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山上の説教  ウイリアム・モーア
もくじ

イエスの新しい戒めー山上の説教

マタイによる福音書5~7章

 

目次

1.山上の説教 

. 霊的な革命 

. 塩と光 

4.心からの義

5.心からの義II

6.心からの敬虔

.お金の使い方

.人を裁くな

.求めなさい

10.命を選びましょう

 







1、山上の説教           ウイリアム・モーア
西谷聖書集会2005.9.11

聖書:山上の説教を始める(マタイによる福音書5章1-2)

  1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

【クリスチャン生活の中心と基盤】

当然な事ですけれども、主イエスの教えは我々キリスト者にとって生活の中心と基盤になります。毎日の生活にその教えを覚え、心から従う事によってこそ、私達は本当のキリスト者になります。ですから、私達は常にその教えを学んで、毎日具体的に実行する必要があります。そうしないと私達の信仰はただ形式的なものとなり、主イエスが約束した豊な命を経験出来ず、空しい状態になります。

この最も大事な事について主イエスはこのように語られました。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ724~27)と主イエスが言われました。
神の御子イエス・キリストの御言葉、すなわち御自分の教えははっきりと聖書に残されています。ですから、それを学ぶ為、聖書を開く必要があります。しかし、聖書を何処から学べば良いのか分からなくなる時があります。聖書の中で色々なお話が載ってありますので、イエスの教えとなる良い出発点は何処なのでしょうか。

【山上の説教:キリスト教の憲法】

実は、主イエス・キリストの基本的な教えを覚えようとしたら、一つのところを勧めたいと思います。それはマタイによる福音書に於けるイエスの「山上の説教」と言われるお話です。マタイによる福音書5章、6章、7章にあるこの山上の説教は何処の個所よりも主イエスの一番大事なお話を纏めています。ですから、ある人は山上の説教を「キリスト教の憲法」と呼びました。このマタイによる福音書の5~7章だけをマスターしたら、主イエスの教えの一番重要な点を理解出来るようになります。そして、その教えに従って、毎日の生活に実行すると、主の約束通りに「岩の上に自分の家を建てる人」になります。どんな事が襲って来ても、しっかり立つ事が出来、神は豊に勝利と恵みを授けて下さいます。

毎週ではないんですが、これからの数カ月に渡って、少しづつ山上の説教を一緒に学びたいと思います。主イエスの基本的な教えを新たに覚え、その教えを生活に具体的に活用すると、私達の信仰がよりもっと元気なものになり、主から来る喜びと平安を豊に経験出来ます。しかも、私達はもっと忠実に主イエスに従う事によって、神の栄光をはっきりと現す事が出来ます。

【新しいシナイ山】

さて、山上の説教の背景を少し紹介します。主イエスは何処でこのお話をなさいましたか。今日の個所によりますと「山に登られ」て説教しました。だからこそ、山上の説教と言われるようになりました。しかし、実はその山の名前が聖書に記されていません。その時、イエスはガリラヤ地方で教えられましたので、ガリラヤ湖の周りにある一つの山だと思われます。この世を歩まれた間、主イエスは重要な事を教えた際、よく山に登りました。しかし、それはただ主が山歩きを特に好んでいた訳ではありません。ここではシンボルとして山は大事な意味がありました。つまり、山は神と一番近い所と思われました。旧約聖書のモーセと言う人物は十戒を父なる神から授けけられた際、何処へ行くように命じられましたか。それはシナイ山でした。全能の父なる神はその山の上に下りましたが、雲に包まれているので、誰もその姿を見る事が出来ませんでした。また、その時神の御臨在は雷鳴と稲妻と地震と伴いましたので、「民は皆、震えた」と記されています。(出エジプト記19:16)

【律法の完成者・イエス】

実は、主イエスはあのガリラヤ湖の側にある山に登ってお話をなさると、その山は新約時代の新しいシナイ山になりました。しかし、旧約のシナイ山と違って、新しいシナイ山の上に子なる神イエス・キリストを直接に見る事が出来ました。しかも、子なる神は人間になり、私達と共に暮して、深い愛を持って私達に福音を述べ伝えられました。ですから、私達はその新しいシナイ山から述べた神のお話に注目すべきです。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為と思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である」と主イエスは山上の説教で宣言されました。(5:17)これからの学びを通して、主イエスが私達の為にどのようにして旧約の律法を完成したかを発見したいと思います。

【イエスの権威】

今日の個所によりますと、主イエスが山に登ってから、「腰を下ろされると、弟子達が近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられ」ました。私達の現代の習慣と違って、イエスの時代、先生が教える時、いつも座りました。そして、会衆、つまり話を聞く方はずっと立って、先生のお話を聞きました。実は、先生が座る事によって自分の権威を示しました。ですから主イエスは座る事によって国王が王座から国を治めるように、判事が判事席から裁判するように権威があると言う印になりました。

イエスはいつも大事なお話があった時、わざわざ座りました。そして、主イエスの教えを聞いた人々はイエスの権威をすぐ認めました。主は人間を恐れず、神の真理を語って、また深い理解を持って人々の心を癒して下さいましたので、皆は主の権威がただちに分かりました。

 

実は、山上の説教について弟子マタイがこのように書き記しました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼等の律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とマタイによる福音書7章28ー29節に記されています。やはり、神の独り子イエス・キリスは権威があります。何故なら、主イエスは初めに父なる神と共にありました。そして、万物は主によってなりました。しかも、主イエスは神の御言葉ロゴスとして私達に遣わされました。ですから、権威あるイエス・キリストが教えられる時、私達も良く聞いて従うべきです。

【山上の説教は誰に語られたか】

山上の説教の対象は誰でしたか。それはおもにイエスの弟子達向きと記されています。「弟子達が近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」と書いてあります。弟子達はやがて福音を伝える責任を託せられるので、訓練と教育が必要でありました。しかし、大勢の一般の人々も山上の説教を聞きました。イエスは何処へ行っても群衆がどんどん出て来て、主の素晴らしいお話を聞いたり、病気の癒しを頂いたり、主に質問をしました。

 

そして、主は寂しい山に登っても群衆がイエスの後について来ました。イエスは権威ある預言者ですから、人々は喜んで主のいる所に集まりました。ですから、山上の説教の対象は弟子達に限られていませんでした。そこに集まって来た皆の人々でした。では集まって来た人々はどんな人でしたか。それはイエス・キリストの事が何も分からない人も、求道者も、信者になったばっかりの人も、またベテランの信徒もいて、山上の説教から恵みを沢山受けました。ですから、きっと、これからの学びは私達一人も残らず大きな実を結ぶ恵みとなる事を信じます。

【山上の説教の目的】

主イエスは何の目的を持って山上の説教をしましたか。説教の中に色々な教えがありますが、目的は一つです。それは、神の民として私達はどのように生きるべきかと言う事を教えます。つまり、山上の説教は神の豊な祝福を受ける道、また、私達が周りの皆から祝福される道を教えて下さいます。誰でもそのことが分かっていたら神の素晴らしい祝福を受けたいと思います。その祝福があると、人生の本当の意味と希望と喜びと生きる為の力が湧いてきます。そして、その祝福を受けると、誰でも、隣人でもその同じ祝福を受ける為に証人になりたいはずです。私達の山上の説教の学びを通して新に神の恵みの道を発見したいと思います。

【山上の説教から受ける恵み】

愛する皆さん、山上の説教の恵みを受ける為、大事な準備が必要です。初めに、主イエス・キリストの御言葉を聞く熱意がいります。主イエスのみが命の御言葉を教えます。その御言葉がないと、私達は飢えてしまいます。食べ物がなければ人は飢えるように、私達も主イエスの教えを欲しがるはずです。

 

【恵みを受ける準備】

第一の準備は自分の中にイエス・キリストの御言葉に対する熱意をもつ事です。
しかし、主イエスの教えを聞く熱意だけでは足りないです。山上の説教から恵みを受けるには、その御言葉に従う心も必要です。

 

御言葉がいくら素晴らしくでも、ただ聞くだけでは実を結ぶ事が出来ません。その教えを実行しなければなりません。ヤコブの手紙1章22にこの大事な事が記されています。「御言葉を行う人になりなさい。自分をあざむいて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」

もし主イエス・キリストの教えを聞く熱意があって、そして、またその教えに従う強い意志があれば、準備が整いました。どうかその準備が出来るように神の助けと導きがありますように。次の主の日に「霊的な革命」と言う題で私達の山上の説教の学びを始めたいと思います。ぜひ今週、その聖書の個所マタイによる福音書5章1ー12節を読んで、御言葉を通して神の大きな恵みを期待して下さい。そして、私たちの山上の説教の学びの上に神の導きがありますように祈って下さい。


 

 

 

 

 

2、霊的な革命        ウイリアム・モーア
 
西谷聖書集会2005.9.18

マタイによる福音書5章

 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆八福

  3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのもので

    ある。

  4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

  5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

  6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

  7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

  8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

  9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

    
【幸せになりたい】

私たちは誰でも幸福になりたいです。幸福の追求は人間に生まれながらの本能ではないかと思います。もし誰かが「私は幸せに暮したくない」と言ったら、その人の精神状態を疑う理由が十分あります。誰でも重要な目標として「幸せになりたい」と言う事を心に抱いていると思います。

【大きくなると何になりたい?】

私は毎年神戸中華教会付属幼稚園の卒園祝辞を述べます。我々のミッションがその教会と幼稚園を創立しましたので、その特権が与えられています。式では卒園生一人ずつが前に出て、卒園証書を園長先生から貰います。そして、先生に「大きくなると何になりたいですか」と聞かれています。色々な答えが返って来るんですが、今年は女の子の大半数が「ケーキ屋さんになりたいです」と答えました。また、男の子の殆ど皆は「サッカー選手になりたい」と大きい声で返事しました。やはり、小さい女の子には毎日、美味しいケーキを作って、それを食べ放題いただけるのは最高の幸福だと思うのでしょう。また、男の子には毎日会社へ行くよりも、外で遊んで選手の栄えのある生活は一番楽しい生活であると思ったんですね。

幼い子供さえも幸福を求め、何よりもハッピーになりたいのです。
間違いなく、幸福は私たち皆の大事な目標になります。もし幸福を持ってない場合はそれを探し求め、そして、持っていると、しっかり掴んで放さない傾向が強いのです。

【アメリカ独立宣言】

アメリカの英国に対する独立宣言にはこの言葉が記されています。

「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。
創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。」

この言葉を起草したトマス・ジェファソンにとって、幸福の追求は生存と自由とともに大事な権利になりました。その権利は造り主である唯一の神のみによって授けられ、絶対に人から取り上げてはいけない事です。
幸福は私たち人間にとって重要なものである事は皆が大賛成すると思いますが、幸福の定義と幸福をどのようにして達するのは別の問題です。

今日、先週に始まったイエス・キリストの山上の説教の学びを続けたいと思います。

そして今朝、与えられた聖句は主イエス・キリストの八福と言われる御言葉です。主イエスはこの御言葉で真の幸福への道を啓示して下さいました。先程読まして頂いた八福はよく知られていると思います。

「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は、幸いである。柔和な人々は、幸いである」などは聞いた事があるかも知れません。ここでの「幸い」と言う表現は本当の幸福とハッピーの意味です。ですから八福は私たち一人一人の為、幸福の処方箋のようになります。つまり、八福の中で神の御子イエス・キリストは真の幸福がどう言う事であるかを教え、そして、また、その幸福に達する道も案内して下さいます。

【この世の幸福】

言うまでもありませんが、イエス・キリスト以外にも幸福を教えようとする声が沢山あります。例えば、私たちの周りの社会はその点について何を言っていますか。

その1・富

それは本当に幸福になりたかったら、富が必要です。もし経済的な心配がなければ、自由になり、喜ぶ物が何でも手に入ります。立派な家に住み、高級車に乗り、海外旅行が出来、奇麗な洋服を着られるときっと幸せになると教えています。

マス・コミで見るハッピーな人はおもにそのような者だと思います。しかし、大金持ちの中には惨じめな者が大勢おります。富は幸福を買うよりも多くの人に不満と空しさと滅びをもたらします。

その2・名声

またある人は名声を通して幸福を掴もうとします。しかし、名声は決して幸福を保証出来ません。ボールテールと言うフランス人の作家は18世紀にヨーロッパの最も有名な文化人でした。皆に憧れ、最高な人生を歩んだような人物でした。死に掛かっていた時、掛かり付け医師にこのように叫びました。「私は神にも人間にも見捨てられた者だ。私の寿命を6ヶ月だけを伸ばしてくれたら全財産半分を譲ります」といったそうです。

その3・芸能人(タレント)

現代の社会は有名人を拝みます。特に芸能人に憧れる者が多いです。もし有名な芸能人になって、数え切れない程のファンの賞賛を得たら、自分がとても幸せだと思うでしょう。しかし、芸能人の中では目茶苦茶な人生を送っている者は珍しくはありません。却ってそれが普通のようです。名声は幸福を導くよりも幸福の障害になってしまいます。

その4・権力者

更に、周りの社会をみると、権力には幸福が伴います。しかし、そうではないと思います。世界一権力者と言われるアメリカのブッシュ大統領を見て下さい。色んな過ちや問題や批判の為に、それ程幸せに見えません。大きな責任の故に頭がとても痛く、却って自分の寿命も縮めるかも知れません。もし可能だったら多分彼は喜んで前の生活に戻りたい事でしょう。

【真の幸福とは】

生涯、真の幸福を経験したいならば、私たちはこの世的な文化の代わりにイエス・キリストからその道を教われなければなりません。実に、主イエスは革命的な道を教えて下さいます。この世が進める道とは全く逆の方法です。

富と名声と権力の代わりに主イエスが教える幸福の道は心の貧しさと、悲しむ事と、柔和と、憐れみと、心の清さと、平和をもたらしたい心と、迫害からさえも来るものです。この思いがけない道のみが本当の消えない幸福を提供出来るからなのです。

【主イエス・キリストの幸いなご生涯】

実に、主イエス・キリストこそはこの道を歩んで、幸福な生涯を過ごしたのです。主イエスは自信と平安と喜びと満足を溢れるように経験され、人間として完璧な生涯をおくりました。イエスの幸福は周りの事情に頼らず、神のみから来た賜物なのです。この世で私たちと共にいらした間、主は様々なチャレンジや問題や迫害などに向かわれましたが、最もハッピーな人生でありました。そして、人間となったイエスが神に頼ってそのように暮せたのならば、私たち一人一人も神に頼って真に幸福な人生を歩めます。

イエス・キリストがこの世に使わされたのは私達が「命を受ける為、しかも豊に受けるためであ」ります。(ヨハネ10:10)そして、その豊な命の重要な一部は、豊かな命からくる幸福です。

【主イエスが与える幸い(八福)】

その1

さて、主イエスの私たちの為の幸福の処方箋、八福を学びましょう。マタイによる福音書5:3の所を見て下さい。[心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ここでの「心の貧しい人々」とはどう言う人々でしょうか。その人々は神と隣人に対して自分の罪と弱さを心から認め、主の憐れみと救いが絶対に必要である事を自覚し求める者であります。その救いがなければ、駄目になって滅びるしか期待出来ないと言う認識なのです。そのような謙遜な人々のみがイエス・キリストが提供する救いを求め、神に受け入れられ赦された子供になります。

すなわち、神からの永遠の命を授けられています。その変わらない救いを受け入れると、周りにどんな事が起こっても、喜びを感じます。

神の国に入れられましたので、安心と大きな希望が与えられています。それは幸福の一番大事な条件です。

その2

4節を見ますと、この不思議な御言葉が記されています。「悲しむ人々は、幸いである。その人達は慰められる。」悲しむ人々はパッピーですか。悲しむ事と幸せな気分は全く逆の事ですから、主イエスはどうしてその約束が出来ましたか。この世では全く無感情な人だけが悲しみを避けられます。しかし、それ以外の人には悲しみがきっとあります。そして、嘆く事によってその悲しみを乗り越え、慰めが与えられています。逆に嘆かないと、つまり、その悲しみを自分の中に押さえこんでしまう者は、悲しみをなかなか放す事が出来ません。ですから、悲しい事があったら、悲しまなければなりません。それが慰めと回復への道なのです。

恐らくイエスはここでもう一つの意味を語られました。特に、自分の罪を悲しむ人は神の慰めを受けられると言う意味があるのです。犯した罪を心から嘆き、神の赦しを祈ると、間違いなく主イエスの贖いによって罪が赦されます。そして、その赦しだけが慰める力を持っています。赦しと救いの喜びを持っている私たちは本当にハッピーです。
その3

続いて、5節に「柔和な人々は幸いである、その人達は地を受け継ぐ」と書いてあります。大低、柔和な人々の場合、地を受け継ぐ事よりも、自分の地が取られてしまいます。イエスの時代そう言う傾向がよくありました。しかし、ここでの「柔和」はおもに神に対する私達が取るべき態度です。聖書に於ける柔和は神を信じ信頼る事です。また、常に神に従属する態度です。そのような人々は「地を受け継ぐ」と書いてあります。しかし、ここでの約束は財産を沢山貰える保証ではないと思います。実は、柔和な人は神様から頂いた豊な恵みを知り、その豊かさによって満たされるのです。

使徒パウロがそう言う模範でありました。彼は物質的な物は殆ど持っていませんでしたが、自分について「全てのものを所有しています」(コリント二6:10)と書きました。つまり、全能の神は全ての物を造りましたので、全ての物は主の物になります。そして、神の子として、父の物が私達の物になります。ですから、私達は美術館へ行ったり、美しい景色を見たり、旅行を楽しんだりすると、その全ては私の物という気分になります。そして、私の為にそれらの物を手入れしてくれる人々には大変感謝します。柔和な人々は本当にパッピーです。

その4

「義に飢え渇く人々は幸いである、その人達は満たされる」と次の6節に記されています。ここでの「義」は広い意味がありますけれども、恐らく一番分りやすいのは「良い行い」だと思います。つまり、「人の為に、何よりも良い行いをしたい人は幸福である」という意味です。自分自身ばかりに集中する人は大低惨じめです。自分の益や、自分の悩みや、また自分のニーズばかり考えると、不満を感じ鬱(うつ)になりやすいと思います。しかし、人の助けに集中する程、満たされます。何故なら、その行いを通して神の愛が実行されるから、自分の存在が大きな意味になり、真の生き甲斐で主によって満たされます。「義に飢え渇く人々は幸いであ」ります。

その5

「憐れみ深い人々は幸いである、その人達は憐れみを受ける」と7節に書いてあります。神は私たち一人一人を憐れんで、主イエスの贖い死のゆえに罪を赦して下さいました。その大きな赦しを頂いた私たちは周りの者に赦しを表すべきです。そうしないと、恐らく自分の為の神の莫大な赦しがまだ分かっていないことになります。常識ですけれども、自分が人を憐れんだら、お互いに、人から憐れみを受けます。その上、自分が受けた神の赦しをよりもっと覚えることが出来ます。憐れみ深い人々は本当に幸いであります。

その6

主イエスの次の教えは8「心の清い人々は幸いである、その人達は神を見る」です。心の清い人々は誰ですか。聖人、あるいは特別に善い人でしょうか。実は、心を清める力を持つ者は主イエス・キリストのみです。そして、主イエスを心から信じ、自分の救い主として受け入れる人皆は、神の目には「心の清い人」になります。それはどんなに大きな喜びでしょうか。唯一の神が私達の味方になって、清い人として受け入れて下さるのは本当の幸福の条件になります。そして、「その人達は神を見る」と書いてあります。主イエスが言われました。「私を見た者は、父(すなわち、父なる神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)ですから、私たちは主イエスの教えを学んで、主と共に歩む事によって神はどんな神か分かって来ます。そして、将来に天国で神を直接に見る事が出来ます。心の清い人々はハッピーです。

その7

「平和を実現する人々は幸いである、その人達は神の子と呼ばれる」と主イエスが次の9節に約束します。「平和の君」と名つけられたイエス・キリストは子なる神であります。そして、もし私たちは平和の為に努めると、神の子と呼ばれます。言うまでもなく、人と神の間、人と人の間、また国と国の間などに平和を実現する人々は必要であります。その最も大事な神の働きに参加すると、神の子と呼ばれます。それ以上の喜びがないと思います。

その8

最後に、10「義の為に迫害される人々は幸いである、天の国はその人達のものである」と書かれています。迫害を受けると言う事はどうして幸いな事になりますか。それは「義の為」、すなわちイエス・キリストの為になると、幸いな事になります。決して全ての迫害は祝福に伴いません。イエスは単に「迫害される人々は幸いである」とは教えられませんでした。「義の為に迫害される人々は幸いである」とおっしゃいました。つまり、自分の過ちの為、また神の御心に外れた目的の為に迫害されるときは祝福がないと思います。

 

しかし、主イエスの為だったら、迫害さえも幸いな事になります。何故なら、迫害を受けて信仰の故にしっかり立つ者は、迫害を避ける為信仰を忘れる者より遥かにハッピーです。自分の信仰を確かめられる、また主イエスの苦難に参加出来るからです。「義の為に迫害される人々は幸いであ」ります。

愛する兄弟姉妹達、ぜひ神の助けによって自分の生活に主イエスの八福を確かめて見て下さい。そうしますと、主イエスの約束通りに消える事のない真の幸福は自分のものになります。(おわり)








3.塩と光

西谷聖書集会2005.10.2

◆地の塩、世の光(マタイによる福音書5章)

 13:「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その

    塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、

    外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができ

    ない。

 15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置

    く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

 16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、

    あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるよ

    うになるためである。」

 

 

【チャーリーとペパーミント】

ある日、ピーナッツと言う漫画の主人公チャーリー・ブラウンは自分の友人ペパーミント・パテイーにこのように言われました。「チャーリー、今日は新学年の始めの日なのに、あなたの為に私は校長先生の世話になってしまった。」びっくりしたチャーリー・ブラウンは、「私の為?学校が違うからそんなことはないはずよ。どうして全てが私の為といつも言うの」と言い返しました。すると、ペパーミントは返事しました。「チャーリー、私たちは昔からの友人でしょう。友人だったら、あなたは私にもっと良い影響を与えるべきだったのよ。」

また、ある牧師が家の庭で犬小屋を建てる最中に近所の坊やがやって来てその作業をじっと見つめていました。長い間何も言わずに坊やはただ牧師の姿と犬小屋を面白そうに見学していました。自分の月曜大工(日本では日曜大工)としての腕前が良いと思った牧師は坊やが興味深いのは賛嘆と受け取り、このように話しかけました。「犬小屋の建て方を教えようか。君も自分の犬の為にきっと建てられるよ。」そうすると、坊やは言いました。「家には犬がいないから、犬小屋を作る必要はないよ。実は、牧師先生が親指をハンマーで打つと、どんな言葉が出て来るかと思って待っているだけなの。」

実際、周りの者は私たちを見ています。そして、私たちはその者たちにどのような影響を与えているのでしょうか。今日の御言葉では主イエス・キリストはその課題を扱っています。「あなたがたは地の塩である」又は、「あなたがたは世の光である」と主イエスは私たちに宣言します。その塩と光と言うシンボルを用いて私たちの影響力を力強く説明して下さいます。
この個所は主イエス・キリストの山上の説教の中にあります。私たちが学んでいるこの説教のおもなテーマは、キリスト者としての生き方です。つまり、キリスト者に相応しい振る舞いと態度を教えて下さいます。そして、キリスト者はその教えに心から従って生きると、周りの者はきっとそれを見て注目します。

【あなたがたは地の塩である】

「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。主はいったいどうして塩をこのようなシンボールとして用いられましたか。つまり、私たちはどう言うふうにしてこの世で塩のような役割りを果たすのでしょうか。

現在塩は安いし、すぐに手に入る物ですから、その大事さにあんまり気付きません。しかし、イエスの時代、誰でも塩の大事な役割りをよく知っていました。何故かと言えば、塩は高価な物でした。ある古代社会には塩は金よりも値打ちがありました。イエスの国イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。そして、ローマ軍は兵士の給料を塩で支払いました。実は、サラリーマンのサラリーと言う単語はラチン語で「塩」の意味があります。現在は技術が進んで、塩の生産は能率的になって、塩はどこでも安く買えますが、昔は宝のように大事に使われていました。

塩の役割りは数え切れないんですが、間違いなく主イエスは少なくとも、塩をシンボールとして用いた時、三つのことを考えたと思います。その三つの役割りは現在でもとても重要です。

【塩の効能1:塩は健康を保つ】

先ず、塩は健康を保つ力があります。つまり、塩を食べないと、体が段々弱って来て、遂に死んでしまいます。特に、イスラエルのような暑い国に住む人々には、塩は絶対に必要な物でした。何故なら、汗をかく程、体が塩を失います。そして、その塩分をすぐに満たさなければなりません。皆がこの健康と塩の関係が分って、出来るだけ塩を十分取りました。塩は第一に人間の健康を保ちます。
ですから、主は「あなたがたは地の塩である」と私達におっしゃいますと、健康に与える私たちの役割りを考えたと思います。そして、「あなたがたは地の塩である」の「地」は周りの人々、あるいは、社会の事です。つまり、「あなたがたは周りの者の為に塩のような役割りを果たす」と言う意味なのです。しかし、私たちは周りの者にどのようにして健康を与えられるのでしょうか。主イエスはこの世を歩んだ間、憐れんで人々の肉体的病気をよく癒されました。新約聖書にはイエスの癒しの業が沢山記されています。癒しの力を持っておられましたので大勢の人々が町を出てイエスを見に来ました。ですから、主イエスの働きを続ける為にキリスト教会とキリスト者は医療に携わっています。医療を通して苦しんでいる者に神の愛を伝える事はとても大事な働きなのです。

ノーベル平和賞を受けたアルベール・シュヴァイツアーが長い間アフリカで医療と伝道に献身しました。ある日、病気で死に掛かっている男の人がシュヴァイツアー先生の病院に運ばれました。希望があんまりなかったけれども先生が手術して、患者の命が助かりました。後で彼はシュヴァイツアー先生にこのように聞きました。「知りたい事があります。先生はいったいどうして、あなたの国を捨てて、このジャングルに住む私達のところに来て下さいましたか。」シュヴァイツアー先生は飾らずにこのように返事しました。「主イエスが私をここに送りましたから、ここに来ました。」地の塩としてキリスト者とキリスト教会は医療を通して周りの者の健康を守ります。

しかし、健康はもちろん肉体的な事に限られていません。地の塩である私たちは周りの者に霊的な健康の道を示す大事な使命も与えられています。肉体的な癒しは重要ですが、人はキリストの愛を通して神に帰るまで、霊的には病気です。私たちは主イエスの贖い死によって罪の赦しを受け、神と和解しています。神との平和が与えられています。ですから、この世で霊的にも豊に生るし、この世の歩みが終わっても、永遠に主と共にいられます。

 

地の塩である私たちはこの比べる事が出来ない程の恵みを周りの者に分かち合う特権が与えられました。霊的な健康に至るのはこの道のみですから、キリスト者は自分の毎日の生活と言葉によって神の愛と救いを表す喜びを頂きました。このように塩は人間の健康を保つ役割りがあります。

 

【塩の効能2:塩は腐敗を防ぐ力がある】

また塩は保存力もあります。主イエスの時代、もちろん冷蔵庫がまだありませんでした。ですから、食べ物を保存するには塩が必要でした。例えば、その時代、今もそうですが魚を塩漬けにして保存しました。そのまま置くと、すぐ腐敗して食べられません。食べたら食中毒を起こしてしまいます。主イエスの当時の人々は刈り入れ時、色々な食料品を塩漬けにして、食べ物に乏しい冬の準備をしました。そうしないと飢え死にする恐れがありました。このように、食物の腐敗を防ぐ力がありましたので、塩の役割りは大変大事でありました。

神によって地の塩にされた私たちは社会に大事な役割りを果たすべきです。それは社会の中の腐敗と不正を防ぐ事です。つまり、主イエスによって恵みと祝福をもたらす生き方が教えられ、私たちは周りの者にその模範的な振る舞いを示さなければなりません。
覚えていると思いますが、この前、山上の説教の八福を学びました。主イエスの八福は本当の幸せな生き方を教えて下さいます。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受けつぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義の為に迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と書いてあります。私たちは何よりも八福の「さいわい」な人々の模範を示すと地の塩の役割りをはたします。。大きな影響を社会に与え、色々な腐敗を防止する事が出来ます。

【塩の効能3:塩はおいしく味付ける】

最後に、塩の塩気(しおけ)は食べ物の味を引き出します。塩がなければほとんど全ての食べ物は食べ難くなります。塩気がないと肉と野菜は本当につまらない味ですね。塩は不思議に食べ物の持つその味を生かして、美味しくさせます。

神の大きな恵みの故にイエス・キリストを信じる者の生活は美味しくなります。つまり、私たちは希望と喜びと本当に意味のある命が与えられました。神の救いを味わっている私たちは真に幸いです。主は私たちのすぐ側にいらして、我々の味方になりました。勇気と知恵と力を豊に授けて下さいます。また更に、御自分の最も大事な働きをさせて下さいます。ですから、キリスト者の生活は面白くて楽しいはずです。

実は、主イエスが与えて下さった生き方は本当にエキサイテイングであり面白いです。味があります。キリスト者は地の塩として、自分の生活を通して、その事実を自然に周りの者に伝えるはずです。与えられた喜びと希望と生き甲斐を押さえてはいけません。

【塩に塩気がなくなれば】

13節の後半を見ますとこの主の警告の言葉が記されています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」イエス・キリストは味のある生き方を下さいましたので、周りの者にその喜びと希望が伝わります。

【あなたがたは世の光である】

最後に、14節を見ますと今朝の御言葉に於ける第二のシンボールがあります。「あなたがたは世の光である」と主イエスが私たちに宣言します。言うまでもなく、光はとても大事で私たち人間にはなくてならない物です。私たちの生活に数えきれない程の役割りを果たします。実は、光がなかったら、この世での生命が不可能になります。ですから、豊なシンボールとして光は色々な意味があります。しかし、恐らくここで主イエスはおもに一つの事を考えたと思います。何故かと言えば、ヨハネによる福音書9章5節に、主イエスのこの御言葉が記されています。「私は、世にいる間、世の光である。」実に、私たちだけではなくて、主イエスこそ世の光であります。キリスト者は主イエスの光を受けて、その光を周りの皆に反映します。イエス・キリストは私たちに「あなたがたは世の光である」といわれたのは光に導く力を考えたと思います。イエス・キリストを除けば私たちは光ではありません。却って、暗闇です。しかし、主イエスを救い主として受け入れると主御自身の光を受けて、自然にその主の光を人々に反映します。つまり、私たちは人々をイエスに導く光になります。

 

【光を輝かす】

今日の御言葉の14節の後半から主イエスは更にこのようにおっしゃいました。「山の上にある町は、隠れる事が出来ない。また、ともし火をともして、升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる為である。」

人々を導く為に主イエスの光を与えられた私たちは、その光を隠すはずがありません。頂いた光を輝かしなさい。そして、記された通りに「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる為である。」それは、光を受けたのは私たち信者の誉れの為ではありません。全ては神の栄光と隣人の益の為なのです。

「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と主は宣言されました。つまり、私たちはもうすでにそう言う使命と役割りを頂きました。どうか、私たちは地の塩、世の光である事を覚え、周りの者の為にその素晴らしい役割を果たすように神の助けを祈りましょう。

             祈り

私たちに地の塩と世の光と言う役割りをさせて下さった天のお父様、心から感謝します。弱くて罪深いあなたのしもべをそのように用いてくださりありがとうございます。どうか、毎日の生活に塩と光のように、周りの者の為に模範と祝福になりますように力つけ、助けて下さい。そして、何よりも私たちの証を通して、人々があなたを崇めますように。

 

 

 

 

 

 

 

4、心からの義       ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.10.9

 

マタイによる福音書5章17-26

 

◆律法について

 17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

 

【腰痛とスポーツクラブ】

私はずっと前から腰が弱いので、腰の手入れにかなり気を付けています。そうしないと腰がすぐ痛くなり、ある時はベッドから全然起き上がられない程ひどくなります。

数年前、特に苦しかった時、病院へ行って、腰痛の対策を教えて貰いました。それはおもに腰と腹の筋肉を強くさせる運動と足のストレチング・エクササイズでした。その運動をちゃんとすれば、腰が良くなると言われた私は頑張りました。しかし忙しい時は、忘れてしまいました。そうすると、やはり腰がまた痛くなります。

ですから、運動がもっとちゃんと出来るように近くにあるスポーツ・クラブに通い始めました。実際よく続けて運動しました。そうして腰は良くなりました。

 

【ルール】

実は、そのクラブに入ってビックリした事が一つありました。それはルールの事です。つまり、規則が山程ありました。今もあります。例えば、タオル一枚だけを使う事です。二枚を使うと別の料金になります。また、靴を脱ぐ事です。クラブ内のある所は靴を履いても良いけれども、またある所は絶対に土足禁止です。さらに、運動機械を使い終えると、必ずふきんで自分の汗をふき取らなければなりません。クラブのあちこちの所に数え切れない程のルールが壁と床までも書いてあります。冷水器の上に、「うがいするのは遠慮して下さい」と言う標識があります。また、ロッカールームの玄関に「玄関に靴を置いてはならない。ロッカーに入れて下さい」と書いてあります。そして、もちろん浴室に「お風呂に入る前に体を洗って下さい」と言う指導があります。ほとんど何処を見てもルールが貼ってあります。

はっきり言えないことですが、クラブ利用者はルールが沢山あるのは当たりの前の事だと思い、あんまり気にしていないかも知れません。恐らく、決まったルールがあるからこそ、安心が出来るかも知れません。何故かと言えば、全てを規則どおりにするなら、恥ずかしい事がないし、迷惑をかける事もありません。

その多くのルールは常識で、皆が気持ち良くクラブを利用する為だと思いますが、私はそのような規則の多い環境に入ると、ちょっと不安を感じます。と言うのは、出来るだけ全てのルールを守りたい気持ちがありますけれども、思わずルールを破ると、どうなるかと心配してしまいます。

 

【ルール違反】

実は、私はこの間、規則違反を犯して、その報いが分りました。それはプールから上がって、浴室に入ろうとした時、シャンプーを忘れたから、取りに行く為、ロッカールームに入りました。しかし、体が濡れたままタオルで歩いたので、床に水が少し落ちました。そうすると、急に掃除のおばさんがモップを持って出て来て「お客さん、お客さん」と叫びながら、私を追い掛けました。そして、皆の前で私は説教を食らってしまいました。私は謝って、もう二度と床を濡らさないと約束しましたので、釈放させて頂きましたが、その時の犯人の気持ちをよく覚えています。そして、数日後、多分私の為にその「濡れたままでロッカールームに入ってはならない」と言うルールが英語で壁に貼られました。

 

【タルムード】

主イエス・キリストの当時のイスラエルもルールが山程ありました。ローマ帝国の植民地としてローマの法律に従わなければなりませんでした。その上、自分のイスラエルの法と伝統も守る必要があったのです。更に、イスラエルの宗教に関する掟が多かったです。もちろん「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」などの十戒のような聖書に於ける掟がありましたけれども、その上に宗教学者達が掟の注釈書を沢山作り上げました。そして、その注釈書に書いてある解説に従うことが掟になりました。

 

その注釈書タルムードと言う集大成は72冊程の巨大な作品になりました。そして、一生を掛けてダルムードを学んだ学者は少なくありませんでした。タルムードの内容はおもに旧約聖書に於ける律法の解釈です。

一つの例として十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」の解釈を見てみましょう。どのように安息日を聖別しますか。自分の働きをしない事です。しかし、働きとは何ですか。それは荷を持つ事です。しかし、荷とは何ですか。学者達によりますと、荷にならない物の定義はこのようになります。

「食べ物の場合、荷にならない物はイチジク一つに等しい物と葡萄酒一杯と牛乳一口と一つの傷に塗る程度の蜂蜜です。」

安息日にその定義以上の物を運ぶと、神の律法を破るから「罪人」と言われてしまいます。また、ダルムードの解説にこんな話があります。

「安息日に乞食が自分の手を人の家に伸ばして、主人の手から物を取ると、働きになるから乞食は罪を犯す事になるが主人は正しいです。しかし、逆に主人が自分の手を伸ばして物を乞食の手に入れると、主人は罪を犯し、乞食は無罪です。」

このような数え切れない程沢山のルールは毎日の生活の最も細かい所まで行き届いて、覚えるどころか、従うのは大変でありました。

 

【律法学者達とファリサイ派の人々】

しかし、ユダヤ人の社会の中で律法学者達とファリサイ派と言うグループのメンバーは特に宗教の律法とその解釈を重んじて、何よりもその全てのルールを守ろうとしました。その為に、自分達が周りの一般の人々よりも敬虔な者と信じきて、プライドがとても高かったのです。さらに、全ての掟に徹底的に従いましたので、自分達が神の前に正しい人、すなわち義人だと思い込んで、他の人を「罪人」と呼びました。「私達は骨折って律法を完全に守りますので、神は喜ぶはずです。きっと誰よりも神は我々を愛する」と信じ、自己満足していました。

実は、律法学者達とファリサイ派の人々はイエス・キリストの行動を見て、憤慨しました。何故なら、主イエスはいわゆる「罪人」を村八分にするのではなく、彼等と会って共に食事さえもしました。その事によってイエスは汚れて来たと律法学者達とファリサイ派の人々が思いました。そして、イエスは儀式通りに自分の手を洗う事を忘れた時があったので批判を受けました。更にイエスは安息日に働いたと訴えられました。つまり、安息日に人の病気を治したり、空腹を覚える時、歩きながら穀物の穂をつんで食べました。ですから、主イエスは神の律法を無視する人と呼ばれ、律法学者達とファリサイ派の人々の目から見るとイエスは「罪人」の一人になってしまいました。

 

このような背景のなかで主イエスは山上の説教でこのように宣言しました。マタイによる福音書5章17の所を見て下さい。

「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。はっきり言っておく。全ての事が実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去る事はない。」

ここで主イエスがおっしゃった「律法や預言者」と言うのは旧約聖書に於ける掟のみです。決して律法学者達とファリサイ派が作り上げた細かい解説とルールではありません。主イエスは神が授けられた掟をとても大事にしましたけれども、人間が付け加えたルールを拒否しました。主イエスは 律法学者達とファリサイ派の人々にこのように言われました。「律法学者達とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。はっか、いのんど、ういきょうの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべき事である。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえもこして除くが、らくだは飲み込んでいる。」(マタイ23章23)

 

【律法の完成者・イエス】

おっしゃられた通りに、主イエスがこの世に来られたのは律法を「完成する為であ」ります。しかし、ここでの「完成」とはどう言う意味でしょうか。律法学者達とファリサイ派の人々の宗教はルール中心になってしまいました。つまり、心がどんなに黒くても、ただルールに従って生きたら、大丈夫です、義人です。表面的にルールに従ったら、神の律法の本当の目的とスピリットを無視しても良いのです。言うまでもありませんが、そのような宗教は深みのない表面上の空しいものです。つまり、人の心が変わらなくても少し頑張ったら外面的なルールは十分に守れます。イエス・キリストが説いた信仰はルール中心的なものではありません。心からのものです。キリスト者の動機は愛であります。そして本当の愛は心から出て来ます。神は先ず私達を愛して下さいましたので私達は神と隣人を愛します。主イエスの十字架の贖い死を通して、神は私達に対する御自分の愛を示されました。私達は心からの感謝の動機で神を喜ばせるような生活を歩みたいのです。心にある愛と感謝のゆえに主に従います。

 

【心からの義】

今日の個所、5章20節に主イエスは言われました。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者達とファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入る事が出来ない。」

つまり、私達の義が心から来るものでなければなりません。そして、21節から主イエスは心からの義を説明して下さいます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける。』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と主が言われました。

【心の罪】

マスコミでは殺人事件をよく聞きますが、実は、ほとんどの人には殺人と言う犯罪を犯すのは簡単ではありません。却って、人を殺害するのは難しい事だと思います。しかし、その反面、人に腹を立てる事と人に対する悪口を言う事は簡単であり、誰でもその経験があると思います。

ユダヤ教の律法は殺人を禁じましたけれども、心にある殺人の種、つまり、怒りと憎しみは扱いませんでした。

主イエスは心からの義を説いて、律法を完成されました。ただ殺人を行わないということだけでは十分ではありません。主によりますと、怒りと憎しみと悪口もしてはいけないと言っています。

 

【心の変革】

誰でもある程度自分の外面的な行動を監督出来ますが、心の中にある思いと感情と態度をコントロールするのはなかなか難しいです。しかし、神は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥底まで見ます。神からは何事も隠れられません。ですから、何よりも人間は心の変革が必要であります。その変革に関して主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新に生まれなければ、神の国を見る事は出来ない。」(ヨハネ3章3)そして、使徒パウロはこのように書きました。「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から出る事である。」(コリント二5:17)

実に神のみが私達の心を造り替え、新にして下さいます。主イエス・キリストを救い主と神の御子として信じ頼ると、神は私達の心の変革を始めて、私達は心からの義が分って来ます。どうか、私達一人一人は何よりもそのような心からの義を求めましょう。

 

 

 

 

 

5、心からの義II    ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.10.16

 

マタイ5章27-48

 

律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

     

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

 

【私達の幸福のために律法はある】    

考えて見ますと、人間同士の関係に似ていると思います。例えば、子供が両親のルールをただ仕方がなく、表面的に、あるいは良くない気持ちで守ると、きっと親子の関係はうまく行くはずがありません。ついには壊れてしまいます。ルールは子供の安全と成長の為に親によって作られたものです。子供がその事に対する理解がなく、また親の愛を認めず、ただ最低限のルールに従っていたら、ルールの恩恵はあんまり受けられなくなります。人間の親と同じように神は私達の積極的な、心からの服従を求めておられます。それは何よりも私達の幸福の道となるからです。

 

旧約聖書の預言者エレミヤは主イエス・キリストが提供するこの「心からの義」を待ち望んでいました。エレミヤは神の御言葉をこのように語りました。

 

エレミヤ書31章3133節「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼等の先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。私が彼等の主人であったにもかかわらず、彼等はこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼等の胸の中に授け、彼等の心にそれを記す。私は彼等の神となり、彼等は私の民となる」と神はエレミヤを通してお語りになりました。

 

「私の律法を彼等の胸の中に授け、彼等の心にそれを記す」と神は約束されました。実は、主イエスが教えられた「心からの義」はその約束を実現されたのです。おっしゃられた通りに、イエス・キリストは律法や預言者を完成する為に父なる神によってこの世に遣されたのです。

 

【腹を立てるな】

山上の説教に主イエスは具体的に「心からの義」を説明して下さいました。そして、その教えによって律法が完成されました。先週マタイによる福音書5章21節と22節にあるこの主の教えを学びました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と主が宣言されました。

 

主イエスによりますと、ただ外面的な行動、すなわち殺人を遠慮する事は不十分であります。私達の心にある殺人の種である怒りと憎しみも神の御心ではありません。その事も自分の心から取り除かなければなりません。怒りと憎しみを抱くと第一自分が惨じめになって、心の平安どころか、神の恵みも経験し難くなります。

 

【姦淫するな】

今日の個所の27節を見ますと、更にこの主イエスの御言葉が記されています。「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と主イエスは宣言されました。姦淫その行動は十戒に禁じられていました。しかし、十戒は姦淫の種、つまり「みだらな思い」は扱いませんでした。主イエスによりますと、私達の心を見る神にとっては、みだらな思いもいけない事です。それは姦淫の原因と動機になりますので、止めた方が良いと強く勧めておられます。その思いがなければ、もちろん行動も伴いません。更に、みだらな思いで人の妻か人の夫を見ると、心が汚れて来て、神との関係を邪魔します。山上の説教の八福を覚えていると思います。その中の一つは、「心の清い人々は、幸いである。その人達は神を見る」のであります。(マタイ5:8) みだらな思いに夢中になると、神を見るどころか、却って心を見られる神を避ける気持ちが生じます。言うまでもなく、神の交わりを避けると主イエスが提供して下さる霊的な豊かな命を経験するのは難しいです。

 

【誘惑を遠ざける】

29節に主イエスはこの驚くべきお話しをされました。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」とおっしゃいました。ここでイエスは文字通りに目をえぐり出して捨てる事と、手を切り取って捨てる事を勧めていないと思います。主は具体的な表現を用いて躓きから遠ざかる必要性を強調しています。もし何かが私達に罪を犯す誘惑になるのなら、そのものから逃げた方が良いと言う意味なのです。この事は常識に思えますが、弱い私達は余にも忘れがちです。

 

皆さんはもう既に知っていると思いますが、私は食べ過ぎる傾向があります。特に甘いものと健康にあまり良くない物が好きです。ですから、出来るだけそう言う物を家の中に持ち込まないようにと決心しました。買って家に置いておくと、誘惑に負けて、われ知らずすぐ食べてしまいます。ここで大げさな表現を通して主イエスは、誘惑になる物から遠ざける必要性を力強くて教えられます。

 

【離縁】

次に主イエスはこのように言われました。31節を見て下さい。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者は誰でも、その女に姦通の罪を犯させる事になる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯す事になる。」

 

旧約聖書の律法は決して離婚をよしとは認めませんでしたが、ただその存在を認知して、離婚制度を認めました。しかし、主イエスはここで離婚の事よりも、結婚に対する神の意思を述べました。マタイによる福音書19章に主イエスはその神の意思をはっきりと伝えられました。「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁する事は、律法に適っているでしょうか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだ事がないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。』」それは結婚に対する神の御心です。ですから、出来るだけ結婚の関係を守らなければなりません。だだ離縁状を渡せば簡単に結婚を終わらせると思う事は私達を思いやられる神の御心ではありません。しかし、罪と弱さの故に、ある場合に離婚は必要となりますが、いくら言っても、それは最後の手段として選ぶべきです。

 

【偽りの誓いを立てるな】

続いて33節を見て下さい。『「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓った事は、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。(37節に飛ぶ)あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上の事は、悪い者から出るのである」』と主は言われました。

     

イエスの時代、約束する時、人々は色々な言葉を用いて誓いを立てる習慣がありました。そして、ある人は約束の時、もし誓いを言わなかったら、その約束を守る必要がないと言う態度を取りました。また、誓ってない場合、偽りを言ってもかまわないと思う人もいました。ですから、人間の間で真実を守る為に、主イエスは「一切誓いを立ててはならない」と言われました。つまり、私達はいつも本当の事を言って、また約束を守るのは神の御旨です。真実と忠実があれば、誓いが必要ではないと主は教えられました。

 

【復讐は神のなさる事】

今度はイエスはこの驚くべき事を言われました。38節を見て下さい。『「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰ががあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰がが、一ミリオン行くようにしいるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」』

復讐してはならない。それは私達を思いやられる神の御心です。復讐は神のする事ですから、その事を神に任せるべきです。私達は復讐すると、復讐にまた復讐とエスカレートして、大変な状態になってしまいます。ですから、悪循環を防ぐ為、復讐はしてはならない事です。

 

【強制する人に】

主イエスの当時、ローマ軍は民間人を無理に働かせる事がよくありました。例えば、報いなしで荷物を強制的に運ばせました。その事に対してイエスは「誰かが、一ミリオン行くようにしいるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と教えられました。一ミリオンは二キロ弱の距離になります。ですから、命令された二キロではなく、自分から進んで、四キロまで軍人の荷物を運びなさいと主が言われました。何故でしょうか。やはり、自分の中に軍人に対して恨みをいだくよりも、二倍の奉仕をする事によって強制する人に自分の自由を見せられると言う事です。恨みをいだく事は自滅的な行為ですけれども、自分の自由を見せられるのは解放的です。

     

【完全な天の父の子となる】

最後に主イエスは敵に対する愛を教えられました.43節の所を見て下さい。『「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい。あなたがたの天の父の子となる為である。」』

覚えていると思いますが、主イエスが説いた愛は暖かい感情よりも、人に対する善い行動であります。そして、敵に善い事をするとき、私達は神の行動を手本とします。それは「あなたがたの天の父の子となる」と言う意味なのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」から、私達も敵に善い事をしなければなりません。更に、敵は私達の愛を受けると、変わる可能性があります。使徒パウロがその事を覚えてこのように書きました。『「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、かわいていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む事になる。」悪に負ける事なく、善をもって悪に勝ちなさい。』」(ローマ12:20)

 

主イエスは今日の個所をこのように閉じます。46節を見てください。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じ事をしているでなないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れた事をした事になろうか。異邦人でさえ、同じ事をしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は私達に言われます。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ここで主イエスは不可能な事を私達に要求しているようですね。この世にいる限り私達は神のように完全な者にならないと思います。しかし、主イエス・キリストの愛と助けによって、それは私達の目標です。神様どうか、私達一人一人の心を造り変えて、あなたの義を授けて下さいと祈りましょう。

 

6.心からの敬虔         ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.10.23

 

聖書:マタイ6章1-18

 

【施しと祈りと断食】

主イエス・キリストの当時、敬虔なユダヤ人だと言う人は誰でも信仰生活で、必ず三つの事を行いました。それは施しと祈りと断食です。敬虔な信者は少なくともその三つの宗教的行為を実行しました。ユダヤ人はこの三つを大変重んじましたので、主イエスも山上の説教でこれを扱いました。施しと祈りと断食と言う行為を通して、イエスは神が望んでおられる「心からの敬虔」を教えられました。

     

さて、今日の個所の始めのところ、マタイによる福音書6章1ー4を見て下さい。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いを頂けない事になる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者達が人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼等は既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせない為である。そうすれば、隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる」とイエスは言われました。

 

【善行の動機】

イエスも善行と施し、その行動を大事にしました。しかし、善行その行為よりも、善行の裏にある私達の態度と動機をもっと大切にしました。実は、動機が誤まったら、善行の霊的な意味がなくなるからです。主イエスによりますと、もし人の褒め言葉と賞賛を得る為と言う動機ならば、神はその善行を高く評価しません。更に、自分が他の人よりも偉いと言う気持ちで良い行いをすると、神はその善行をも受け入れません。

     

何故かと言いますと、人の賞賛と自分の優越感の為に良い行いをすると、その行為は基本的に神とは関係がありません。つまり、神の栄光の目的の代わりに、自分の栄光の為だったら、それは全く無宗教的な行いになります。そして、無宗教的な行いなのに、それを神と信仰の為だと出張すると、偽善者になってしまいます。また、人からの賞賛と言う報いをもう既に頂いたら、神からの報いがないと主イエスが教えられました。

【優越感と虚栄心でなく】

実は、イエス様の時代、ある人々は出来るだけ多くの人の前で施しをしました。人から褒められようと会堂や街角で貧しい者にお金や食べ物をやりました。そして主イエスによりますと、彼等は施しを与える時、「自分の前でラッパを吹き鳴らしました。」つまり、見せびらかすように施し物を貧しい者に恵みました。もし皆が善行を見てもらわなかったら、もったいないと言う気持ちです。動機が誤まっているから、それはしてはいけない事だと主イエスが言われました。結局、神を喜ばせる為にしたのではなく、自己満足させる為にしましたので、敬虔の現れよりも自分の優越感と虚栄心を明らかにします。

 

【心からの敬虔】

その自己中心的行為の代わりに、「施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない」と主はお勧めになりました。すなわち、静かに、密かに善行と施しをする方が良いと主が言われました。そして、動機が正しいですから「隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる。」

 

本当にこの現代に住んでいる私達にはなかなかこのような事は見られません。今の時代は自分を自分でアピールする時代だと言われています。何でも全てを言葉と行動で目立たせてしまうのです。表に出ているものそれ以上は何もないような気がします。また、人々はそれだけで全てを判断する傾向があります。しかし、まだまだあるところでは神の働きが残っているようです。

 

【ある親子の隠れた善行】

ある男の人が畑をやって、秋になるとジャガいもを収穫しました。小さい息子と一緒にジャガいもを掘って、洗ってから乾燥する為、日差しの良い所に広げました。そして、乾いたいもを十個数えて、その中から一番大きい一個を別の紙袋に入れておきました。 「十分の一は神の物ですから、一番良い物を神様に捧げましょう」と息子に説明しました。その仕事が済んでから早速、一番良いいもを車に積んで、町で一番貧しい地域へ行きました。その所に入ると特別にみすぼらしい家を見つけました。そして物干し竿に子供の服が沢山掛けてありました。その家からちょと離れた所に止めて、静かにジャガいもを持ってその家のドアの前にこっそりと置いて帰りました。「本当に神様に捧げたような気持ちだった」と男の人は思いました。芋を頂いた家族は恩人が分りませんでしたが、その男の人と息子は主イエスが教えた心からの敬虔を実行して、大きな恵みを受けました。

【祈りについて】

次にイエスは祈りについて語られました。5節を見て下さい。「祈る時にも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者達は、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼等は既に報いを受けている。だから、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が報いて下さる」と主が言われました。

 

主イエスの時代、敬虔なユダヤ人はどんな事をしても、必ず午後3時に仕事を休んで、何処にいても、ちょっとの時間、個人的祈りを捧げていました。その3時はエルサレムの神殿で祭司が皆の為に生け贄を捧げたからです。その祈りは個人的なのに、ある人は3時になると、わざわざ賑やかな所へ行って皆が見えるように祈祷を捧げました。祈祷の内容は分らないけれども、イエスのある譬え話に一人の偽善者の祈りが残されています。「神様、私は他の人達のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない事を感謝します。私は週二度断食し、全収入の十分の一を献けています。」(ルカ福音書18章11)

 

実は、偽善者の祈りは神に向けていません。神よりも周りの人、すなわちそれを見ている人の為でした。または優越感に溢れる自分自身に向けていました。ですから、主イエスによりますと、もし報いがあれば、その報いは神からのではなく、人間からのみ来るものなのです。つまり、祈りは神だけに向けるべきものですから、祈りを通して自分の敬虔を周りの人に見せるものになると、神はその祈りを受け入れませんと私達に教えられています。

 

先日、総理大臣は靖国神社へ行って、祈りを捧げました。言うまでもなく、靖国神社と小泉首相はキリスト教信仰とは関係がないですけれども、彼の行為は主イエスの教えをよく例証すると思います。つまり、首相によりますと、今度の参拝は公式ではなく、ただ一般市民としての個人的な参拝だったと主張しました。しかし、もしその参拝がただ一般市民としての個人的な行為、すなわち、自分と「神々」の間の業であるのなら、どうしてマスコミや公の前に神社参拝をひけらかしましたか。本当に一般の市民としての個人的な行為であるのなら、静かに行うはずです。小泉首相の動機は何処から来たのでしょうか。色々言えると思いますが、間違いなく、その靖国神社参拝はおもに人の目の為だと思います。

 

【異邦人の祈り】

主イエスは続けて祈りについてこのように教えられました。7節を見ますとこの御言葉があります。「また、あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べではならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼等のまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存知なのだ」と主がおっしゃいました。

 

イエスの当時、異邦人、すなわちユダヤ教従でない人は自分の神々に願う時、しつこく祈りました。そうしないと、神々が祈りを無視する恐れがありました。そして、神々が自分の願いを叶えてくれるように意味のないマジックのような決まった言葉を用いました。しかし、唯一の真の神はくどい話や無意味な表現で動かす事が出来ません。愛する神は全ての心からの祈りを聞いて下さいます。また、主イエスが言われた通りに神は「願う前から、あなたがたに必要なものを御存知なのだ。」ですから、祈る時には意味の分らない決まった表現を避けた方が良いのです。子供が親に直接に願うように父なる神に願うべきであります。

 

【主の祈り】

続いて、主イエスは手本になる祈祷を教えて下さいます。その祈りは「主の祈り」と呼ばれて来ました。私達はもう既に主の祈りを詳しく学びましたから、ここで扱うつもりはないけれども、二つのコメントをしたいと思います。先ず、手本になる主の祈りは「天におられる私達の父」、つまり、神のみに向けています。人向きの賞賛と批判、また人からの願いが全くありません。ですから、私達の祈る事も全て神を対象とするものになるべきです。ある時は人の賞賛や批判や願いなどが必要ですが、その目的でお祈りを利用してはいけません。祈りの内容全ては唯一の全能の神に向けていますので、人に言いたい事があれば、その人に直接言った方がましです。

 

また、礼拝の中、主の祈りを一緒に祈る時、その意味をあんまり考えなく、自動的に繰り返す場合があると思います。私もその傾向があります。主の祈りを唱える時、是非その意味を考えながら捧げましょう。

 

【断食について】

最後に主イエスは断食を扱いました。19節から読みます。「断食する時には、あなたがたは偽善者のようにしずんだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼等は既に報いを受けている。あなたは、断食する時、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れた所におられるあなたの父に見て頂く為である。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が報いて下さる」と主が教えられました。

 

ユダヤ人は神の前の謙遜と宗教心を表す為に断食をしました。また、自分の祈願を強くさせる為、断食しました。ユダヤ教の律法は、毎年一回の贖いの日だけに断食を義務づけられていましたけれども、ある信者は毎週二回程、一日中何も食べませんでした。その人たちは断食によって、自分の敬虔を見せ付けました。つまり、断食を守るとき、洗面せずに出掛けて、人の前にわざと苦しいそうな顔をしました。その事によって周りの者の尊敬を受けようとしました。

 

主イエスはそのような偽善的行為をしないように注意されました。何故なら、もし断食が宗教的な行為であるなら、宗教的な動機が必要です。ただ自分の敬虔を見てもらう機会と思ったら、宗教上の意味がなくなります。ですから、断食をする時、密かに自分の断食を守るべきです。断食は人に気づかれずに、顔を洗って、髪をちゃんとして、普通の様子をした方が良いと主が教えられます。そうすると、周りの者の賞賛の代わりに、神からの報いを受けられると主は約束されました。

 

イエス・キリストは私達に心からの敬虔を勧めて下さいます。人からの報いよりも、神からの祝福が遥かに優れたものですから。心からの敬虔には本当の恵みと祝福があります。どうか神が私達の動機と思いを清めてくださるように願っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

7.お金の使い方          ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.10.30

 

マタイ福音書6章19-34

 

【長年の謎】

1997年、長年の謎がやっと解けました。それは誰が、全部で数十億ドルを寄付したかという事です。その寄付を受けた福祉施設や学校や救済団体などは寄付者が全く分りませんでしたので、お礼の手紙さえも送る事が出来ませんでした。寄付金はいつも銀行口座宛小切手の形で送られましたから、寄付者は不明でありました。そして、小切手と一緒に来たメモには、送り主は無名で寄付したいと書いてありました。

 

マスコミは誰かが莫大な金額を無名で寄付している事を聞いて、その送り主の身元を調べました。そして、調査は10年程かかりましたけれども、やっと寄付者の名前が明かになりました。それは66歳のチャールズ・フィーニー社長でした。彼は大きな免税店チェーンストアのオーナーで、アメリカで400人のお金持ちの中の一人と思われました。しかし、詳しく調べたらフィーニー社長は実際にそれ程の金持ちではありませんでした。財産の99%をもうすでに寄付していましたからです。自分の会社の株を少しずつ売って、全部で40億ドル、すなわち、4600億円を密かに寄付していました。フィーニー社長は古い衣服を着て、5ドルの腕時計を使って、家も、車さえも持っていません。彼は本当に質素に暮しています。

 

フィーニー社長は想像出来ない程の豪華な生活が送られるのに、一体どうして99%の財産を手放して、そのような質素な生活を送っているのでしょうか。実は、彼は面接を全然許しませんでしたから、その答えがはっきり分りません。しかし、恐らくフィーニー社長はイエス・キリストから、財産について大事な事を学んだ事でしょう。

 

【地に富を積んではならない】

今日の個所、マタイによる福音書6章19節を見て下さい。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食う事も、さび付く事もなく、また、盗人が忍び込む事も盗み出す事もない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

【富は悪いものか】

イエス・キリストは富とお金についてよく教えられました。御自分の譬え話の3分の2位はその主題であって、私達が学んでいる山上の説教にも「富」が重要な課題として取り上げられています。神の御子主イエス様はどうしてお金と富の事をそれ程話題にしましたか。聖人だったら、この世のものよりも霊的な事に集中すべきではありませんか。実は、イエスは人間の心を誰よりもよく知っておられました。つまり、私達にとって、富の魅力、また、神の代わりに富に頼る誘惑を知っておられました。更に、主イエスは、私達が人の価値も自分の価値も、持っている財産によって見積もる傾向があると知っていました。ですから、富に対する私達の態度には重要な霊的意味があるので、主イエスはその課題についてよく教えて下さいました。

 

「あなたがたは地上に富を積んではならない」と主は言われました。つまり、生活に必要以上に富を積むと、その富に信じきって、神を忘れる恐れがあると主は教えました。譬え話を用いてイエスはその問題を取り上げました。

「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか』と言われた。自分の為に富みを積んでも、神の前に豊にならない者はこのとおりだ」と主が語りました。(ルカ12章16~21)。

 

そうです、地に富を積めば、神の代わりに富みに頼って、愛する造り主を忘れるのです。

     

更に、私達は人と自分の価値が、持っている財産で決まるとなると、大変不安ですね。もしその財産が無くなると自分の価値もゼロになってしまいます。主イエスの言葉では、富だったら、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」いくら注意しても、どんなに財産があっても、無くなる恐れがあります。株価の暴落があたり、会社がつぶれたり、銀行の破産で預けたお金が失われたり、信頼した従業員が自分のお金を使い込む事などあります。そして、いくら財産があっても、それは足りないように感じます。

 

ある新聞記者がトップ実業家6人と会見しました。皆は少なくとも数千万円の年収があったので、あまり経済的心配がないと記者は思いました。しかし、「一番心配する事は何ですか」と聞くと、皆は同じように答えました。それは、収入が足りないか、何かが起きて持っている財産を失ってしまう事でした。そして、「どのぐらいの収入で足りますか」と聞くと、皆は「もう少し欲しい」と答えました。

 

【天に宝を積む】

イエス・キリストは地上に富を積むより、「富は、天に積みなさい」と言われました。しかし、どのようにして、天に富を積む事が出来るのでしょうか。お金を天国にある銀行の口座に送金出来ますか。宝を宅急便で天までに先に送れますか。もちろんそれは不可能です。富を天に積むと言う事はやはり、この世で主によって託されたお金と財算を神の御用の為に用いる事です。つまり、神の栄光を現す為に、人助けや教会の維持や福音の宣教や社会福祉などに自分のお金を使うと天に富を積みます。そうすると神を喜ばせ、自分の事よりも、主の仕事に優先権が与えられます。

 

そして、天に富を積むと「そこでは、虫が食う事も、さび付く事もなく、また、盗人が忍び込む事も盗み出す事もない」とイエスが言われました。すなわち、自分の富を通して神の働きに参加しますと、その業は永遠に重要性があると言う事です。その事は神によって評価されているから絶対に無くならないし、忘れられていません。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と主が言われました。本当にその通りです。もし地上に富を積んで、その富を自分と自分の家族の為ばっかりに使うと、自分の心はそのレベルに留まってしまいます。その反面、自分の富を通して神様の働きに参加すると、心は天のレベルまで上げられます。つまり、富を天に積む事になります。

 

【明るい目、暗い目】

続いて、22と23節を見ますと、この主の御言葉があります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれ程であろう。」イエス当時の人々にとって、目は外にある光を受ける、窓のような物ではなく、目の中に光があって、その光を物に映す事によって人間が見る事が出来ると信じました。従って、目の中の光が駄目になったら、失明してしまい、人生が暗くなります。また、「駄目な目」にはもう一つの意味がありました。「駄目な目を持つ」と言う人は欲張りで物惜しみする人でした。その反面、「良い目を持つ人」は寛大で憐れみ深い人と言う意味がありました。ですから、周りの者と神の働きの為に生きる寛大な人は明るい心を持っています。しかし、ケチな欲張りは自分の為だけに生きているので、暗い存在です。

 

【ジョンD.ロックフェラー】

ジョンD.ロックフェラーと言う実業家はアメリカの石油産業を独占して、50歳になった時、世界一の金持ちになりました。しかし、莫大な富を積んでも惨めな人性を送っていました。精神的にも身体的にも霊的にも病気でした。生き甲斐と喜びを経験できず、心配ばかりの存在でした。「毎日、寝る前に、私の成功はたぶん一時的のものになると恐れた」と後で言いました。ある日、ロックフェラー氏は大きな変身を経験しました。富を積む人よりも、富を与える者になると決心しました。そして、世界の人々の健康と教育の為、相当なお金を寄付して、ロックフェラー財団を設立しました。その働きは生き甲斐になって、彼は98歳までハッピーな人生を送りました。そのロックフェラー財団は今も良き働きをしています。実に彼の「駄目の目」は「良い目」になって、光ある人生を歩み初めました。

 

【神と富とに兼ね仕える事は出来ない】

次は24節を見て下さい。「誰も、二人の主人に仕える事は出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらがである。あなたがたは、神と富とに仕える事は出来ない」とイエスは私達に教えられます。主イエスによりますと、誰でも大事な選択があります。それは自分の人生で何を、あるいは、誰を優先しますかと言うことです。富を優先すると神に仕え難くなります。どちらかを選択しなければなりません。

 

【ジョン・ウエスリーの説教】

ある男の人はメソジストの創始者であるジョン・ウエスリーの説教を聞きに行きました。そして、その説教の課題はお金でした。第一のポイントは「出来るだけお金を沢山儲ける」でした。「それは良かった」と男の人は友人に言いました。第二のポイントは、「お金を無駄に使わず、沢山を貯める」でした。その第二のポイントを聞くと男の人は大賛成しました。しかし、第三のポイントに来ると彼はあんまり喜びませんでした。それは、「お金を出来るだけ沢山与える」事でした。その第三のポイントを聞いて喜ぶ人は、富に仕えるのではなく、神に仕えているのではないかと思います。

 

【まず神の国と神の義を求めよ】

最後に、主はこのように教えられます。有名な個所ですが、もう一度聞いて下さい。25節以下34節まで「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉におさめもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、つむぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは教えられました。

 

愛する兄弟姉妹、これはお金の正しい使い方の鍵だと思います。神の愛と摂理を心から信じると、自分の為に地上に富を積む必要がありません。優先的に神に仕えると、神は必要な物を備えて下さいます。それは主イエスの約束です。その約束を本当に信じますと、お金の正しい使い方は問題ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.人を裁くな       ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.11.6

 

マタイ7章1一6

 

【皮肉屋の理髪店主】

次のストーリは本当か、どうかは分りませんけれども、ある男の人が理髪店へ行って、主人に髪を切ってくれるように頼みました。理髪店の主人は非常に頑固で何でも批判的な態度を取る習慣がありました。どんな話題であっても、彼の話はいつも悪口と酷評で終わてしまいました。「政治家は皆賄賂を取る奴ら」とか「今の若い人は怠け者ばっかりだ」のような発言で有名になりました。

 

散髪する間、いつものように男の人と主人の会話が盛り上がり、男の人は「出張でもうすぐイタリアのローマへ行くつもりなんだよ」と言いました。床屋さんは「どんな航空会社を使って、何と言うホテルで泊るのかい」とすぐ聞きました。そして、男の人が答えると床屋さんは、「あの航空会社は危ないよ。去年恐ろしい事故があったの覚えてるだろう。」そして、「特にそのホテルは酷い。サービスが最低だと聞いてる。ローマへ行かない方が良いじゃないか」と強く押し付けました。

 

「大事な仕事があるので、ローマへ行かなければなりません。そして、仕事が済んでからローマ法王に拝謁を賜りますから、是非行こうと思います」と男の人が返事しました。しかし、「ローマ法王は一番堕落した神父なのに、どうして会いたいのかい」と床屋さんが言い返しました。

 

数週間後、男の人はローマから帰って来て、理髪店へまた行きました。「ローマの旅はどうだったかい。多分大変だっただろう」と言う挨拶で主人が男の人を迎えました。「いいえ、素晴らしい出張になりました。航空会社もホテルも大満足しました」と答えました。「法王に会ったかい。がっかりしたでしょう」と主人が言うと男の人はこのように答えました。「もちろん会いましたよ。実は、法王の前にひざまずいて法王の指輪にせっぷんする事が許されました。大変な光栄でした」と男の人が言いました。

 

「教えて。その時、法王は何を言ったかい」と床屋さんが聞きますと、男の人はこのように言いました。「実は、ひざまずくと、法王は御自分の手を私の頭に置いて下さって、このようにお尋ねになりました。『我が子よ、この下手くそな散髪はいったいどこでされたのか』とお聞きになりました。」

 

【人を裁くな】

イエス・キリストはこのように教えられました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1)

 

【律法学者達とファリサイ派の人々】

主イエス御自身が当時の社会を見られたとき、問題が一つ明かになりました。それは特に律法学者達とファリサイ派の人々は自分たちを自ら任じる裁き人としていました。彼等は社会を見て、自分が決めた標準に達する事が出来ない人を厳しく裁きました。そして、その人々に「罪人」と言う名を付けました。もちろん自分達は決してその罪人の中にある者ではないと信じ込んでいました。結局、自分達がイスラエルの正しい裁き人と思い込みましたから、当然自分達が「義人」であると確信しました。もし自分達が罪を犯すのなら、その罪はあんまり大したものではないので、気にしなくても良いと思いました。そして、自分達が誰よりも「神の誇り」であると信じました。

 

自ら決めた裁き人、義人ですが、律法学者達とファリサイ派の人々は仕事がありました。それは「罪人」を探し出し、そして、その罪人を罰する事です。実は、その事によって自分達が神様に仕えていると信じました。自分達が「神の剣」と思い上がって、罪人を裁き、苦しめました。

 

彼等は結局自分達が犯した罪を隠して、あるいは自分の罪を実際より小さく見積って、他人の罪と過ちを注視しました。他の人と同じように人間と神に対して罪を犯しているのに、自分達が「正しい」と言う独善的な態度を取っていました。

 

【裁かれないために】

このような背景的事情から主イエスは「人を裁くな」と教えられました。それは単に人を裁く事がいけない事だからですか。あるいは、裁くと、罪を犯すことになるからですか。実は、主イエスによりますと、人を裁くなという理由は「あなたがたも裁かれないようにする為である。」つまり、裁く事と裁きを受ける事が繋がっています。イエスは更にこのように宣言しました。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」人間と人間のレベルだったら、それはもちろん事実その通りです。相手を厳しく裁き、非難しますと、いつかその事が自分に戻って来ます。つまり、相手によって裁かれる日が来ます。人間の心にある復讐の根は深いものです。傷つけられたら、傷をつけたい気持ちが強いです。ですから、自分が人を裁くと、人によって裁かれる可能性が高いのです。それは誰でも知っているはずの常識です。しかし、ここで主イエスはただ単に常識を教えるつもりではなかったと思います。実は、主イエスによりますと、私達が周りの者を厳しく裁くなら、そのような裁きを神から受けると予想した方がよいとおっしゃっています。つまり、神によって私達の「裁く裁きで裁かれ」てしまいます。私達の「量る秤で量り与えられます。」

     

【主の十字架の贖いにより罪が許された】

罪深い私達は神から憐れみを豊に頂きました。主イエスの十字架の贖いのお陰で私達の全ての罪が赦され、神に愛された子供として受け入れて下さいました。罪の支払う報酬は永遠の死なのに、神は御自分の独り子を犠牲にして、私達を救って下さいました。その大きな憐れみと御配慮を頂いた私達は、同じような憐れみと配慮を持って、隣人を扱うべきです。

 

この大事な事を教える為にイエスは譬え話を語って下さいました。同じマタイによる福音書に記されています。18章23以下の所を見て下さい。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来達に貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン(約一兆円)借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済出来なかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部を返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百テナリオン(約100万円)の借金をしている仲間に出合うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と主イエスが言われました。

 

この譬話の背景は今日のテキストの背景とはちょっと違いますが、同じような原則が適応されています。神によって赦されているので、私達は隣人を赦すべきです。同様に、神によって大らかに裁かれた私達は人を大らかに裁くべきです。そうしないと、私達は自分に対する神の比べられない程の愛と御配慮が分っていない、あるいは経験されていないと主が教えられています。私達に対する神の同じような恵みを隣人に現さなければならないと言う事なのです。さもないと、神の憐れみの代わりに、神の正しい裁きを受ける恐れがあります。

 

【自分の目の中の丸太】

続いて、主イエスは面白いイメージを用いて私達人間の弱さを教えて下さいます。今日の個所の3節を見て下さい。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。」

 

全人類は少なくとも一つの共通点があります。それは人をより厳しく裁きますが、自分自身を裁くときは、その裁きは非常に軽いです。つまり、自分よりも人に対する標準と期待が遥かに高い訳です。イエスが言われたように、私達は兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太になかなか気づかないのです。

 

車を運転する時、私は色々な、とんでもない事を見る事が出来ます。信号を無視する車。速度違反の車。非常に不注意な運転する車。大変失礼な運転の車。高速道路の車線の真ん中に車を止めて地図を覗いている事も見た事があります。そして、そのとんでもない事を目撃すると、色んな言葉が私の口から出てしまいます。ここではその言葉を繰り返すことをしませんが、その言葉は褒める言葉ではありません。しかし、よく考えて見ますと、実は私もたまにその同じような違反をうっかりしてしまいます。そして、正直言えば、知りながらでもする事もあります。けれども、その場合、自分自身を裁きますか。他人を責めた同じ言葉で私は自分を責めるのでしょうか。とんでもありません。もしした事に気づいたら、自分の行動をすぐ正当化します。「訳があるから大丈夫だ」、「しかたがない」とか自分に言い聞かせます。つまり、自分自身の行動を量るには別の標準があります。そして、その標準はあんまり高くはありません。

 

主イエスは私達にこのように指示します。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来る。」すなわち、人の過ちや弱さを直すように、先ず自分の過ちを心から認め、その過ちを直す必要があります。そうしないと、私達からの裁きは偽善的なものになります。

 

【蛇のように賢く、鳩のように素直に】

主イエスは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である」と教えて下さいました。では、私達は全ての事を許さなければなりませんか。人がどんな悪に陥っても、それを見過ごす事によって、私達は神の裁きを避けられる訳ですか。決してそうではありません。主イエスは人を裁きました。例えば、今日のテキストに律法学者達とファリサイ派の人々を「偽善者」と呼ばれたのです。「悔い改めよ」とはっきりと要求しました。「うわべだけで裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」と主が教えられました。さらに、今日の個所の最後の所にこのように言われました。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

ある面で私達は人を見分ける必要があります。ただ、その見分けが独善的、また破壊的なものになってはいけません。ある人の心は神の福音を閉じています。また、ある人はキリスト者に対抗します。私達は決してその事を忘れてはならないし、注意しなければなりません。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10章16)と主が更に教えられました。ですから、偽善者のように人を独善的に裁く事はしてはいけないけれども、眼識(がんしき)が必要です。また罪と戦わなければなりません。特に自分の中にある罪と戦う必要があります。そして、自分の目から丸太を取り除くと、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来ます。

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9.求めなさい            ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.11.13

 

マタイ7章7-12

 

【わたしたちの祈り】

皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。

 

【子供が親に願う事】

子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えらます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。

 

同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。

 

【求めなさい。そうすれば、与えられる】

今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)大事な事だと思いますが、ここで主イエスは、「 求めなさい。小さな願いだったら、与えられるかも知れません」とおっしゃいませんでした。いいえ、主は明快に、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と勧めて下さいます。つまり、祈る時、神には大きすぎるという祈願がない訳です。私達の天の父なる神は天地万物の全能の造り主であります。また、私達の愛する味方ですから、どんな願いであっても神には大きすぎません。

 

私達一人一人の為に神は御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わしました。更に、私達の為、十字架でイエスは犠牲になって、私達の最も大きなニーズに答えて下さいました。すなわち、信じる者に罪の赦しと永遠の命を賜りました。このような憐れみと愛に満ちている力強い神はもちろん私達の一つ一つの願いを聞いて、答えて下さいます。

 

【探せ、門を叩け】

主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と私達に教えられました。祈りを通して神に求める事は誰でも分ると思います。無神論者さえも大変な時、祈るでしょう。しかし、「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言うお勧めはどう言う事でしょうか。やはり、願いやニーズがあれば、口で主に求める事は必要ですが、更に私達の方から探す事と門をたたく事も大事です。ある時は、私達のお祈りを叶える為、 神は私達の方からの積極的な行動を望んでおられます。宗教改革者マーテイン・ルーテルはこのように言いました。「全ては神次第であるように祈りなさい。そして、同時に全ては自分次第であるように励むべきです。」

 

【祈り、探し、門を叩く経験】

わが家の車はデイーゼル車なので、国の公害防止対策の為、もうすぐ車検が受けられなくなります。まだまだ丈夫な車を廃車にするのは非常にもったいないと思っても、法律は法律ですから、なんとか対策を講じる必要がありました。つまり、車がないと西谷へ来るのは難しく、他の車を手に入れなければならない事が明白になりました。言うまでもなく、余裕があればその問題は簡単に解決出来ます。ただ代金を持って、デイーラーから車を購入する事です。しかし、それ程の余裕がないので、今年の春から私達は祈り始めました。つまり、主イエスが教えられたように求めました。「今の車は使えなくなります。これからも車がいりますので、どうか備えて下さい」と神に求めました。それは第一歩でした。また、主イエスの教えによりますと探す事と門をたたく事が必要でありました。神はもちろん私の協力がなくても、新しい車を備える力があります。天地万物の造り主には、それは簡単だと信じます。しかし、神がこの願いを叶えるように私の役割りがあると信じ、積極的に適切な車を探し始めました。そして、その車が見つかると色々な予算が分りました。そして、予算が足りないから門をたたき始めました。つまり、私達の働きをサポートして下さるアメリカの教会に手紙を出しました。それから「助けたい」と言う返事を貰いました。私達は現在の車の車検が切れる前に新しい車が手に入ります。それも私達の願いよりも遥かに良い物です。確かに、神は私達の願いを叶えて下さいました。求める事と探す事と門をたたく事、また御自分の民を通して、必要な車を備えて下さいます。この経験を通して「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言う主イエスの約束を私達は新に経験する事が出来ました。

 

【どんな悪い親でも】

次にイエスは短いストーリを用いて、私達に対する神の気前のよさを教えてくださいます。今日の朗読の9節の所を見て下さい。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を下さるにちがいない」と主が言われました。

 

イエスが言われた通りに、人間の親は誰でも出来るだけ自分の子供に良い物を贈りたいのです。子供がお腹が空いて、パンの代わりに石を与えて、そして、魚の代わりに蛇を遣ると、とても可笑しな親と思われますね。そのような酷い親がいれば、子供が取られてしまう方が良いと思われます。私達人間は本能的に自分の子供に良い物を与えたいのです。自分の子供の良い成長と幸福を何よりも願いたいのです。ですから親による幼児虐待事件を聞くと、びっくりします。大体、人がどんなに堕落しても、どんな酷い犯罪を犯しても、少なくとも自分の子供は守って、良くさせたいのです。ですから、主イエスによりますと、言うまでもなく、完璧である、私達の愛する天のお父さんは私達に良い物を授けたいのです。そのような神は求める者と、探す者と、門をたたく者の願いを聞いて下さいます。

 

【祈りはどのように叶えられるか】

しかし、だからと言って私達は神に何でもかんでも求めても良いのでしょうか。もし一所懸命に探して門をたたくと、主はどんな物、どんな事でも授けて下さる訳ですか。宝くじで1等に当たるように熱心に祈ったら、きっと叶えられますか。もちろん、もしそれがあなたの為の神の御旨であったら、叶えられると思います。しかし、聖書の全体的な証を見ると、祈りは神から、私達の自己中心的願いを貰える方法ではないと分ります。ですから、願う時、「あなたの御旨であれば」と神に祈った方が良いです。神は全ての心からの祈りを聞いて、答えて下さいます。しかし、その答えはいつも「yes」ではありません。

 

覚えていると思いますが使徒パウロは「身に一つのとげ」が与えられたとコリントの信徒達に書きました。その「とげ」は多分身体的な病でした。「離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました」とパウロは語りました。しかし、その神からの答えは、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12:9)とパウロが書きました。更に主イエスは十字架に向った時、このような祈祷を捧げました。「父よ、出来る事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどうりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。

【万事が益となるように】

ある時は、愛する天のお父さんは私達が願う事の代わりに、丁度必要な事を与えて、あるいは、願ったものよりも、もっと良いものを授けて下さいます。私達に対する神の愛は完璧ですから、どんな事があっても、その愛を信じ、全てを主に委ねる事が出来ます。そして、使徒パウロと同じような証が出来ます。それは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私達は知っています。」(ローマ8:28)

 

【人生の黄金律】

神は求める者に良い物を下さいますから、私達は積極的に隣人に良い行動を見せるべきと主が言われました。最後に、主イエスはこのように教えられます。12節を見て下さい。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と主は宣言されました。実に、神は先ず私達を愛して下さいましたから、また、私達の全てのニーズに答えて下さいますから、私達は周りの者に手を差し伸ばして、人にしてもらいたいと思う事を、人にする事が出来ます。どうか、私達一人一人は神の愛を豊に受け入れ、その愛の手本を学び、同じような愛を毎日、毎日、隣人に現せるように、助け導いて下さいますように祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10.命を選びましょう    ウイリアム・モーア

西谷聖書集会2005.11.20

 

マタイ7章13-29

 

【豊かな命を与える主イエスの教え】

今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

 

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

 

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 

第一のアドバイスとして、主イエスは滅びに通じる広い門の代わりに、命に通じる「狭い門から入りなさい」と私達に勧めて下さいます。ここでイエスは門と道のイメージを用いて最も大事な真理を私達にはっきりと掲示して下さいます。それは、私達の人生にはただ二つの到着地と二つの道のみがあると言う事です。そして、その到着地はどちらか、命かまたは滅びなのです。

 

滅びに通じる門と道は広いですが、真の命に通じる門と道は狭いです。そして、どんな到着地に着くかは、どちらの道を歩むかの次第であります。主イエスによりますと、道の選択は二つしかないから、知っていようがいまいが私達皆は今、どちらかの道を歩んでいるのであります。  

 

【滅びにいたる広い道】

広い門と広い道とはどう言う事でしょうか。簡単に言えばそれは人間が決めた命と救いへの全ての道です。歴史を見ますと、人間は数え切れない程の命と救いへの道を考え出しました。一つの道は自分の善い行いによる救いなのです。つまり、善い行動によって自分の救いを稼(かせ)ごうとします。自分が善い人、あるいは自分の善い行いは悪い行いより多いから、救われると思いたい人が大勢います。しかし、天地万物の造り主はそのようには計算いたしません。御言葉にこのお話があります。「私達は皆、汚れた者となり、正しい業も全て汚れた着物のようになった。私達は皆、枯れ葉のようになり、私達の悪は風のように私達を運び去った。」(イザヤ書64:5)

 

私達は皆、神に対して、また隣人に対して罪を犯しますので、救いを自分の善によって勝ち得る事は全く不可能です。ですから、本当の命と救いの道を歩みたいなら、自分の善い行いに頼る事が出来ません。それは滅びに通じる広々した道なのです。

 

また、人間は色々な宗教を作り上げ、救いを求めます。しかし、救いの方法は人間によって決まるものではありません。救いは唯一の全能の神のみにあるのですから、私達人間が救いの方式を作り上げるのは極めて愚かで傲慢です。その広々した全ての道は滅びに導びきます。

 

そして、ある人はこのように考えます。「どんな宗教でも、また、どんな生き方でも私達を同じ目的地に案内します。もし真心こめてその道を歩むなら、大丈夫」と信じます。つまり、全ての道は同じ救いに至るから、どの道を選ぶのも構いません。道はただ好みの問題か習慣の問題になると言います。それは実は甘い考えです。全ての道は自分を同じ目的地に到着させる訳ではありません。それは誰が考えても常識です。

 

【命にいたる狭い道】

イエス・キリスト御自身は私達の救いと命に至る唯一の道です。イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行く事が出来ない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知る事になる。」(ヨハネ14章67)

 

主イエスが言われたように、その道は確かに狭いです。御自分以外には救いが全くないからです。けれども、考えてみますと、不思議にその道は同時に一番広い道になります。何故なら、その道を歩む資格が一つだけあります。それは信仰なのです。「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である」(ヨハネ3:16)と聖書に記された通りです。神の御子として、また自分とこの世の唯一の救い主としてイエス・キリストを心から信じるなら、命と救いを得ると約束されています。つまり、私達は救いと真の命を自分の長所によって勝ち得る必要がありません。実は罪深い私達は救いを勝ち得る事は全く不可能です。それは初めから終わりまで神の賜物です。そして、信仰によってのみその賜物を頂けます。

 

【にせの教えを見分けるには】

また本当の命と救いを得るように主イエスは第二に、この大事なアドバイスを提供して下さいます。15節を見て下さい。「偽預言者を警戒しなさい。彼等は羊の皮を身にまとって、あなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である」と主が私達に言われます。ここでの偽預言者達は誰でしょうか。16節に「その実で彼等を見分ける」と主が教えられます。実は、主イエスが開いて下さった狭い門以外を勧める者の実は悪い訳です。彼等は偽預言者です。何故なら、彼等の教えはイエスがもたらした本当の命と救いの代わりに滅びに通じる門に導くからです。広い門と広い道を説く者のメセージは甘い言葉に聞こえるかも知れないが、実際にその到着地は救いの道ではありません。空しさと滅びに至ってしまいます。ヨハネの手紙一にこの御言葉が記されています。「愛する者達、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたと言う事を公に言い表す霊は、全て神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分ります。イエスのことを公に言い表さない霊は全て、神から出ていません。」(4:1)真の命に導く道から迷はないように、常に偽預言者を警戒しなければなりません。それは主イエスの第二のアドバイスです。

 

【生活の指針としてのイエスの教え】

今度は主は御自分の教えを聞くだけではなく、実際に毎日の生活にその教えを生かす重要性を強調します。私達の信仰はただ頭の中の概念ではないし、口先ばかりのものでもありません。もし主イエスの教えが私達の行動に影響しないと、大事な事が欠けていると主が言われます。21節をお読み致します。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入る訳ではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」と注意して下さいます。つまり、口先で「主よ、主よ」と言いながら、実際に主の教えを無視する信仰は足りないです。その信仰を持つ者は天の国の働きになかなか参加し難いです。日常の歩みに主から習った事を実行する必要がある訳です。ヤコブの手紙に記されているように、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)

 

この重要な事を悟らせて下さる為、主イエスはたとえ話を語られました。多分何度もこの有名なたとえ話を聞いた事があるでしょうが、新に聞いて下さい。24節から朗読します。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている.雨が降り、川があるれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」と主が語られました。

 

【末期がんの先輩牧師のこと】

先輩の牧師は、60代前半ですが、今危険な病気と戦っています。体がだんだん弱って来て、動く事と話す事も難しくなって来ました。先のたとえ話のように、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」先輩を襲いかかっています。しかし、彼は病気と戦いながら、出来るだけ与えられた責任と奉仕を果たしています。先週、私はこの先輩の牧師に会議で会って驚きました。体がかなり弱って来ました。しかし、彼は希望と生き甲斐があって平安のうちに自分の働きを続けています。彼は大学の理事長ですから、会議の始めに聖書を朗読して、奨励とお祈りをしました。その中で彼は御言葉を常に聞いて従う重要性を強調しました。後で一緒に帰りましたが、その時先生は私に言いました、「恐らく再びここに戻る事がないから、今日の話は私の遺言のようでした。どうしても、このメセージを残したかったのです。」

 

やはり、先輩は一生、主イエスの御言葉を聞くだけではなくて、実際に行う者でした。しっかりした土台に立つ事が出来ました。つまり、主イエスから学んだ事を毎日の生活に実行して来ましたから、信仰は自分の行動に根深いものになっています。どんな事が襲って来ても平安と希望を持つ、素晴らしい証を立てられます。そのような土台のみが私達を支え、豊かな命へと導きます。

 

どうか、私達も一人残らず、真の命を選んで、山上の説教で学んだ主イエスの教えを実行したいです。それこそが命に通じる門であります。

(おわり)

 

 

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