様に神が何もしてくださらないように見えたでしょう。弟子達は恐れをなして逃げてしまいました。

 

【十字架は勝利】

けれども実はこのとき、暗黒の只中で、主なる神は生きて働いておられた。イエス様はその十字架によって私たちの罪と悲惨を徹底的に引き受けて下さっていたのです。そして復活によってすべての罪と悲惨・人生の嵐に対する勝利を勝ち取って下さったのです。罪と悲惨の現実は復活の主によって打ち砕かれたのです。どんな試練も困難も、主の御支配の下にあるのです。

 

【復活の主イエスが共に】

ですから次のように言うことが出来ます。

人生の嵐の中で、足元が波風に揺れ、行き悩むとき恐ろしくなる、不安になる。そのようなところでは神様がおられるとは思えない。どうする事も出来ない。しかも自分を脅かすものに囲まれたような状況、暗闇の中で暴風にさらされ、波に飲み込まれそうな恐怖の中にいる。自分を見失い、どうすればよいのかも見失うような中にいる。そんな中で主が語りかけて下さる。「わたしだ。恐れるな。」この主の御声が聞こえてくるとき、恐ろしいところでしかなかった嵐の中に、復活の主イエスが共にいて下さることが分かります。その時、初めて安心する。敵に囲まれた中で、どんな敵よりも強い味方がここにいるからです。自分の味方となって助け支えてくれるものが何もない、このままでは沈んでしまうと思った所で、「わたしだ」と私の神、私の主が言って下さっていると分かるのです。この大揺れも風も波も、全能の神様・死に打ち勝ったイエス様の御支配の下にあるのです。「わたしだ。恐れるな」と語り続けていて下さる。この主の御声に支えられて私たちは嵐の中を進むことができるのです。

 

命の危機の中で「わたしはよみがえりであり命である」、飢え乾きの中で「わたしは命のパンである」、道に迷うとき、道を見失うとき、真理を見失うとき「わたしは道であり真理である」、闇の中にいるとき「わたしは光である」、このように語ることの出来るお方が「わたしである。恐れるな」と言って下さるのです。

 

【私たちの罪と信仰の回復】

私たちは苦しみの中で、自分が一番苦しく、被害者であるかのように思ってしまいます。隣人に対して苦々しい感情を抱いたりします。うまくいけば、自分の力で成功したかのように高ぶってしまう。そして「わが主、わが神よ」という信仰の言葉を失うのです。そのような罪を私たちは持っています。

 

 そんな私たちは、「わたしだ。恐れることはない」という主の御言葉によって信仰を回復することが出来るのです。

 

【永遠の港に】

この主の御声を受け入れ、頼りにするとき、「わが主、わが神よ」と応答するとき、目指す地・永遠の御国に至る道を歩み続けることが出来るのです。どんな人間の計画も、神のご計画の上に立ち、支配することはできません。主の御計画は私たちの限界を超えています。しかし主が共にいて下さる、主が私たちのために心を配っていて下さり、「わたしだ、恐れることはない」と語り続け下さいます。その御声を聞き続けて生きるとき、もはや恐れるものは何も無いと信じることが出来るのです。本当に主を畏れる事を知るとき、他の何ものも恐れることはないと分かるのです。

 

【子どものように】

小さな子どもが一人不安の中で留守番をしているとき、ドアをノックする音がしたとします。知らない人なら怖いでしょう。しかしいつも自分を大切にしてくれる親の声がしたなら、「私だよ」という言葉だけで安心してドアを開け、そのふところに飛び込むでしょう。そのような親しい関係を主はこの言葉でつくって下さるのです。

 

【わたしである、恐れることはない】

主の御声により頼みながら歩むとき、神が私たちのために嵐を治め、道を開いて下さるのを見ることが出来ます。平安を与えられます。自分に与えられた重荷をも引き受け、担い歩む力が与えられます。荒波は続くかもしれない。しかしその波にもまれる只中で、その荒波に沈んでしまうことなく、神の御支配をこそ見つめ、感謝と慰め、励ましを与えられつつ歩んでいくことが出来るのです。「わたしである、恐れることはない」この御言葉を日々聞きながら、主によって歩んでいく幸いが与えられています。感謝です。(おわり)

 

 

 

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