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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

「人を裁く前に」 

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典

2009823

聖書:マタイ716◆人を裁くな

  1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

人を裁くな

前回は、「人を裁くな」というイエスの教えが、他者への裁きを全て禁じるのではなく、むしろ教会も私たち個々人も、正しい裁きと批判はする義務があること、またこの教えは、すぐ人を詮索し、あら探しをしやすい生れながらの私たちの内にある罪の習性としての裁き癖を問題とし、それを禁じていることを確認しました。今朝も更に学びます。

 

【裁き癖をなぜ取り除かねばならないか】

そもそも、人を裁きやすい習性を何故私たちは取り除かなければならないのでしょうか。イエスによると、三つ理由があります。

 

第一は、1節で言われているように、自分が裁かれないためです。私たちは常識的に知っています。人を批判ばかりしている人は、必ず人から批判されます。そして面白いことに、人に批判的な人ほど、自分に加えられる批判に敏感で、それを嫌い、憤慨し、強く反論します。しかし、自分が人を批判している時には、そのことを全然気にとめません。とにかく、自分が裁かれるのがいやなら、人を裁かないようにというのは、世の常識から見ても正しい知恵でしょう。しかし、イエスの言われるのは、そういう次元のことではありません。神によって自分が裁かれないためです。

 

【永遠の神の裁き】

裁きにも、聖書によると三種類あります。一つは、私たちが自分の罪のために、永遠の滅びに定められるという意味での神の裁きです。これは私たちの永遠の行先を決定する神の恐るべき絶対的審判です。しかし、素晴らしいことに、私たちの罪の身代りとして十字架に架かられた主イエス・キリストを心から信じるクリスチャンは、この裁きからは救われています。

 

【不敬虔なクリスチャンの裁き】

第二の裁きはクリスチャン用です。昔、コリント教会である信者たちがパンと葡萄酒にあずかる聖餐式に不敬虔な態度で臨んだため、神の裁きが下ったことがありました。Ⅰコリント112830は言います。誰でも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなた方の間に弱い者や病人が沢山おり、多くの者が死んだのです。」

 

心でも体でも御言葉から逸脱し、不信仰を自分に許しているなら、クリスチャン用の裁きがこの世で臨みます。これは神を拒む不信者用の永遠の裁きではありません。Ⅰコリント1132が言うように、「裁かれるとすれば、それは私たちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめ」です。キリストを信じていますが、なお自分の思いのまま不信仰に生きるクリスチャンを、神は色々な方法で悩ませ、懲らしめられます。それも大変厳しい場合があります。ですから、私たちは安易に人を裁いてはなりません。

 

【クリスチャンの死後受ける報い】

第三の裁きもクリスチャン用です。それは死後受ける報いという裁きです。何度も言いますが、キリストを本当に信じるクリスチャンに、永遠の地獄の裁きは絶対にありません。天国は確かです。しかし、最後の審判の時、私たち一人一人は、キリストの前に立たなければなりません。Ⅱコリント510は言います。「私たちは皆キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならない…。」

 

信仰者は天国に入れられます。しかし、そこでの報いは同じではありません。一人一人、地上での信仰者としての生き方、行い、言葉、心で考えたことに従って、主ご自身が裁き、評価されます。信者にも裁きがあるのです。何と厳粛なことでしょう。しかし、よく考えれば、これは当然のことと言えます。主は公平だからです。辛いことばかりの人生だったのに、不平も言わず、耐え忍び、なお人を愛し、人に一生懸命仕えた信仰者が、そうでない信仰者より報われるのは当然でしょう。これは永遠の地獄への裁きではありませんが、天国において、ある違いを私たちの間に生じさせます。これはクリスチャンとなって以来の私たち一人一人の生き方に対する神の公平な評価であり報いです。

 

黙示録1413然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」善きにつけ悪しきにつけ、今の私たちの行いや言葉は、永遠について行きます。ですから、私たちは不用意に人を裁く傲慢さを徹底して砕かれなければなりません。

 

自分の量る秤で

裁いてはならない第二の理由に進みます。それは、2「…自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」からです。私たちが人の欠点を見つけ、裁くことが得意だとするなら、それと同じ基準で神は私たちに要求されます。「あの人のあの点は間違っている。私にはそれがよく分る」と言う人は、自分もそれと同じ物差で裁かれることを覚悟すべきだということです。「あの人は何と思いやりのない人か。人の立場に立って考えることができないのか」と私たちが思うとします。それはそれで結構です。しかし、同じことを、神は私たちに要求されます。ルカ1248でイエスは言われます。「全て多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」頭が良く、人より優れた洞察ができ、人の問題点も素早く発見できる人は、その同じ物差、同じ量りで、自分も神から裁かれるのです。

 

【相手の目のおが屑】

裁いてはならない理由の三つ目は、私たち自身に大きな問題があるからです。それをイエスは35節で、裁く自分の目の中に相手よりずっと大きな丸太があるという誇張した比喩で語られ、人をすぐ裁く私たちの愚かさと偽善に気付かせようとされます。3節をご覧下さい。人の目にある小さなおが屑は、当然分りにくい。しかし、もし自分の目におが屑が入れば、痛くてすぐ分る。ところが、私たちの感じ方は逆です。

 

自分の目に丸太が入っていたら、いいえ、人のものよりほんの少し大きいおが屑が入っていたなら、どうでしょう。痛くて痛くてたまりません。人の目の小さなおが屑のことなど、言っておられません。でも、私たちはしばしば僭越にも人に向って、4「あなたの目からおが屑を取らせて下さい」と言う。そんなことをすれば、相手の目まで傷つけてしまいます。同様に、誰かの問題を見つけたとして、それを私たちがちょっとした忠告や批判で簡単に直せると思うのは、大間違いです。その前に、自分の中にある大きな問題にまず気がつくことが大切です。「あの人は、あぁだから駄目なのだ」とすぐレッテルを貼り、「私なら、あぁはしない」と言える資格が果して自分にあるかを、まず考えたいと思います。

 

以上、人を安易に裁いてはならない理由を見てきました。では、人に対して私たちは一切ノータッチ、ノーコメントであるべきなのでしょうか。違います。それは主のお考えではありません。主は、ただ、人をしょっちゅう裁き、時としてそれが楽しみで快感すら覚えるそういう私たちの根深い罪の性質を取り除き、清めたいと願っておられるのです。

 

【真に神の子とされるために】

主は山上の説教の冒頭、マタイ5312で描かれた真のクリスチャン、また神の子とされた者の姿、いいえ、ご自身の姿に似る者へと私たちを仕上げたいと願っておられます。主は冷たいだけの警告者ではありません。私たちを天の父の御前にシミも傷もない献げ物となさりたいのです。

 

偽善者よ

では、どうすれば人をすぐ裁きやすい誤りを正せるのでしょうか。第一は、イエスが5「偽善者よ」と呼んでおられることが自分に当てはまらないか、心から反省することです。「偽善者。」これは元のギリシア語では、仮面を着けて演技をする役者を意味しました。その通り、人を批判する時、私たちは思います。「私はあの人個人をやっつけたいなどとは思っていない。ただあの人の問題に気付いただけだ」と。そして自分が公平で客観的な観点から人を見ていると、考えます。しかし、本当はどうなのでしょう。「あの人は駄目」と烙印を押したい衝動は、私たちに全くないのでしょうか。レッテルを貼ることが、私たちは好きではないのでしょうか。そして自分の公平さや潔癖さ、自分は物事がよく分っているということを人に印象付けるため、無意識に演技していることは、ないでしょうか。自分はあの人のことをこんなにも思っている、そしてあの人の問題を見つけたので、大変心を痛めていると見せかける。

 

兄弟に向って、4「あなたの目からおが屑を取らせて下さい」と親切そうに言う。だが、実は相手の欠点を見つけて、意地悪く喜んでいる、というようなことはないでしょうか。イエスは「偽善者よ」と言われます。私たちはまずこれが自分の内にないかどうかを深く探りたいと思います。

 

自分の目にある丸太

第二に、人を裁く前に、5「まず自分の目にある丸太を取り除け」と主が言われたことを心に留めたいと思います。すると「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事ができる。」自分の罪と欠点は忘れ、人のこととなると、がぜん得意になる。これこそ典型的な私たちの目にある丸太です。そういう習性や精神があると、私たちは人をはっきり正しく見ることができず、早合点や憶測や推測で「あの人はこうに違いない」と裁いてしまいます。誰よりも人間を深くご存じの神の御子イエスは、5節で「万一、自分の目に丸太があれば」などと仮定しておられません。必ず誰の目にも丸太はある。これに気付かなければなりません。3節の「気付く」は「徹底的に考える、注意深く観察する」という意味のギリシア語です。考え詰めて自分の心を観察すれば、誰でも自分の罪や問題点が分るのではないでしょうか。それを心に覚えた上で、なお、自分に人を批判し、忠告する資格があるかを問う。

 

【自分を裁く者となれ】

要するに、人を裁く前に、自分を裁く。私たちは誰に対してよりも、自分に対して厳しい批判者でありたいと思います。自分に神の真理に対する熱心、気になる人への真実な愛、神に対する忠実さが本当にあるかを厳しく吟味して、初めて相手にもこちらの真情が伝わります。

 

【神の恵みと憐れみによって】

第三に、幸いにも自分の目の中の丸太を取り除けたならば、何故それができたかを考えたいと思います。信仰者ならば、その理由は分るはずです。決して自分の力によってではなく、ただただ神の恵みと憐れみによって、です。そしてその時、私たちは心から謙遜な思いでその人を助けて上げたいという気持になります。信仰により厳しい自己吟味をし、自分の目から、ようやく丸太の一つを取り除けたことで、私たちは自分に対するキリストの素晴らしい恵みと助けを体験していますので、その同じ喜び、同じ感激を人にも知っていただきたいと心から願うようになります。その時、初めてエフェソ415「愛に根ざして真理を語る」ことが可能となります。

 

【ダビデ王の例】

姦通の罪が発覚するのを恐れ、バテシバの夫を戦場に送って殺し、証拠隠滅を計ったダビデ王のことが、Ⅱサムエル1112章に伝えられています。預言者ナタンが来て、ある貧しい男のかわいがっている一匹の子羊を取上げて自分の客に振る舞ったひどい金持の話をしました。それを聞いてダビデは激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と言いました。すると預言者ナタンは「その男はあなただ」と言いました。私たちは人の罪や問題は実によく分り、色々批評します。だが、「それはあなただ」と言われるまで、自分のことは分らない。

 

しかし、この厄介な性質を心から悲しみ、人を裁く前に(へりくだ)ってまず自分を裁く信仰者を、主は大いに憐れみ、必ず恵みを注ぎ、丸太を取り除いて下さいます。それだけでなく、その人を通して、その人が接する他の人、特に他の信仰者にも、ご自身の豊かな救いの恵み、罪とその力からの清めと解放を及ぼして下さいます。イエス・キリストはそういうお方であります。

 

【人への謙り(へりくだ)

一人一人が、まず御言葉により自分自身を深く鋭く吟味したいと思います。次に、溢れるばかり豊かな主イエスの救いの恵みに押し出されて、自分の周りの人を福音の光の下に見つめ、その人も自分も主の御霊が捕え導いて下さるよう祈りつつ、その人に謙って自分を差し出したいと思います。そうして、主ご自身による救いの御業が、広く深く浸透し、私たちの感謝と喜びがいよいよ増し加わるようにと願うものです。(おわり)

 

 

 

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